第4話 ごく普通の……?家庭の食卓

 夜になると糸は渋谷区に建てられている自宅マンションでいつものように家族と夕飯を食べる。常盤家は父が仕事で帰れない日以外は、一緒に夕食を食べるのがルールで1つのテーブルに並べられた4つの椅子が埋まっている。


「糸、今日の学校はどうだった?」

 隣に座っている父親の照が唐揚げをおかずにご飯を食べながら糸に聞いていた。42歳細身の体ながら、スウェットの下には見た目以上にがっちりとした肉体が詰まっている。

「今日も特にないかな。帰りに食べたコンビニのアイスが美味しかった」


「え~、糸兄ちゃんいいな。お母さん今度それ買って来てよ」

「そんなもの食べるなら、綾は豆腐ばっかりじゃなくてちゃんと白いご飯を食べなさい」

 照は綾をやさしく叱った。


 糸には2つ下の妹がいる。それが前に座っている常盤綾。中学生ながら身長167cmと糸よりも背が高い。ショートカットの髪はスポーティーさを感じさせていた。

「甘いものは脳が回るから勉強も効率的に出来るんだよ」

 中三になる綾は受験生のため、ここ最近は塾でご飯を食べていたが今日はたまたまお休みであった。

「そういえば糸、今日の洗濯かごにジャージが入っていなかったけど、どうしたの?」

 斜め前に座る母、常盤京が糸に訊ねた。


 ジャージは今頃糀家にあり、自分でもどうでもいいと思っていたが、毎日家事をこなしている京には異変として感じ取られた。

「持ち帰り忘れた。明日持ち帰るよ」

「いつもは帰ったらすぐ洗濯かごに入れてくれているのに、そうなのね」

 ハーフアップに纏めた髪はまわりからおっとりとしているとよく言われる母であるが、趣味で推理小説を執筆しているせいか何故かそういうところは鼻が利く。


 糸が暮らしている常盤家は、そんなありきたりな会話が絶えない心地の良い場所だった。

「お父さんは、何か捜査に進展あった?」

 綾が何気なく聞くと、父照の動かす箸の手が止まった。

「ございません」

 頭を下げると、綾はアハハと笑う。

「せっかく公安に入れたのだから、もっと活躍して貰わないと」

「京は厳しいな——」

 照は警視庁に勤める警察組織の一員である。去年の9月までは23区内の平穏な街に佇む警察署の交通安全課の職員だったが、突如10月から霞が関で正義という存在感を放つ警視庁本部の中に存在する公安第一部の一員となった。

 警察署勤めの頃はワークライフバランスがきっちりと取れていたが、異動してからは国民の安全を犯罪組織から守るため、仕事が激務となりこうして家族と食事を囲む機会も減ってきている。


 照は着実に顔色が悪くなっているのは周りから見ても明らかであった。

 糸がちらりと、照の横顔を伺うと親子で眼を合わせた。

「どうした、糸? 俺の口に何かついているか?」

 確かに口の周りにご飯粒がついているが、だから顔を伺っている訳でない。

「いや——」

「学校でなんかあったのか?」


 父親が警察組織の一員だからこそ、実はクラスメイトの女子とヒーローごっこをすることになりましたとは伝えられないし、一度だけと言えど、バレる訳にはいかない。

 照は糸に「学校では大人しくしていろ」と言う。父から受ける忠告はそれしかないくらいで、どうしてそれにこだわるのかを疑問に思っている。


「あのさ、お父さんが俺にいつも大人しくしろって言うけどその通りにしているよな? そもそもどうして大人しくしておいた方がいいんだ? 昔は大人しくなかったのか?」

 糸が昔のことを自分の記憶に訊ねるのではなく、家族に訊ねるのは、自分自身の過去の記憶を失っているからだ。


 定かに憶えているのは、2年前の記憶から。その記憶の始まりは病院のベッドの上にいた時だ。家族からは事故に巻き込まれた衝撃のせいで一時的に記憶喪失になったと説明され、子ども時代の糸と今まで家族と過ごした思い出を話してくれた時は納得したが糸の心の中には何故か他人事のように感じている。

 思いつめているといつの間にか綾や京が糸を心配そうに見つめた。


 照は箸を置いて口の周りについたご飯粒を取る。

「確かに昔のお前は今よりかやんちゃだった。大人しくしろと言うのは、せっかく転校して環境をかえたのだから、記憶がないという事実を周りに知られないほうが糸にとって都合がいいと思うからだ。記憶を取り戻すまでは、ゆっくり日常に馴れてくれ」


 確かに昔のことが分からない限りは目立たないようにしておいた方が良い。

 家族は自分が自然に日常を取り戻すためにあらゆる努力をしてくれた。

 照の異動と同時に住む場所を変えて環境を一変させてもらえた。その準備として高校は通信生の学校を選択して、治療に専念しながら高校一年生までの学勉と社会常識や義務教育の履修といったリハビリもさせてくれたため、学校の人たちは糸が事故にあったことすら知らない。

「そうだな、焦ることじゃない。高校生活を楽しむよ」


 すぐに糸が納得すると、常盤家は普段の食卓に戻った。

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