◆ 女王蟻

 目まぐるしく時は過ぎ、季節の移ろいを感じ始めたある日、いつものように迎えた朝一番に王国の中から出てきたのは、これまでと少し違う王国民たちだった。

 彼らの背中に生えた翅には見覚えがあった。そのうちの一人が泉の前へと歩みだし、座り込むとそっと泉の水面に足をつけた。

 周囲にいる翅のある他の王国民たちは、静かに彼女の様子を見守っていた。

 私もまた彼女を見つめ、そして息を飲んでしまった。その顔、その姿、そしてあの翅。間違いない。もうずいぶんと前に顔を合わせたあの女王蟻に違いなかった。


「ああ、あなた。やっと会いに来てくれたのね。今までどうしていたの? 私、あなたとずっと会いたかったのよ」


 あまりに嬉しくなって、恥じらいもなく赤裸々にそう告げると、女王蟻は不思議そうに私の顔を見上げてきた。

 首を傾げるその姿は、他の王国民たちに比べていっそう愛らしかった。


「やっと?」


 と、女王蟻がひと言声を放った瞬間、私はある事に気づいた。


 ──違う。


 ようやく気付いた。あの女王蟻ではない。こんなにも似ているのに、本人ではない。まじまじとその姿を眺めていると、彼女は恥ずかしそうに微笑み、足をあげて膝を抱えながら私を見上げてきた。


「もしかして、女王ははの事かしら」


 彼女は言った。


「女神様、あなたの事は女王からよく聞かされております。お初にお目にかかれて光栄です。でも、わたしは姫として、兄弟たちと一緒に此処を飛び立たなくてはいけないの。一族の血を広めるために、新しい王国を築かなくてはいけないの」


 目を輝かせて語る姫を、私はじっと見つめていた。

 ああ、そうか。もうそんなに時間が経ったのか。昨日の事のように思い出せるけれど、いつの間にかこんなにも時間が経ってしまっていた。

 私はこみ上げる思いを胸に、姫に向かって訊ねた。


「あの子は元気?」

「女王の事? ええ、とても元気です。これまでも、これからも、あなたのお陰で元気でいられるはずですよ。あなたが生きている限り、女王も元気でいられる。より深い場所であなたと繋がれて、女王はとても幸せそうです」


 くすりと笑う姫の姿に、私はほっとしてしまった。

 会えなくとも、一緒にいる。より深い場所で繋がって、幸せでいてくれている。私が生きることと、彼女が生きることが重なり合うことが、こんなに嬉しいなんて。

 感慨にふける私に向かって、姫はさらに言った。


「わたしは女神様と女王の絆を胸にしまい込んで、同じように絆を結べる相手を探しにまいります」

「そしてあなたもまた女王になるのね」

「はい、女神様。あなたのように美しく気高い御方のもとで立派な王国を築きます」


 無邪気に語る姫を前に、私は少し心配になった。


「外は怖いわ。あらゆる危険があなたに襲い掛かるでしょう。それでも行ってしまうの?」


 姫の姿は、在りし日の女王蟻の姿によく似ていた。

 無邪気な彼女は運が良くて私のもとまでたどり着いたけれど、目の前の彼女はどうだろう。恐ろしい現実が待っているというのに、素直に送り出していいものか迷ってしまった。

 だが、姫はにこりと笑ったまま頷いた。


「ええ、勿論。だって、わたしは女王になるために生まれてきたのですもの。どんなに怖くても、どんなに危険でも、背中に翅を頂いて生まれてきたからには、世界を飛び回らないとならないの」


 立ち上がって堂々と語る姫の姿は、私の目には眩しすぎた。

 小さくとも女王の器に違いない。そんな事を思わせられる一方で、私はかつての女王蟻の姿を重ねていた。

 彼女との出会いを歓迎してはいなかった。それでも、あれから時が重なり、思い出も重なり、いつしかかけがえのない存在になっていた。

 この姫もまた、誰かとそのような関係を築くのだろうか。

 築いて欲しい。無事に女王になって欲しい。そう願いながら、私は彼女を見送らねばならなかった。


「そろそろ行かないと」


 そう言って背を向ける姫に、私は思わず声をかけた。


「待って」


 振り返るどこか不安げなその顔に、私は最後の想いを告げた。


「どうか無事で。ここに負けない素敵な王国を築くのよ」


 新たな命が芽吹いてはあっさりと枯れて行くこの妖精の世界。彼女が生き延びて、無事に王国を築ける可能性はいかほどのものか。

 しかし、そんな不安は胸の奥へとしまい込み、私は姫の門出を祝福した。姫はそんな私をきちんと振り返ると、深々とお辞儀をしてみせた。


「行ってまいります」


 そして、今度こそ翅のある兄弟たちと一緒に旅立ってしまった。

 その背中をじっと見送り続けていると、いつもの王国民たちがぞろぞろと外に出てきて共に見送り始めた。彼女らに囲まれながら空を見上げ、私はこれまでの王国の日々を一つ一つ思い返していた。

 今も私の体の中にいる女王蟻は姫の旅立ちをどう感じただろう。彼女の温もりをじわりと確認すると、より一層、愛おしさを感じてしまう。

 誰かと共に生きる悦びがここにある。孤独に生きてきた日々にはなかったものを、今確かに噛みしめていた。

 どんどん小さくなっていく姫の姿をいつまでも目に焼き付け、彼女もまた自分の中で生まれ育ったのだという誇りを感じていた。

 姫の飛ぶ先に、たくさんの愛と希望がありますように。

 そう願いながら、私は自分の中にいる女王蟻に心の中でそっと語りかけた。


 ──あなたが産んで、私の体で育った姫が旅立っていったわ。


 返事は全く聞こえない。

 それでも、自分の体を抱きしめていると、遠い昔に話したあの女王蟻の声が聞こえてくるような気がして、私は温かな気持ちになれた。

 これから先もずっと私たちを取り巻く世界は美しくも厳しく、残酷な日々になるだろう。それでも王国民たちと共に暮らすささやかな幸せが私のすぐ傍にある。そして、今日の日のように育てた若い妖精を希望と未来を託して世界に放つ時も来る。

 その事を思うと、私はとても幸せになれた。そしてその晴れやかな思いは、姫の姿が見えなくなった後も、いつまでも残り続けた。

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