◆ 孑孑
侍蟻たちの襲撃から数日経って、王国にはすっかり平穏が戻っていた。せっせと働く王国民を眺めながら、狩りを続ける日々はこれまでと何も変わらない。けれど、一人きりで狩りをしていた頃とは違う些細な変化が今の私にはよい刺激となっていた。
せっせと働く小さな王国民はどれも健気で愛らしい。そんな彼女らの姿を見ていると、前にたった一度だけ目にした若き女王蟻の無邪気な姿が懐かしくなってくる。
今となってははるか遠い昔のようだ。
彼女はいまも私の中で元気にしているのだろうか。
その気配を体の中に感じる度に、私は仄かな幸福感に包まれた。
だが、そんな小さな幸せを打ち砕かんとする者は再び現れた。
それは、誰もが寝静まる真夜中。これまで目にしたことのない細身の妖精が耳障りな羽音を立てながら飛んできたのだ。また獲物がやって来たと思ったのも束の間、彼女の表情に私は嫌なものを感じた。蜜が目当てではなさそうだ。警戒する私を見つめ、その妖精はにっこりと笑いかけてきた。
「この辺りに素敵な死の泉があると聞いてきたの」
彼女はそう言った。
どうやら予感は当たったらしい。この妖精は只者ではない。
妖しげな笑みを浮かべながら、細身の妖精は泉の水面を軽くなぞる。
「噂通り、素敵な香りね。それに水底には美味しそうな死体がたくさん。栄養たっぷりのこの泉なら、あたしの赤ちゃんもお腹いっぱいになれそうね」
「あなたは何者?」
追い払いたい一心で怒鳴るも、細身の妖精は顔をあげて微笑みを浮かべた。
「さあね。誰だっていいでしょう。どうせあなたは逃げられない。それに生憎あたしも譲る気はないの。あなたの泉、お借りするわ」
「待って!」
止めようとしたがこの手は届かない。
細身の妖精はそんな私をあざ笑うように飛び回り、泉の中にぽとりと卵を産み落としていった。泉に沈む卵は溶ける様子が全くない。
「じゃあね、あたしの赤ちゃんをよろしく」
そう言い残すと、細身の妖精はあっという間に飛び立ってしまった。
自ら泉の中を浚うことも出来ず、私は途方に暮れていた。卵はどんどん沈んでいく。恐ろしい死の泉であっても、この卵の命を奪うことは出来ないらしい。
では、孵ればどうなるのだろう。悪い予感がした。わざわざ私の泉を選んで産み落としていったのだ。死ぬことはないだろう。
だとしたら、私はどうなるのだろう。あらゆる考えが過ぎり、私は身震いした。しかし、自分ではどうすることも出来なかった。
翌日、目を覚ました王国民たちが私の異変に目敏く気づいた。
「いかがなさいましたか、女神様?」
一人にそう問われ、私は正直に昨夜あった事を話した。
すると、王国民たちは泉の中を覗き込み、卵を探そうと目を凝らしていた。
「探しても無駄よ。とても小さいもの。孵ってしまったらどうなるのかしらね」
やや諦め気味にそう呟く私を、王国民たちは見上げてきた。
「女神様、私たちにお任せください。こういう時こそ私たちの出番なのです。お約束したでしょう。
自信ありげにそう言うと、王国民たちは止める間もなく次々に泉の中へと潜っていった。
溺れることもなく、溶けることもなく、王国民たちは泉の中にただよう卵たちを一つ残らず回収していく。中にはすでに孵っている幼体もいたらしい。けれど、そういった者も容赦なく、王国民たちは捕らえて全て王国の内部へと運んでいった。
彼女らの働きのお陰で、泉はみるみるうちに綺麗になっていく。それも、あっという間だった。あっという間に、昨晩のあの細身の妖精の企みは阻止されてしまったのだ。
全ての作業が終わり、王国民たちが雫を落す。
その様子を見つめながら、私は深い感謝を述べた。
「ありがとう。あなた達のお陰で助かったわ。泉を綺麗にするということ。その意味をやっと理解したの。あなた達がいて、本当に良かった」
「女神様!」
王国民たちはパッと明るい表情になった。
「これからも私たちにお任せください」
その無邪気な姿に、私はまたしても記憶に残るあの女王蟻の顔を重ねていた。
それからも、持ちつ持たれつの関係は続いていった。
ある時は王国民たちの危機を守り、ある時は私の危機を王国民たちが守り、お互いがお互いを補い合って過ごすこの共存関係は、続けば続くほど絆が深まっていく。
王国民たちは今やかけがえのない存在だった。
だが、日が経てば経つほど、恋しさも増していった。
もう長く、女王蟻の姿を見ていない。私の中で今も卵を産み続けているはずなのに、声すらも聞けていない。
初めて出会ったあの日が段々と遠ざかっていく。いつの間にか遠い過去のものになってしまったあの日の事が、今は懐かしくて仕方がなかった。
また会えるだろうか。
生きているかどうかは分かるけれど、顔を見て言葉を交わしたい。あの無邪気な笑みを、そして声を、もっと間近に感じたかった。
けれど、もしかしたらこの私の密かな願いは、もう二度と叶わないのかもしれない。そんな諦めに近い思いも抱きながら、私は王国民たちの生活を見守り続けた。
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