◆ 蟻

 奇妙なまでに堂々としたその姿を前に、私はもう何も言い返せず、頷くしかなかった。

 どうせ、私は動くことができず、彼女は動けるのだ。いつまでも拒んでいたって意味がないだろう。結局のところ、私は争いに負けてしまったのかもしれない。

 まんまと女王蟻の思い通りに事は運び、私の身体には王国が築かれることとなった。泉のすぐ傍に決して小さくはない穴があけられたかと思うと、若き女王蟻はその奥深くへと潜っていってしまったのだ。


 体内に穴を開けられたのだ。痛くないはずがない。それでも、彼女が体の中へと入っていく感触をただ味わっていると、何故だか妙に温かい気分に浸れた。

 このまま私の体の中で、彼女は卵を産み、王国が築かれて行くのだろう。そう思うと非常に不気味な感覚だったけれど、同時に恋しさのようなものが生まれた。

 女王蟻が私の身体に潜って以来、日が経つごとに私は彼女の姿を思い出すようになっていた。今頃、卵は産めただろうか。今頃、卵は孵っただろうか。気づけば事あるごとに女王蟻の事を考えている。

 しかし、答えはなかなか分からないままだった。静かな同居生活は続き、沈黙だけが私たちの間にある。確かに私の中にいる。それは分かるのに、顔も見せてくれないし、声も聞かせてくれないのだ。

 段々と私は心細さのようなものを感じ始めていた。

 こんな事は初めてだ。これまでずっと一人でいたはずなのに。

 あの女王蟻の笑みを見た日が遠ざかれば遠ざかるほど、恋しさが募っていく。

 これが孤独というものなのだろうか。


 そんな疑問を抱き始めたある日の事だった。変化は突然やって来た。身体に違和感を覚えて目を覚ますと、女王蟻が姿を消したあの穴から次々に小さな妖精が現れ、私の前にずらりと整列したのだ。

 王国民だ。

 いずれも若く、小さく、けれどあの女王蟻とどこか似た顔立ちだった。小さな王国民たちは初めて目にする景色に感激していたようだったが、私の顔を見るとすぐに跪き、代表と見られる一人が口を開いた。


「我らが女王ははよりあなたの事を伺いました」


 よく通る声で、彼女は言った。


「力弱き我らにとって、あなたはまさに守護女神と呼ぶべき御方。建国をお許しになった事、そして女王を受け入れて下さった事に感謝いたします」


 私は彼女ら一人ひとりを眺めた。

 とても小さく、数もそんなにいない。力弱き彼女らの立場は、さほど良いものではないだろう。だが、彼女らもまたあの女王蟻の娘たち。私はふと気になって、彼女らに対して口を聞いた。


「あなた達も泉で泳げるの?」

「はい。その能力で女神様を助けなさいと言いつけられております。この泉を常に綺麗にするために努めなさいと」

「綺麗に?」


 半信半疑でそう訊ね返すと、王国民たちは自信ありげに顔をあげた。


「はい! あなたの泉を穢す不届き者からお守りいたします。ご安心ください。あなたのお食事を邪魔したりはしません」


 その彼女らの表情もまた、どこか女王蟻に似ていた。

 愛らしいけれど、呆れてしまう。

 出て行く気などてんでない。どんなにぞんざいに扱ったとしても、何一つとして良い事はないだろう。

 ならば、好きにさせた方がいい。

 私は結局そう判断し、王国民たちを見守ることとした。

 あれほど静かだった日々は終わり、賑やかな時代がやってきた。一日、二日と、長い時間が過ぎていったが、か弱い王国民たちが私の為になるような場面なんてあっただろうか。元より期待なんてしていない。もともとこの泉は綺麗なのだから。役に立つことなんて今後もないだろう。

 それでも、不思議なものだった。

 何処か女王蟻に似た王国民たちの生活を見守っているうちに、愛着がわいてきたのだ。


 こういう生活も悪くないかもしれない。

 毎日せっせと食べ物を運ぶ勤勉な彼女ら。時に羽目を外して私の泉で泳いではしゃぐ無邪気な彼女ら。集団でそれなりに楽しみながら生を全うする王国民たちを見つめているうちに、温かなものがぽっと心に灯ったのだ。

 そして自然と浮かんだ微笑みと共に思うのは、体の中に今もいるはずの女王蟻の事だった。彼女は今、どうしているのだろう。毎日、せわしなく卵を産んでいるのだろうか。

 ともあれ、私の生活は一変した。

 かつての静かすぎる日々はもう二度と戻ってこない。王国のなかった時代なんて想像できないほど過去のものとなり、いつしか王国民たちは私にとってもかけがえのない存在になっていた。

 まるで本当に守護女神にでもなったかのよう。


 だが、そんな日々を破壊する者は突如現れた。

 黒装束に身を包む妖精──侍蟻の集団だった。

 彼らの目的は食糧集め。その食糧とは、王国民の全てだ。私の身体に潜む幼子たちや、女王蟻もまた狙っているのだろう。

 王国民よりも大きな体を持ち、力もある彼女らを前に、王国民たちは瞬く間にパニックに陥ってしまった。

 すぐに捕まり、殺されてしまう王国民も出る中で、私もまた焦っていた。このままでは不味い。せっかくの王国が滅んでしまう。

 私は急いで生きている王国民たちに告げた。


「皆、泉の傍に隠れなさい」


 王国民たちはすぐさま従った。だが、黒装束の侍蟻たちもそれをしっかり聞いていた。泉へ集まろうとする王国民たちをしつこく追いかけてくる。けれど、それが私の狙いでもあった。王国民たちは器用だった。泉の壁にしっかりとしがみつくことが出来る。けれど、侍蟻たちは違った。我先にと王国民たちを狩ろうとした者から、真っ逆さまに泉へ落ちていってしまったのだ。

 同じ蟻でも彼女らは王国民とは違う。


「退避、退避、退避!」


 辛うじて落ちることのなかった侍蟻の一人が叫び、他の者たちが慌てて散り散りになっていく。落ちてしまった戦士たちは、次々に溺れ、泉の底へと沈んでいった。あとはじわじわと溶かされていくだけだろう。

 仲間たちの惨劇を目にし、侍蟻たちはすっかり戦意を失った。一目散に逃げていく彼らを見送りながら、私はただただ震えるしかなかった王国民たちを見つめていた。

 やっぱり彼女らはとても弱い。私が守ってあげなければいけない存在だった。

 それならば、守ってあげるだけのこと。私はもう昔の私に戻れないのだ。一度知ってしまった観察の楽しみは、良い退屈しのぎでもある。それに、今や王国民たちは、我が子のように愛しい存在でもあった。

 侍蟻たちの気配がすっかりなくなると、私は王国民たちに告げた。


「もう大丈夫よ」


 すると、王国民たちは恐る恐る壁を這い上っていった。そして、泉の周囲に整列すると、犠牲になった仲間たちへの哀悼だろうか。祈りを捧げ始めた。

 彼女らの姿を見守り、私もまた哀愁に浸った。覚えのある姿がいくつか見られない。王国の内部に潜んでいるかもしれないが、いくらかは殺され、連れ去られてしまったのだろう。もう戻っては来ない。その事に寂しさを抱きながら、私もまた祈りを捧げた。

 こんな気持ちは初めてだった。

 私がここまで愛着を抱くなんて。

 同時に、ここまでホッとするのも初めてだった。体の中には今も、女王蟻の気配がする。彼女の無事が本当に喜ばしかった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る