泉の妖精

◆ 靭葛

 太陽と月の女神たちが見守るこの森は、命犇めく美しい世界ではあるけれど、数多の妖精たちが日々戦いを繰り広げる厳しい世界でもあった。

 そんな森の中で有利なのは、翅のあるもの、力のあるもの。か弱く大して動けない、或いは動くことすら出来ない花や木の妖精は、いつだって弱者に違いなかった。

 ならば、私はどうだろう。

 森の片隅に暮らす私は動くことすら出来ない花の妖精である。緑や赤の鮮やかな衣装は自由に動ける他種族の妖精たちのためのもの。そして、私の身体に存在する甘い香りのする泉もまた、戦いの中で癒しを求める彼らの為のものだった。


 けれど、私は決して心優しい女神であるわけではない。この泉こそが私の武器であり、罠であった。甘い香りに誘われて、まんまとやってきた可憐な妖精たちは、皆等しく騙されて泉で溺れて死んでしまう。その屍こそが私の生きる糧だった。

 美しい妖精も、愛らしい妖精も、心優しい妖精も、私にとっては食べ物でしかない。

 仲良くなろうと無邪気に近寄ってきた者もまた、私の目には美味しそうにしか見えなかった。愚かなまでにお人好しならば結構な事。仲良くなるふりをして、手に入れることもしばしばあった。

 私は冷酷なのだろうか。そうかもしれない。だが、それならば、この森自体が冷酷だ。死なない為に他者を騙し、食い荒らし、そうして長生きするように定めた者こそが冷酷なのだろう。

 しかし、何のために生きるのだろう。

 獲物が溺れる度に、私はただただそんな事ばかりを考えていた。


 彼女がやって来たのは、そんな日々を送っていた時の事だった。

 しなやかな体を持つ、翅の生えた愛らしい娘。私の泉の傍にちょこんと座ると、足を少しだけ水面につけ、ゆらゆらと揺らしていた。無防備な彼女は、大人になったばかり。絶好の獲物であることは確かだけれど、それにしたって彼女の訪れは興奮を隠すのが難しいほどの好機だった。

 何故なら彼女が、若き女王蟻の妖精だったからだ。

 生まれながらにその資格を持ち、巣立った者。その若き身に恋というものを教えられ、新たな王国を築くための旅をしている途中だったらしい。それはつまり、私にとって極上の獲物に他ならない。

 この機会を逃すまいと、私は彼女に呼びかけた。


「いらっしゃい。よく来たわね。甘い蜜の香りが気になったの?」


 すると、若き女王蟻は驚いたように私の顔を見上げてきた。


「これって、あなたの身体の一部なの?」


 幼気なその声にその表情。彼女が知ったのは恋だけだ。恐ろしいこの世界の真実は、まだ何も知らないのだろう。

 それは私にとって絶好の条件だった。

 高まる気持ちを抑え、うんと優しい笑みを作って私は彼女に頷いた。


「そうよ。でも、この泉はお客様のお持て成しの為のもの。あなたのように愛らしいお客様が来るのを待っていたの」

「一人きりで?」


 女王蟻はそう言うと、周囲を窺った。


「ここはとても綺麗だけれど、とても静かね。ひとりぼっちで寂しくはない?」

「あなたのようなお客様が度々やって来るから寂しくはないわ。自慢の蜜に喜ぶ姿を見るのが大好きなの。さあさ、あなたも召し上がれ」


 そう言って、私は泉の屋根となっている大きな葉を揺らした。途端に広がるのは、甘い蜜の香り。大抵の妖精たちはこの香りで頭がおかしくなる。そして、意地でも蜜を貰おうと身体をよじ登って行き、その途中で、或いは蜜に酔いしれて、足を滑らせて泉に落ちるのだ。女王蟻だろうと同じ事。翅を使って飛ぶ余裕すらないままに、この泉の水底で溶けるのを待つことになるだろう。

 そうとも知らず、若き女王蟻は目を輝かせた。


「いい香り。貰ってもいいの?」

「勿論。心行くまでお飲みなさい。私の蜜はたくさんの妖精に癒しを与えてきたの。あなたもきっと癒される。旅の疲れや緊張がだいぶ解れるはずよ」


 女王蟻はそれを聞くと、うんと喜んだ。

 可哀想に。あと少しで自分の王国を築けたのに、彼女は運がなかったのだ。いや、警戒心に恵まれなかったと言ってもいい。

 とにもかくにも彼女は疑うことが出来なかった。そして、小さな足を使って私の身体をよじ登り、蜜を欲して急いだのだ。私はワクワクしながらその様子を見守った。途中で落ちることはなく、女王蟻は蜜の滴る葉の裏側までたどり着いた。そして恐る恐るその雫を一滴口にして、途端に凍り付いたように動かなくなってしまった。

 蜜まで到達した獲物は誰だって同じ反応を見せる。それだけこの蜜は美味しいわけだ。あまりに美味しい蜜は妖精を破滅させる。絶品の蜜を持つ花の妖精が、妖精同士の戦争を引き起こすことだってあるのだから。

 私の蜜もまた、そういう類のものだ。けれど、この蜜は戦争を招かない。招く前に、口にした者が死んでしまうからだ。

 狂おしいほどの味が、若き女王蟻の心を奪う。そして、彼女は──。


「きゃっ……!」


 彼女は、ただでさえ滑りやすい葉の裏で、蜜に酔ったがために足を滑らせ、死の泉へと真っ逆さまに落ちていった。

 待ち望んだ瞬間に、思わず笑みがこぼれてしまった。

 翅を伸ばす余裕もないまま、彼女は泉に落ちていった。あとは溺れるのを見届けるだけ、そしてその素晴らしい身体が溶けていくのを待つだけだ。亡骸が完全に溶けてしまうまでの間、きっと私は最高の気分に浸れるだろう。物珍しい獲物が少しずつ自分のものとなっていく喜びは、どれだけ大きいものであることか。

 けれど、世界は広かった。

 この森の事を知らないのはどうやら私も同じだったらしい。

 これまでの私の常識では、この泉に落ちた妖精は誰一人として助からない。それなのに、この女王蟻は違ったのだ。落ちた彼女は溺れもせず、再び浮かび上がると無邪気にも笑ってみせたのだ。


「ああ、驚いた。あんなに気を付けていたのに」


 そして、驚くべきことに軽々と泉を泳いでみせると、溺れることもなく泉から上がってきてしまったのだ。

 私は動揺してしまった。声も出せないほど驚いた。

 そんな私の驚きにも気づかずに、女王蟻は全身の水滴を落としながら、私を見上げてきたのだった。


「とってもいい味だったわ。ご馳走様」


 無邪気に礼まで言われ、私は黙って頷く他なかった。

 そんな私に、女王蟻はさらに持ち掛けてくる。


「ねえ、ご馳走になったついでにお願いがあるの」

「お願い?」

「うん。あのね」


 女王蟻はもじもじとしながら私の指を握り締め、つぶらな瞳でねだってきた。


「あなたの身体に、王国を築かせて欲しいの」


 それは、とんでもない願いだった。


「何を……言っているの?」


 ぽかんとしたままどうにか問い返すと、女王蟻は上目遣いで私を見つめてきた。


「わたしの故郷もあなたのような姿をした大きな妖精さんの身体に築かれていたわ。他の妖精さんだって同じ。でもあなたは一人のよう。ちょうどいいでしょう?」


 若き女王蟻の子供のような言い分に、私は呆れてしまった。

 自分の身体が他種族の者たちの王国になる。そんな事をどうして許容できるだろうか。これまでずっと絶対的捕食者として君臨してきた私が、血縁でも何でもない他種族の女王のために身体を貸すなど全く考えられなかった。


「何も良くないわ」


 私はきっぱりとそう言った。


「ここはたくさんのお客様の為の泉なの。あなた一人のものじゃないし、王国なんてもってのほかよ」


 けれど、女王蟻はしつこかった。


「ねえ、お願い。どうしても何処かに王国を築かなくてはいけないの。ねえ、痛いのはちょっとだけよ。あとは大人しくしているから、お願い。悪い話じゃないわ。しばらく経てば、王国民たちが外に出てきて、あなたを女神と崇めてお世話を始めるのよ。ねえ、悪くないでしょう? だから、ここに居させて。あなたの蜜を気に入ってしまったの。それに、美しい泉とそれを守るあなたの姿にわたし、惚れてしまったのよ」


 きらきらとした目で語る若き女王蟻の姿に、私は悩んでしまった。

 蜜を褒められたことはある。褒められたところで何も感じなかった。どうせその者はそう経たないうちに死ぬだけだったから。

 けれど、彼女は死ななかった。死ななかった上に、容姿も含めてここまで気に入られてしまって、真っすぐな眼差しで褒められてしまうと、何故か悪い気がしなかった。何よりも、愛らしい姿に縋りつかれてしまうと、これまで感じたことのないような心地よさを感じてしまったのだ。

 この気持ちは一体。

 戸惑いつつも、しかし、そう易々と折れる気にもなれない。私は結局、突き放すように女王蟻に向かって告げたのだった。


「お世辞が上手いのね。そこまで言うのなら、作ってみなさい。でも、邪魔だと判断したら、王国ごとあなたを潰してしまうわ。それでもいいの?」

「ええ、構わない。わたし、絶対に役に立つもの。あなたにとっても素敵な存在になれるはずよ」


 やけに自信をもって女王蟻はそう言った。

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