美味しい味になるまでは

◆ 胡蝶

 蛹から出てきてみれば、そこは記憶の彼方にあった故郷とは全く違う場所だった。

 記憶は朧気ながら、確かに残っている。本当なら、わたしの羽化を心待ちにしてくれている姉がそばにいるはず。そう約束していたはず。

 けれど、待っていたのは姉ではなかった。

 優しい微笑みを浮かべながら、羽化したばかりのわたしの全身を見つめていたのは、全く知らない女だったのだ。

 これまで見たこともないほど美しく、喉が渇いてしまうほどの甘い香りのする他種族の女。その艶やかさにわたしはしばし目を奪われてしまった。


「ごきげんよう。言葉はわかる?」


 彼女の問いに、わたしはぎこちなく頷いた。

 声を出そうとしたけれど、喉の奥が張り付いてしまったかのように言葉にならない。何を恐れているのだろう。こんなに優しそうな笑みを浮かべているのに。

 困惑するわたしを見つめ、彼女はさらに優しく目を細めた。


「お返事はともかく、伝わっているようね」


 そう言って、彼女はわたしの体を拭き始めた。

 温かく柔らかなその布は、故郷で使われているものとは比べ物にならないほど心地いいもので、ついつい思考が滞りそうになってしまう。

 けれど、ふと、わたしは我にかえり、ごほんと咳払いをしてから彼女に訊ねたのだった。


「ここはどこ? どうしてわたし、ここにいるの?」


 掠れ気味だったけれど、とりあえず声は出た。

 すると、女はくすりと笑い、すべすべとした手でわたしの肌を撫でながら、ぎゅっと抱きついてきた。


「どうでもいいじゃない、そんなこと」


 耳元で囁かれるその吐息が甘く、わたしは恍惚としてしまった。

 彼女の匂いと魅惑がじわじわと肌に沁みこみ、腹の虫が小さく鳴った。そこで、わたしはやっと空腹を自覚をし、彼女についても一つの気づきを得た。


 ――獲物だ。


 子どもの頃からずっと同じ。

 この女はわたしの食べ物だ。かつて食べ物だった。

 そして今も、命までは奪わないけれど、その身体より生じるものが、わたしの腹を満たしてくれるはずなのだと。

 わたしは振り返り、彼女を正面から見つめた。

 非常に整った目鼻立ちだが、好ましいのは顔だけではない。その体つき全てが、わたしの美意識と食欲に働きかけてくるものだった。


 この女は花だ。

 体には蜜がたっぷり詰まっており、わたしに吸われるのを待っている。優しい微笑みも、甘えるような仕草も、すべてはわたしに愛でて貰いたいからなのだ。

 気付いてしまえば、もう我慢できなかった。

 無言のまま向き合って、彼女に口づけを迫ると、それを待っていたと言わんばかりにあっさりと受け入れてくれた。

 唇を重ね、その中の味を確かめてみれば、途端にわたしの思考はとろけてしまった。

 まるで生まれる前からわたしのことを知っていた何かに乗っ取られてしまったかのように、わたしは彼女を貪り始めていた。


 おいしい蜜がここにある。

 蛹化前の子どもの頃には想像すら出来なかった至高の味に、わたしの理性は貫かれていた。


 その後の記憶は曖昧だ。

 蜜の味に取りつかれたまま、豊満な花の身体をすみずみまで堪能したのだったと思うが、全てが終わったあとでは、あれはすべて夢だったのではないかと疑問に思うほど、ふわふわとした時間だった。

 けれど、わたしが花と関係をもったのは事実だし、たった一度で、もはや彼女なしでは生きていけない身体にされてしまったのも事実だった。

 お腹がいっぱいになっても、彼女の甘い香りはわたしを幸福で包んでしまう。彼女にしがみつくのに疲れたあとは、力なく抱かれていた。


 どうしてここにいるのか、この花は何者なのか、知っておくべきことは頭にあるはずなのに、蜜の味が、香りが、わたしの思考を惑わせた。

 もはや全てどうでもいい。だって飢える心配はないのだもの。

 あれだけ蜜を奪われても、なおも元気そうな彼女に好きにさせながら、わたしはふと故郷の姉を思い出そうとした。

 けれど、駄目だった。

 顔を、声を、匂いを、手触りを思い出そうとしても、すべて目の前の花にかき消されてしまうからだ。

 きっと心配しているだろう。けれど、わたしは大丈夫。

 お腹いっぱい美味しい思いをしながら、暮らしていけるはずだもの。

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