◆ 花
蛹の中で眠る蝶は、身体と一緒に心に宿る世界そのものを作りなおしているらしい。蛹化前に見たもの、聞いたものの記憶を分解して、ひとつひとつ丁寧に繋げていくのだと。
だから、蛹であろうと積極的に話しかけることは、羽化したばかりの蝶の心身の手助けになるのだという。
半信半疑ではあったけれど、私はいつもその蛹に声を聞かせていた。
思い付く限りの優しい言葉を並べては、可能な限りの優しい口調を心がけた。
大人になる喜びを説き、精神が狂うほど美味しい蜜を約束し、蛹にそっと塗りつけたのだ。
そして、彼女は羽化した。
出てきたのは期待通り、いや、期待以上に愛らしく、淫らな蝶の娘で、有り難いまでに欲望に正直な心身を持ち合わせている。
彼女が羽化してから、私の楽しみは増えた。
欲望で繋がっているだけの関係が、私の働きかけで面白いほどに変化していくものだから、いつの間にか私も彼女に夢中だった。
羽化して間もなく、この世に再誕生したばかりの彼女はとにかく目先の悦楽を求め、食欲を満たしたがったものだったが、庇護されながら安全に過ごすことに慣れてしまうと、今度は新しい刺激に興味を抱き始めた。
彼女はやはり捕食者なのだ。
生粋の花誑しであって、他の蝶たち同様、多くの花の心を弄び、美味しい蜜と共に花たちの乱れ咲きを楽しむために生まれてきたのだ。
だからだろう。
いつの頃からか、彼女は懸命に私の優位に立とうとしはじめた。
これまではずっと蜜を与えるために抱き抱えていたのに、気付けば彼女の方が私を抱くようになっていた。
彼女の目的は私を喜ばせること。きっとそれが本能なのだろう。その手、その唇で、私を楽しませようとしてきたのだ。その健気な姿はただただ可愛くて、いつまでも観ていられるほどだった。
けれど、どんなに楽しくとも彼女はやはり小娘でしかなかったし、彼女自身もそんな私の態度に気づいていた。
月の光の美しい夜、食事を散々楽しんだ余韻とともに、彼女を抱き支えながらその頭を撫でていると、ふと彼女が私に問いかけてきた。
「どうだった?」
懇願するようなその甘え声に、私は軽く溜め息を吐きつつ答えた。
「よかったわ」
それこそが彼女の求める答えに違いない。
けれど、やはり薄っぺらさが気になったのか、彼女もまた、私の胸元にすがったまま溜め息を漏らしたのだった。
「わたしね、大人になりたいの」
彼女の囁く声が胸をくすぐってくる。背中を撫でながら、私は囁き返す。
「羽化したのだから、もう大人でしょう?」
すると、彼女は「違う」と呟いた。
「大人だけど、大人じゃない。だってわたし、あなたに養われているのだもの。あなたの蜜に生かされている。本当は自分の力で花をその気にさせて、気持ちよく蜜を捧げさせなくてはいけないのに……」
微笑んでしまいそうなのをこらえつつ、撫でることはやめなかった。
つまり蝶としての誇りのようなものに、心を揺さぶられているわけだ。その苦悩すら可愛いものではないか。
「私は十分、楽しませてもらっているわ。あなたが私だけの蝶でいてくれれば、それでいいの。あなたが空腹に喘ぐだけで、私はすっかりその気になる。だから、わざわざ何かしようと思わなくてもいいのよ」
本心からの言葉だった。
けれど教え諭すような口振りが気に入らなかったのか、彼女は口を尖らせつつ「そうかしら」と、小声で不満を漏らした。
「わたしはそうは思わない。だって、わたしは蝶だもの。きっとあなたを狙って別の蝶がやってくる。そのとき、あなたを守れるくらい強くならなきゃいけない。しっかりしなきゃいけないって、わたし、思うの」
本当に、本当に、健気なものだ。眩いほどに真っ直ぐで、気高い。
彼女を抱き締め、私は震えた。蛹を手に入れたときは、こんなにも素晴らしい蝶が眠っているなんて思いもしなかった。
きっとあのまま蝶たちの世界にいれば、仲間を引っ張る立派な大人になっていたに違いない。
だが、この子はもう私のもの。私だけの蝶。私を楽しませるためだけに存在している。
今頃、この身体の隅々に私の蜜が染み込んでいるはずだ。心すらも私の甘い蜜に侵され、丸ごと虜になっているだろう。
「今すぐに強くならなくたっていいの」
私は彼女に言い聞かせた。
「ゆっくり、じっくりでいい。私の蜜があなたの身体に染み込んで、身も心も熟していくまでは、焦らずにいなさいな」
「けれど……」
呟きかける彼女の口を、唇で封じてやった。
口移しで蜜を飲ませてやれば、途端に彼女の目は潤んでいく。
そっと口を離し、「疲れたでしょう。今は眠りなさい」と、言い聞かせてやると、その心は呆気ないほどに眠りの精霊に連れていかれてしまう。
力を失った無防備な身体を抱き締め、その隅々に口づけをして、花や異性を虜にするその肢体を確かめていった。
この関係はまだまだ続く。けれど、いつかは終わりがくるだろう。
永遠なんてものはない。だから、いまを堪能する。
関係を深めれば、味わいもまた深まっていく 。
だから、ゆっくり、じっくり、この子の味をよくしていこう。
そう、いまは――。
いまはまだ、食べ頃ではない。
まだまだたくさん愛し愛され、絡み合っていこうじゃないか。
そして時が来たときは、じっくり、ゆっくりいただいて、静寂と孤独に包まれながら、彼女の思い出を味わおう。
それが私――食虫花としての誇り。
だから、いまは。
いまだけは、終わりを眺めながらこの子の生を喜ぼう。
美味しい味になるまでは、この関係を楽しもう。
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