◆ 似我蜂

「できないわ。だって、貴女、まだ生きているじゃない」


 母親と違う。それとも、母親もかつてはそうだったのだろうか。

 どうせわたしはもう動けないのだ。彼女は躊躇う理由などない。つまらない偽善でわたしの心を弄ばないでくれるだろうか。そう文句を言うための口も動かない今、ただじっと少女の決心を待つことしかできなかった。


「どうして……どうしてなの、神様。どうして、わたしはこの人を食べなくてはいけないの……?」


 抱きしめられて、わたしは悟った。

 ああ、この少女は長生きできない。今のわたしは食べられるために存在しているというのに、どうしてこの子にはそれが分からないのだろう。

 少女は死神であり、天使でもある。死は安らぎだ。視界はもう暗いままだ。もう二度と日の光の下に出られない今のわたしにとって、死は救済でもあるはずだった。

 少女は卵から孵ったばかり。そのことが分からない。死は残酷だということをもう理解している。けれど、卵の中で知識を与えた神様は、大切なことだけを教え忘れている。この慈悲は残酷なものだった。

 動けない、喋れない、抱きしめ返すこともできないわたしにとって、少女のこの温かな心はつらいものでしかなかったのだ。


「ずっと夢見ていた。ながい夢だった。わたしを待っている女の子は綺麗だった。貴女は綺麗。綺麗な子。もっと綺麗になれたはずだって神様は言っていた。本当なの?」


 問われるも答えることは出来なかった。


「お腹がすいた。でも、貴女を食べられない。どうしたらいいの。わたしは、どうしたら……」


 縋りつくように問い続ける少女が、だんだん可哀想になってきた。

 生きることに疑問を抱けばおしまいだ。わたしは疑問なんて抱かなかった。抱かずに草花を蹂躙し、翻弄する大人に憧れた。花の妖精たちの蜜の味も知らずに死んでしまうのは悔しい。しかし、残酷な死を与えられる前に、どうやらわたしは珍しい事態に触れることを許されたらしかった。

 何も言えないのが歯痒かった。でも、その分、少女の独白は続いた。


「ねえ、わたし、どうしたらいいの?」


 少女は訊ねてきた。胡蝶の子と比べても可愛いと言える声をしている。いつかあの女のように優れた狩人になるのだろう。しかしそんな未来が想像できぬほど、今の少女はただ無垢なだけだった。

 わたしは少女のいるはずの場所を見つめた。ただ見つめていた。何も見えなかった。けれど、愛らしいはずの少女の姿を思い浮かべ、その無邪気な残酷さに震えていた。優しさが苦しい。楽にしてほしい。しかし、少女にそう訴えることも出来なかった。


「温かい」


 少女はわたしに抱き着いて、そう言った。


「あなたはまだ生きている」


 わたしは生かされている。何もかもこの少女のためだ。出来るだけ長く生きて、少女が大人になるだけの栄養となる。卵の殻は破れてしまった。世界に誕生するだけの栄養はとっくになくなっている。わたしを食べなければ少女は死ぬ。少女が死んだところで、わたしは助からない。

 それならばいっそ、美しい命の糧になりたいところだが、少女はそんなことにも気づかない。

 傲慢な少女は涙を流した。蛹になるまであと少しだったはずなのに、わたしは未来を奪われた。それはこの少女の為。少女が大人になるために、わたしの未来は犠牲になった。その犠牲を無駄にしようというのだろうか。心の中でいくら毒を吐こうとも、わたしの身体は動かないし、少女に伝える手段もなかった。


「わたしが守ってあげる。だから一緒に生きて」


 どこまでも傲慢な声だった。

 それから少女は何度もわたしに話しかけてきた。今がいったいいつなのか、ここに囚われてどのくらいの時間が経っているのか分からない。わたしは生きていた。生かされていた。何も食べずにどれだけの時間が過ぎているのか分からないけれど、生きていることは確かだった。

 少女も生きていた。卵の中で見たという神様の夢について話していた。わたしの反応がなかろうと、話しながら触れてきた。乱暴なことは一切なかった。食べようと思えばすぐに食べられるはずなのに、彼女はそうしなかった。


「わたし、あなたと一緒にいたい」


 お腹は空いていないだろうか。声に張りがないのは気のせいだろうか。触れてくる手がやつれているような気がした。卵から得た栄養はあとどれだけ彼女を生かすことが出来るだろうか。

 気づけばわたしは少女の声を聴くのが楽しみになっていた。何も見えない。動くことも出来ない。話すことも出来ない。そんな世界の中で、少女の声と感触は、何よりの刺激だった。


「わたしね、大きくなったらお母さんを探すの」


 無垢な少女は言っていた。


「神様が言っていた。わたしの誕生を願ったのはお母さんなんだって。とても楽しみ」


 声が弱々しい気がする。わたしは少女が心配になった。何も食べずにずっとそばにいる少女。わたしを食べてしまえば、すぐに大人になれるはずなのに。


「……お腹空いたな」


 少女は何度もそう呟いた。

 わたしを食べてしまえばいいのに。

 しかし、少女は乱暴なことを何もしなかった。何度も、何度も、話しかけてくる。わたしが反応できないと理解しても、話しかけて手を触れてくるのをやめなかった。今のわたしにとって、少女との関わりは何よりの恵みだった。

 可愛い少女。その姿は見えないけれど、蛹になれなかったこれまでの人生の中で、誰にも負けないほどの愛おしさだった。


 絶望がわたしの心を壊したのだろうか。

 わたしは少女に願った。

 お願いだから、わたしを食べてと。

 わたしを食べればこの子は死なない。恐怖なんてもうそこにはなかった。わたしは生きてほしかった。優しく話しかけてくるこの少女に大人になってほしかった。

 けれど、少女は乱暴なことを何もしなかった。


「大好きよ、わたしのゆりかご」


 やがて、時間は経った。残酷なわたしの死神が、愛おしい少女が、わたしの手を握ったまま眠っている。聞こえてくるのは苦しそうな吐息。彼女はどんな姿をしているのだろう。どんな表情をしているのだろう。見たかった。しかし、見えなかった。諭すこともできなかった。手を握り返してやることすら出来なかった。どうしてわたしは生きているのだろう。どうして少女の方が先に弱ってしまうのだろう。

 生き延びられるのは少女の方。自由に駆け回り、いつか話していたように母親を探すことだってできる。それなのに、どうして少女はこうも頑固なのか。叱りたかったけれど、喋ることが出来なかった。


「……ねえ」


 少女が囁いた。手を握り返してやりたかった。今すぐにわたしを食べるように諭したかった。


「わたし、生まれ変わったら、あなたと同じ種族になりたい」


 愛らしい少女の声が身に沁みる。


「神様にお願いする。今度はあなたと一緒に世界を駆けまわりたいの。ねえ、素敵……でしょう?」


 途切れ途切れな声。吐息が荒い。声が薄れていく。何か言いたそうだが、それ以上、言葉にならないようだった。

 少女が苦しんでいる。わたしを食べなかったせいで苦しんでいる。どうかわたしを食べてほしい。生き延びられるのなら、躊躇わないでほしい。

 それなのに、少女は何もしてこなかった。


 運命の時は訪れた。死神はこの少女ではなかった。死神は少女をさらっていった。もう何も聞こえない。わたしの手を握っていた少女の手が、今はとても冷たい。愛らしい声も、温もりも、感触も、何もかもなくなってしまった。

 わたしは泣きたかった。でも、泣けなかった。心は泣いていた。何もできなかった。神様がいるのなら、少女が最後に願ったことを叶えてほしい。わたしは心から願った。少女はもういない。わたしももういなくなる。誰も知らないこの暗闇の中で、大地の糧となるだけだ。


 さんざん祈ってしまうと、心は妙に軽くなった。わたしは大人になりたかった。大人になれなかった。けれど、運命のひとに出会った。死後の世界で少女は待ってくれているだろうか。待っていると信じてしまえば、死はもう怖くない。

 真っ暗な世界が、色形を取り戻したように華やかに見えた。きっと少女が呼んでいるのだろう。もう一度会えたら、答えてあげられなかった質問にすべて答えよう。大好きと言ってくれたあの子に、大好きと返してみよう。そう思えばとても楽しみだった。


 迎えが来る。わたしはそっと意識を手放した。

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