色のない鎮魂歌

◆ 青虫

 その接吻は、蛹化も迎えていないわたしにとって、ただちょっと背伸びをしたような甘い夢になるはずだった。

 相手は美しい他種族の女性で、羽化した後の素晴らしい夢を少しだけ見せてあげると誘われて、言いなりになってしまったのだ。

 その後、人目のつかぬ場所でされたことは、確かに妖しい夢のようだった。

 妙に心地よく、妙に寒気がする。

 今思えば彼女に見つかった時から、わたしの運命は決まってしまっていたのだろう。


 羽化して美しい胡蝶になるのだと信じて疑わなかったわたし。背伸びなどしなくても、ただ慎重に生きていくだけで思い通りの未来はやって来たかも知れないのに。

 いや、ひょっとしたら、この運命はわたしが生まれてきた時から既に決まっていたのかもしれない。

 何もかも知らない青虫のわたしも、この先に待ち受ける絶望だけは予感できた。

 たった一度の悦楽と引き換えに、全ての自由を奪ってしまった他種族の彼女。その目合は破滅をもたらすものだった。


 わたしはどうなってしまうのだろう。

 動けなくなった身体を引きずられ、泣くことすら出来なかった。

 もう遅い。毒はとっくに全身を回り、この身体は石のようになってしまった。

 自由を奪われて成す術のないわたしを日の光の当たらない隠れ家へと引きずっていくと、喋る事すら出来なくなったわたしに向かって彼女は微笑んだ。


「可愛い子。きっと美しい胡蝶になったでしょうね」


 妖しく笑ってそう囁き、彼女は偽りの愛を語る。

 そしてしばらくの間、わたしは彼女と共に過ごした。二人きりの世界にて、一方的な愛撫をくれた彼女は、幼子をあやすようにわたしの意識に呼びかけてきた。

 選んでくれたのだとわたしは信じた。

 動けなくなったとしても、一生愛してくれるのだと。

 しかし、わたしは幼すぎた。

 何も知らないという事はそれだけ罪の重いことなのだろうか。

 彼女はわたしを愛してなどいなかった。その愛撫も、優しい眼差しも、すべてわたしへ向けられたものではなかったのだ。


 蛹になって、大人になりたかった。

 美しい胡蝶になりたかった。

 それでも、わたしは知っていたのだ。全ての青虫が蝶になれるわけではない。蛹になる前に、脱落してしまうものがいる。

 わたしは、脱落してしまったのだ。


「可愛い子。あなたを選んでよかった」


 やがて、彼女はたった一つの卵を産んだ。

 動けないわたしの傍に産み落とされた宝石のような卵。その卵が孵ったらどうなるのか、わたしは察していた。

 生き残りたい。その一心で、わたしは手を動かそうとした。卵を潰してやりたいと思った。けれど、体は全く動かなかった。

 卵を産み終えると、女は満足そうに笑って、わたしに口づけをした。


「これで最後よ。愛しい揺りかご」


 名残を惜しむようにわたしの身体を抱きしめると、彼女はそれっきりこの闇黒の世界を去っていってしまった。

 もう彼女が戻る事はない。

 優しく声をかけてくれることも、愛撫してくれることもない。

 捨てられた。わたしに残されているのは破滅のみ。そもそも、愛されてもいなかったのだ。彼女が欲していたのはわたしの身体だけ。ただの食料品として、愛する我が子に用意しておきたかっただけだった。


 わたしは蛹になれない。

 動くことも出来ない。

 もう二度と、明るい空の下を歩くことも、飛ぶことも出来ない。

 たとえこの卵が孵らなかったとしても、わたしはこの闇黒の世界で死ぬことになる。彼女の手は死神の手だった。その手を握ってしまった以上、抗う事は出来ないのだ。

 終わりだ。震えることすら出来ない状況で、わたしは絶望していた。


 それからどのくらいの時間が経っただろうか。卵は孵った。中から出てきたのは、女の子のようだった。声から察するに、孵ったときから彼女は大きいようだった。

 きっと胡蝶の子よりも育った状態で生まれるのだろう。何もできない赤子などではなく、世に出てきたときから自分が何者であるのか、どうすればいいのかを分かっていた。

 しかし、その姿は見えなかった。わたしの視界は真っ暗なまま、少女の姿を見ることが出来なかった。

 横で動けぬまま座っていることしかできないわたしの存在理由を、彼女はよく分かっていたらしい。やがて彼女は近づいてきた。彼女の母親がしたように、わたしの身体に口づけをしてきたのが感触で分かった。


「夢の中で神様が言ったの。卵の殻をやぶったら、わたしを待っている女の子がいるって」


 わたしは何も言えぬまま、小さな死神の姿を想像した。


「これは罪ではない。生き物の定めなのだと。あなたは母からの贈り物。少しずつ食べてしまわねばならないって、そう聞いていた」


 手を伸ばされ、抵抗できぬまま受け入れるしかなかった。痩せてしまっただろうけれど、食べられる場所が減ったわけじゃない。楽にしてもらえるのか、もらえないのか、もはやそんな次元の低い希望の行く末を考えることしかできなかった。

 少女はわたしの手足の肉を確かめた。しかし、あの女とは何か違った。本能は彼女に囁いていることだろう。

 これは罪ではない。課せられた定め。生き物は他の誰かを食わねばならない。わたしだって草花の妖精を食んで苦しめてきたことがある。それと同じこと。逃げ出すのは怠慢である。拒絶するのは傲慢である。それなのに、少女はきっと幼かったのだろう。


「……できない」


 そう呟いたのだった。

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