あなたが目覚めるその日までは

◆ 胡蝶

 蛹化前ようかまえの約束をあなたは覚えているだろうか。

 卵から孵るときも育つときもいつだって安全であることが当たり前だったけれど、それでもあの美しい故郷は姉妹のように育った私たちにとって狭すぎる世界だった。

 故郷を囲むこの壁の向こうには、ちっぽけな私たちには広すぎるくらいの世界があるのだと知った時、私もあなたも同じ夢を見た。

 けれど、母たちの産卵から私たちの孵化までを見守った大人たちは、青虫にすぎない私たちの願望を子どもの戯言だとしか思わなかった。


 世の中には恐ろしい天敵もいる。今はまだ守られているから分からないだろうけれど、狭くても安全であることこそが尊いのだと。

 そんな大人たちに、私もあなたも当然ながら不満を抱いた。なぜならすでに知っていたからだ。壁の向こうにだって仲間はいるし、生まれながらにして広い世界で育っているものもいるのだと。


 それに大人たちだって故郷に生まれた全員がそこに留まっていたわけではない。蛹となり、沈黙の月日を越えて羽化したあと、その大半が故郷を捨てて広い世界に旅立ってしまうことは青虫にだって知られていた。

 蛹化前であろうと同じではないのか。私とあなたの願望を消し去れるものなんて故郷にはなかった。

 どんなに過去を振り返っても、後悔なんてどこにもない。だって、蛹化の直前のあなたとの思い出は、今でも一番大事な宝物として胸のなかに宿り続けているのだから。


 あの日、この場所で、私とあなたは沈みゆく太陽を眺めた。初めて目にした夕日は、大人たちの語った言葉とは比べ物にならないほど美しく、幻想的で、その光を浴びているだけで心が震えた。

 故郷を照らしていた木漏れ日の暖かさとはまた違う。その刺激をあなたと二人きりで味わえたことこそが、私の幸福でもあった。

 あれから、私はまだここにいる。共に眠りについた時と変わらず、眠る私を守ってくれていた蛹の残骸を傍らに置いたまま、私は何度も夕日の沈む美しさを味わい続けた。


 世の中にはきっと、あれよりも素晴らしい光景がたくさんある。羽化して大人になったこの身体なら、きっとたどり着けるだろう。けれど、私はまだ旅立てずにいた。だって、どんなに美しい光景が見えたとしても、あなたが一緒でなければ意味がないもの。あれほど感動した夕日の輝きは、今では当たり前のものになってしまっていることも、きっと、あなたの温もりを感じられずにいるからに違いない。

 だから、私は羽化して以来、何度もあなたの眠る蛹に声をかけ続けた。蛹はとても冷たくて、固くて、動きもしなくて、それでもあなたが入っていることは知っていたから、寂しくはなかった。


 あなたが目覚めたら、謝らなくてはいけないこともある。

 羽化して初めての食事は一緒にって約束したのに、待ちきれなかったことだ。お腹がすいて仕方がない私の前に、都合よく現れた蜜を吸われたくて仕方のない花の妖精には、それだけ抗えない魅惑があった。

 言い訳にしかならないけれど、美味しい蜜を持つ花の妖精を捕まえるコツはしっかり覚えたから、あなたの羽化祝いにはとびきり美味しい花蜜を贈りたい。それでどうか許して欲しい。


 天敵が近付いて来た時もあった。

 美しい肢体を持つ蜂の妖精で、大人たちの言っていた雀蜂ではないかと怯えてしまった。けれど、彼女は私には目もくれず、あなたの蛹に興味を持っていた。無言で持ち去ろうとするから怒って飛びかかると、それが意外だったみたいで彼女はそのままどこかへ行ってしまった。

 それから、私は出来るだけあなたの隣にいる。どうしてもお腹の空いたときは祈りながら離れて、花の妖精を誘惑したり、時には強引に連れ去ってしまったりして、あなたの傍で食事をするようにしている。だって、あなたが目覚める前に奪われてしまったら、私にはもう生きる理由がなくなってしまうから。


 あなたが目覚めたら、待ち続けた日々のことも語りたい。

 一緒に美味しい蜜を食べながら、待ちくたびれた日々の話をして、語り尽くしたら今度は一緒に新しい思い出を作っていきたい。

 抱けば抱くほど夢は膨らむ。まるで蛹化前に故郷を飛び出した時のような気持ちだった。

 けれど、あの時とは状況が大きく違う。あの時は自分達で決断し、自分達の足で歩けばよかった。でも、今は違う。隣にいるあなたは沈黙を続けている。寂しくはないとさっきは言ったけれど、少しだけ嘘かもしれない。やっぱりあなたが起きていないことは、寂しいことだ。


 一度、嫌なこともあった。無理矢理つれてきた花の妖精が、あなたの蛹を見て言ったのだ。本当に、それが目覚めるなんて思っているの、と。彼女はあまりに恐ろしいことを私に言った。これ以上、夢を語るのはもうやめて、と。その蛹はもう──やめましょう。その言葉は忘れた方がいい。

 きっと力及ばず好きにされたことへの腹いせだったのだろう。どう足掻いたって私たちの力に花の妖精は敵わない。それに、蜜を吸われたいという欲求は、彼女らの理性とプライドを打ち砕くそうだから。きっと、自棄になっていたのだろう。


 彼女を殴ったりしなかったことを、あなたに褒めてほしい。私だって堪えられてよかったと心から思っている。

 もともと口先ばかりのか弱い花を無理やりさらってきたのは私自身だ。抵抗もろくに出来ない彼女から蜜を貰い続け、自棄になって恨み言を吐いたのだって、私の撒いた種でもある。それなのに彼女を殴っていたら、きっと心苦しさのあまり、あなたを待ち続ける気力すら失っていただろうから。


 ただ、あの時の彼女の言葉は今も私の胸に突き刺さっている。忘れたい単語も、言葉も、その可能性も、私の心に突き刺さり続けている。

 この痛みを和らげてくれるのは、あなたしかない。あなたの目覚めだけが私の救いだ。

 あなたと最後に夕日を見たのはいつだっただろう。ここに花をさらって食事をする暮らしを、私はどれだけ続けてきただろう。

 今の私の孤独を癒せるのは蛹で眠るあなただけ。あなたの目覚めだけを、私はひたすら待ち望んでいる。


 それなのに、あなたの眠りは長すぎる。

 今日の夕日も実に見事だ。昨日や一昨日に見た夕日のように美しい。きっと明日や明後日に目にする夕日もあのように輝いているのだろう。

 けれど、私が見た中でもっとも美しかった夕日は、やはりあなたと見た夕日だった。そして、あの日の美しさを越える夕日が見られるとしたら、やっぱりあなたと共に見る未来の夕日なのだろう。

 だから、私は夢を抱き続けたい。あなたが目覚めるその日まで、頭のなかで楽しい未来を思い描き続けた。

 ひとりその夢を語るこの声も、きっと眠り続けるあなたには聞こえないだろう。それでも、よかった。あなたが目を覚ましたときに、思う存分語り合えばいいだけだから。


 その日はいつになったら来るのだろう。あとどのくらいの季節を巡ればいいのだろう。

 いつだっていい。

 いつだろうと私は待ち続ける。目覚める時が必ず来ると今はまだ信じ続けさせてほしい。

 夕日が沈んだ。あたりが真っ暗になっていく。

 あなたの蛹のすぐ隣で、私もまた横になる。就寝の挨拶をすると蛹の冷たさを手で感じながら、私は眠りの世界へと向かった。再び起きたあとの未来では、あなたもまた目覚めていることを期待するのも忘れずに、眠りに落ちていく。


 明日の夕日もきっと綺麗に違いない。けれど、日が経つにつれ、私はその美しさに慣れてしまって感動は薄れていく。再びその輝きに感動することがあれば、それはきっとあなたが目覚め、共に眺めることができた時のことだろう

 その時を夢見ながら、私は昨日までと同じように今日という日を終えた。

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