◆ 花潜
「お嬢さん、何だかとても辛そうだね」
その声が聞こえてきたのは、わたしがすっかり気を失っていた真夜中の時だった。
散々欲望を満たしていった胡蝶は近くにいなかった。どうやら、蜜も体力も足りないわたしに不安を覚え、他の獲物を捜しに行ったらしい。
目覚めてみれば体中が痛かった。命尽きるまで付き合わされなかったのは、胡蝶の愛情などではなく、単に欲を満たせないと判断しての事だろう。
それにしても、一体誰だろう。
薄っすらと目をあけて、檻の前を見てみれば、そこに声の主はいた。
知らない妖精だ。女のようだが、胡蝶ではない。
「あなた、誰?」
夢現で訊ねてみれば、彼女は檻に寄りかかる形でこちらを覗いてきた。
「僕は
「答えたくない」
花潜。見ず知らずの妖精だが、その微笑みと口調から、少しだけ縋りたくなる気持ちになった。助けて欲しいと言いたくもなる。けれど、言えなかった。助けて欲しいなんて言えば、胡蝶を怒らせるのは確実なこと。最悪の場合、花潜には見捨てられ、わたしだけが罰を受けることになる。
ただ泣くしかなかったわたしを前に、花潜は首を傾げた。
「ふうん。それにしては、救いを求めるような顔をしているね。それなら僕がちょっと当ててみようか」
そう言って、花潜は沈黙して檻の周囲を指でなぞっていった。そして、指に付着した光る粉を見つめると、わたしを見つめてにやりと笑った。
「なるほど、胡蝶の仕業か」
わたしは答える代わりに首を振った。これ以上、話していると彼女が帰ってきてしまうかもしれない。そう思うと恐ろしくて仕方がなかった。
「分かったなら、もう帰って。今のわたしは彼女だけの花なの」
すると、花潜は不満そうな表情を見せた。
「分かっていないね、お嬢さん。蜜花は誰のものでもない。君だけのものでもないし、たったひとりの胡蝶のものでもない。妖精に生まれたならば僕だって、君の蜜を吸う権利があるはずだ」
「そんな権利……」
ないと言おうとしたけれど、花潜は話も聞かずに檻の中にするりと入り込んでしまった。
「ああ、傷だらけだが美味しそうだ。胡蝶も随分と乱暴なんだね。でも、僕もひとの事は言えないかもね。さあ、諦めて身を委ねるんだ。お嬢さん」
「やっ、やめ──」
恐怖で声が出なかった。
花潜という種族の事はよく知らないけれど、間近でみる彼女の目は先ほどまでとは打って変わって鋭くて、胡蝶と同じくらいかそれ以上の威圧感があった。
けれど、彼女に触れられた途端、これまでにない感情が洪水のように押し寄せてきて、わたしの思考を一気に飲み込んでしまったのだ。
何をされているのだろう。
それはまさに、新たな目覚めとしか言いようがなかった。
胡蝶にしか許したことのないこの身体が、花潜のものになっていく。それに伴い、じわじわと沁み渡っていくのは、他種族の妖精に身を委ねることの本当の喜びだった。
花潜。その名をわたしは頭に刻んだ。派手な胡蝶に比べれば、大人しい印象の彼女だけれど、それ以上の魅惑が彼女にはあった。
「さあ、もう十分だ。ご馳走様、お嬢さん」
終わってみれば、わたしの身体は胡蝶に抱かれた時以上にボロボロだった。それなのに、心身に残されるのは痛みではない。痛み以上の感覚に、わたしはすっかり打ちひしがれていた。
頭の中が蕩けてしまうような感覚に浸っていると、花潜は囁いた。
「鬼の居ぬ間にお暇しよう。お嬢さん、この事は君のご主人様には秘密だよ」
そう言って立ち去ろうとするその手を、わたしはとっさに掴んでしまった。
「待って……置いて行かないで」
潤んだ眼差しで訴えると、花潜はまるで分かっていたかのように笑った。
「じゃあ、一緒に来るかい?」
彼女の怪しい囁きに、わたしは静かに肯いた。
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