真夜中の花泥棒

◆ 胡蝶

 ──蜜を生む乙女よ。綺麗な蝶に気を付けなさい。


 それは、蜜花の妖精たちに伝わる古い言葉であった。

 長く感じた子供時代も過ぎてみれば恋しいもの。けれど、大人になって味わう華々しい世界を前にしてみれば、もう一度、子供に戻るなんてことは考えられない。

 蜜を生めるようになるということは、そのくらい蜜花の妖精としてのわたしの日常を変えてしまった。

 大人になって以来、わたしのもとにやってきた妖精は数知れず。男も、女も、あらゆる言葉でわたしの気を惹いて、美味しい蜜を貰おうとやってきた。

 そんな彼らの誘いを全て受け入れる蜜花もいれば、そうではなく隠れ潜んで純潔を守ろうとする蜜花もいた。


 わたしは迷っていた。

 誰の誘いを受け、誰の誘いを断るのか。

 蜜を求める妖精たちの誘いを受けるということは、いつ母になってもおかしくないという事でもあった。

 その覚悟がわたしにはあるのか。

 欲望に身を任せ、何も考えずに次世代を残すこともまた妖精としての一つの生き方ではあるものの、まだ年若いわたしは純粋なる愛情を感じて見たかったのだ。

 そうであるならば尚更、古い言葉は思い出しておくべきだった。


 しかし、全てはもう遅い。

 たとえ覚えていたとしても、わたしはきっと抗えなかっただろう。天性の美貌と妖艶さをまとい、それを武器に近づいて来る胡蝶の誘いに。差し伸べられた手を振り払うことなんて、どう考えても不可能だっただろう。

 そうして、わたしは彼女の手を取った。

 まだ誰にも蜜を吸われていない状態で。


「ありがとう」


 木漏れ日のような笑みをわたしに見せると、胡蝶は周囲を見渡した。


「ここはとても静かな場所ね。あなたと暮らすにはちょうどいい。けれど、まだまだ安全ではないわ。あたしが守ってあげないと」


 そう語る胡蝶の顔は、今思えばとても危険な眼差しをしていた。

 でも、その時のわたしはすっかり彼女に夢中になっていた。だから、彼女がわたしの周囲を小枝で多い、檻を作り始めてしまっても、それがどれだけ窮屈で恐ろしいことなのか理解できていなかったのだ。

 わたしをすっかり閉じ込めてしまうと、胡蝶はするりと入り込んで囁いてきた。


「これでいい。今日からお前の蜜は全部あたしのものよ」


 その時になって、ようやくわたしは彼女の異常性に気づいたのだ。

 だが、もう遅い。遅い上に、どうにもならない。どう足掻いたって胡蝶は魅力的な相手であったし、わたしの身体はすっかり彼女を受け入れたがっていたのだから。

 そして、満足に動けない狭い檻の中で、わたしは彼女に支配された。

 初めて経験するその営みは、やはり感動的なものだった。子供時代には戻れない。戻ろうと思えなくなるほどの悦楽が、わたしの心を汚染していく。

 けれど、その一方で、この悦楽は苦痛も伴った。

 話に聞いていた通り胡蝶はとても乱暴だった。そして残忍な面もあった。

 満たしたいのは食欲だけではなかったらしい。彼女は支配欲も非常に強くて、動けぬまま従うしかないわたしの様子にご満悦だった。そしてさらに恐ろしい事に、花の妖精の体を弄ること自体がお好きなようだった。

 蜜を吸うだけならば不必要な行為は多岐にわたり、彼女がひと通りの欲を満たす頃には、わたしの心身はボロボロだった。


「お前は本当に良い花ね」


 疲れてぐったりとするわたしに彼女は囁く。


「たとえこのまま枯れてしまっても、その亡骸を愛してあげるわ」


 誰もが見惚れるような微笑みで平然とそう言ってのける彼女を見つめ、わたしは絶望に打ちひしがれた。

 こんな狭い檻の中が、わたしの墓場となってしまうのだ。


 ──綺麗な蝶に気を付けなさい。


 古い言葉が頭を過ぎる。けれど、もう何もかも遅い。

 いつかわたしはこの場所で、虚しく枯れてしまうのだろう。

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