◆ 絡新婦

 その胡蝶を目にした時、私の心は虜となった。

 美しいからだろうか。いいや、胡蝶はどれも同じ。美しい翅はまやかしに過ぎない。生きる為にはその肉体をいただかなくてはならない。

 それでも、彼女は特別だった。

 同時期に育った胡蝶たちとは違う魅惑。彼女の醸し出す色気は周囲と明らかに違うものがあったのだ。

 私の意識の根底に眠る美と性愛の価値を具現化したような姿。

 彼女はまさに理想の胡蝶だった。


 あの胡蝶もまた恋を知るのだろうか。雄と出会い、一時のまどろみのような恋に身を焦がし、卵を産んで死ぬのだろうか。或いは、その生まれた目的すら果たせずに、蟷螂などのつまらない捕食者に囚われてしまうのだろうか。

 いずれにせよ、私は彼女を見て感じたのだ。台無しにしてしまいたい。まだ恋を知らぬその身体を自分だけのものにしたいと。

 それは、絡新婦として生まれた者の本能などではないはずだ。

 食欲とは全く違う次元で、私は彼女が欲しくなってしまったのだ。

 その美しい身体を捕らえて飾りたい欲望。

 美しいその翅を目当てに胡蝶を捕らえて針で刺す巨大な怪物がいると耳にしたことがあるが、私の持つ欲望はまさにそれに近いものだった。


 彼女を知って以来、この世界は私にとって非常に恐ろしいものに変わった。

 何処彼処どこかしこでも胡蝶を狙う者がいる。立派な城を築く同族の者もいれば、見事に擬態した蟷螂なども潜んでいる。地を這う蜥蜴もいれば、大空を飛び交う蜻蛉や雀蜂、それに鳥なんてものもいる。

 この世界は危険だ。

 彼女をそっとしておいても、いつかは食べられて死んでしまう。

 もとより、妖精の世界なんてそんなものだ。天寿を全うできる者はごく僅か。運の良い者だけが生き残り、血を残し、我が子らの成長を見届けられぬまま死んでいく。彼女だって同じだろう。それが分かっていたからこそ、私は彼女を保護したかった。


 だから、私は行動した。

 あの胡蝶が好んでいた愚鈍な花の妖精を一人捕らえて殺し、その血で彼女を誘き出したのだ。


 思惑通り、胡蝶は罠にかかった。花の妖精の命と引き換えに搾った蜜はあまりに濃厚すぎて、彼女はそのまま眠っていた。

 蜜の香りに包まれて、幸せそうに眠る彼女を私は間近で堪能した。

 美しい。あまりに美しかった。

 食べてしまうのは勿体無い。生きているからこその価値に一度気づいてしまうと、殺すことなんてとても出来なかった。

 これまで食べてきた胡蝶と比べて美味しそうなのは変わらない。柔らかな肉を手で握っていると、齧りつきたくなるのも確かだった。

 それでも、私は齧らなかった。

 寝ている彼女をただただ見守り、抱きしめているだけで満足してしまった。


 目覚めた胡蝶は当然ながら私を怖がった。予想以上に暴れ、震え、そして私を拒絶する。命を奪われるかもしれないという恐怖に震えるその姿。分かっていたことだが、少し寂しい気持ちになった。しかし、同時に感じたのは、ぞっとするほどの色気だった。

 私が触れると、胡蝶はその度に震えてしまう。

 愛撫しているつもりでも、彼女からしてみれば肉の柔らかさを確かめているようにしか思えなかっただろう。

 それがむしろ、私には心地よいことだった。

 殺すのは惜しい。だが、逃がして誰かのモノになるくらいならば、ここで殺してしまってもいい。彼女が誇りを選ぶならば、好きなだけ弄って一生に一度だけの最高の食事を楽しむのもいいだろう。


 だから、私は迫った。

 彼女に未来を選ばせた。

 この手を拒み続けるならば、望み通りの死を与えようと。

 しかし、彼女は誇り高い胡蝶などではなかった。死にたくないという一言が、彼女の運命を決定づけた。

 弱々しく、情けない、怯えた妖精の選択。

 それで良かった。誇りなど妖精の世界ではいらない。死にたくない、どんな形であっても生き続けたい。素直にそう願うこの惨めな胡蝶のことが、私はますます好きになってしまった。


 これからは、私だけのものだ。動けぬ胡蝶を抱きしめながら、私は悦に浸った。

 これよりどれだけの時間を共有できるだろうか。きっと、胡蝶は私を恨むだろう。死ぬまで恨み続けるかもしれない。

 私の方が先に死ねば、私を嘲るかもしれない。

 けれど、それでもよかった。恨まれたとしても、憎まれたとしても、怖がられたとしても、胡蝶を手元に置ける嬉しさの方が大きいと思えた。

 命ある限り、彼女を守り続け、その身体を味わい続ける。

 退屈しのぎにもなり、生きる楽しみにもなるはずだ。その生活はどれだけ続くだろう。考えても、私には想像もできない。


 怯える胡蝶を吊るしたまま、私はそっと太陽の光を受ける金色の糸に触れて願った。

 どうか、この哀れで醜い恋のような姿のものを、抱いて守る揺りかごとなるよう。

 私の真意はきっと、胡蝶には一生伝わらないだろう。

 伝えるつもりもない。

 これより私を恨んだまま、他の胡蝶よりもずっと長生きしてしまえばいい。

 私の糸で築かれたこの小さな城で、時間も季節も忘れて、いつまでも私に怯えながら過ごしていればいい。

 それこそが不器用な私の恋の形であり、この金色の糸の作り出す繊細な揺りかごに揺られる赤子そのものだった。


 動けない胡蝶の唇を噛むと、甘い血の味がする。

 いつもなら食欲をそそるはずのその味も、私にはただただ愛おしい者の匂い程度にしか思えなかった。

 胡蝶は、ただじっと私に身を委ねている。

 それは毒と蜜、そして糸のせいだけではないだろう。

 柔らかな胡蝶の身体に触れながら、私はじっくりと、違う形で胡蝶の味を確かめていった。

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