小さな庭園の物語

ねこじゃ じぇねこ

金色のゆりかご

◆ 胡蝶

 ふと目を覚ましてみれば、わたしの身体は張り巡らされた糸に絡まっていた。

 手も、足も、その糸のせいで全く動かない。もがけばもがくほど、抜け出すことはますます難しくなっていった。

 この糸はなんだろう。

 かつて聞いたことがあるような気がした。それは遥か昔の事。蛹の中から羽化を経て夢と希望を抱きながら外に出て、この世界を駆けまわるのが楽しみで仕方のなかった大人になったばかりの頃。

 同じく大人になったばかりのわたし達は一か所に集められ、酸いも甘いも分けた同族の大人の女性に忠告を受けた時のことだった。


「美しいこの光の世界は、同じだけの暗闇も広がっています。

 無事に大人になったあなた方は幸せな胡蝶たち。

 けれど、一年後に生きていられる可能性は半分以下。

 忘れてはなりませんよ」


 美しいその女性の顔を思い出しながら、わたしは再び目を閉じてしまった。

 まどろみが常に頭を支配している。起きたばかりだというのに、わたしの意識は全てを忘れてどこか遠くへと逃れたがっていた。

 この恐ろしい現実を忘れられるような遠い夢の果てへ。


「起きなさい、胡蝶」


 不意に声が聞こえ、閉じていた瞼がぴくりと開いた。

 低い女の声。あまり聞いたことのない威圧的なその声は、いつも蜜を貰うような美しく愛らしい花の妖精たちの声とも全く違う。

 どこから聞こえてきたのか。探るまでもなく、声の主は糸を伝ってするりとわたしの目の前に降りてきた。

 凛々しい姿の他種族の女だ。朝露のように綺麗な目が印象的な美しい女。彼女は細く綺麗な手を伸ばし、わたしの頬に触れてきた。


「ここへ来るまでの事を覚えている?」


 問いかけられて、わたしは考え込んだ。

 記憶は混沌としていた。それでも、一生懸命思い出そうとすれば、少しずつ蘇ってきた。確か、わたしはふらふらと誘われてこの場所へ来たのだった。お腹が空いたわたしを呼び寄せたのは、花の香り。甘い蜜の香りがたまらなくて、わたしはふらふらとここへ近づいてきた。

 大人になったわたしにとって花を捜すことは生きる事に直結した。物言わぬ花では足りない。もっとたくさんの蜜を持つ、花の妖精を捜さなくてはいけなかった。男性も、女性も、そして中性も、美味しい蜜をたくさん持っている。そんな彼らを見つけ出し、優しい言葉で、時には強引に迫っていって蜜を分けて貰わなければ生きていけない。

 中には強烈な香りを持つ怪しい花もいたけれど、そういった者には関わらずに、ごく普通の香りを持つ花の妖精たちと親しくなって、日々を過ごしてきたのだ。


 ああ、思い出した。

 あの日、わたしが導かれた香りもまた、ごく普通の香りだった。強烈な蜜の香りなどではない。ごく一般的の、よくいる花の妖精の香りだったはず。

 それなのにどうして。


「お前を誘き寄せたのは、この糸に塗り込まれた蜜……。私が捕らえて潰してしまった花の妖精の体液だ」


 女は間近でそう語った。

 わたしはぞっとした。

 手を、足を、そして体を締め上げているこの糸。確かに香りがする。魅惑の香りだ。これがあの愛らしい花の妖精の体液。潰したということが何を意味するのか、理解すればするほど恐ろしくて仕方がなかった。

 だが、恐ろしいのはそれだけではない。

 何故、こんな手を使ってまで、この女はわたしを捕らえたのか。その目的を理解して、わたしは血の気が引いてしまった。


「驚いた? でも、もう遅いよ」


 女の人差し指がわたしの唇をなぞる。

 恐ろしいことが起こっている。目を覚ましたことを後悔するようなことが、いま、好みに起こっている。

 このままでは、わたしは食べられてしまう。恐怖と焦りにかられてもがくも、糸はさらに絡まって、抜け出すことなど不可能だった。

 暴れるわたしを面白がるように見つめ、女はその手を唇から首筋、そして胸元までへと這わせていった。


「残念だったね。お前は運が悪かった。小さくて何も分からないうちに似我蜂じがばちに連れ去られていく方が楽だったかもね。子孫もまだ残せぬまま、私の糧となるしかない。ちっぽけで哀れな存在に過ぎなかったわけだ」

「お願い、放して」


 わたしが言葉を発すると、女はますます嬉しそうに目を細めた。

 懇願など無意味だ。だって、わたしもそうしてきた。いまは蜜を吸われたくないと拒む花に無理強いして、自分だけ満足したことだってあった。

 それが妖精の世界なのだと言い訳をして。

 この女も同じだ。解放してくれるはずもない。それでも、懇願せざるを得なかった。


「お願い。助けてくれたら恩は忘れないわ」

「無駄だよ」


 冷徹な声と共に、女はわたしの身体を抱きしめた。

 その強い抱擁が苦しくて、息があがった。


「ここでお前を逃がしたところで、別の誰かに食われるだけだ」


 笑って彼女はそう言った。わたしへの憐憫など一切ない。言葉は通じていても、これでは意味がなかった。これ以上の説得は無駄でしかない。絶望しかないわたしに残された道は、泣くことだけだった。

 そんなわたしの唇を、女は無理矢理奪っていった。

 口移しで飲まされるのは、蜜のような味がした。潰した花の体液だろうか。その味を確かめているうちに、段々と身体が痺れてきた。

 女が唇を放したあとは、ゆりかごのようなこの糸に身を委ねていることしか出来なかった。そんなわたしの身体を揉みしだき、女は言う。


「柔らかくていい身体だ」


 甘い吐息の匂いに鼻腔をくすぐられ、わたしは少しだけ恍惚から覚めた。


「……嫌だ。死にたくない。お願い、食べないで」


 震えと寒気で何が何だか分からない。

 ただ金色に光るお城のような糸の世界で、こちらを見下ろしてくる女王の姿に縋りつくしかなかった。

 そんなわたしに彼女は言った。


「諦めなさい」


 冷たい声が脳に焼き付いた。


「そんな言葉、これまでどれだけ聞いてきたと思っているんだ?」


 分かっていた。

 天に見放された妖精は、誰かの糧となるだけ。

 尊い犠牲となって、この美しい緑の世界を支えるのだと。

 考えてみれば分かる事だ。これまでだってわたしは、何度も仲間が死ぬところを見てきたのだから。その度に、あれは他人事だと思ってきた。冷たいわたしの眼差しの先で、彼らもまた死にたくないと叫んでいただろうに。そして今も、わたしと同じように誰かに捕まって食べられている仲間がいるかもしれない。

 それと同じ事が、自分に起こっているだけのこと。


 もしも、この光景を物陰から仲間が見ているとしたら、同情こそすれども他人事だと思って見つめているだろう。

 わたしだってそうだった。そう思って生きてきた。自分だけは大丈夫。時が来て、恋を知ったら、卵を産むのだろうと思っていた。

 しかし、そうではなかった。

 目の前の女にとってわたしの命などは他人事以下のもの。同情してくれたとしても、未来が変わる事はあり得ない。

 もう遅いのだ。わたしは運が悪かった。


「それならせめて、一瞬で楽にして」


 涙は止まらなかった。

 すべてに見捨てられたわたしが出来る最期の抵抗はこれしかない。

 そんなわたしを女は冷めた目で見つめていた。捕まえた獲物が悲しむ姿も、それこそ腐るほど見てきたのだろう。

 意味はないと分かっている。それでも、涙は止まらなかった。


「普通はそうするのかもしれない」


 女は冷たい声で言った。


「頭から食べてしまえば、お前はすぐに楽になれる。あるいはこの細首を手折ればいい。だが……私はお前を気に入ってしまった。この温もりも、柔らかさも、愚かなまでに愛らしい反応も、目の輝きも、声も、全て私の手中にある。どれも命を奪えば消えてしまう儚いもの。すぐに消すのは勿体ない」


 声を潜めて笑う彼女を前に、わたしは気が遠くなってしまった。

 すぐには殺さないつもりだ。その事実は決して明るいものではない。衝撃は闇となり、わたしの意識を奪おうとしてくる。

 しかし、女は言った。


「よく聞くがいい、胡蝶。お前が素直でいい子ならば、私はお前を食い殺したりしない。痛みを堪え、私に永遠の忠誠を誓うというならば、生かしてやってもいい」

「……本当に?」


 急な誘いに光が見えた。

 絶望しかけた状況にて、生存の可能性は逃しがたいものだった。何でもできる気がしたのだ。無残に殺されないのであれば。


「解放してくれるの?」

「解放はしない。ただ生かすだけだ。しかし、飢えさせもしない。私が養ってやろう。美味しい蜜を常にお前に飲ませてやる。その代わりに差し出すのだ。この身体を。この住まいで一生、私の奴隷となるのであれば、命までは奪わない」


 これは悪魔の誘いなのだろうか。

 苦しむ時間がただ伸びるだけかもしれない。

 それでも、やっぱり死ぬのは怖かった。わたしは生きていたかった。どんなに惨めであっても、もっとこの目でこの世を見つめていたかった。

 たとえもう二度とこの狭い糸の世界から逃れられないのだとしても。


「死にたくない」


 わたしの願いは言葉となり、女へと向けられる。

 彼女は薄っすらと笑みを浮かべ、わたしの頬を優しく撫でてきた。

 不思議な安心感に包まれる中で、女はわたしに囁いた。


「それなら決まりだ」

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