第35話 幼馴染とお風呂 その2
浴槽に入る前に軽く汗を流そうと、カランの前にある椅子に座る。
底にケ◯リンと書かれた黄色い桶にお湯をためていると。
「文斗~、見た? 壁のところすごいよ!」
男女の浴室を区切る壁の向こうから、石動の声が響いた。壁の天井の近い場所は、空間があるから、完全に分断されているわけではないので、大きな声を出せばこちらまで届いてしまう。
俺は、壁の上部を見上げるだけで、返事をする気にはなれなかった。
男風呂には俺以外にも利用客がいるから、返事をするのが恥ずかしかったのだ。
「風呂から上がってから言えばいいものを……」
今すぐ報告したくなるくらい、感動してしまったのだろうか?
「あれ、文斗~、いないの?」
即レスを期待する声が響く。
「いるよ。見たよ、すごいのはわかったから、またあとでな」
このままだと、返事があるまでデカい声を出し続けそうだったので、周りの目を気にしながら俺も石動に反応してやることにする。
「でしょ? あとねー、シャワーあるところの蛇口はお湯と水半々くらいの方がいいよー、お湯だけだとすごく熱いからー」
あとで、という返事を無視してアドバイスをぶっこんでくれる石動。
「……石動、もしかしてそっちに誰もいないの?」
「そりゃいるよー、こーんないいところなんだもん。入ってくる人いっぱいだよー」
どうやら俺たちは、ピークより少し前に入り始めてしまったらしい。だから脱衣所では、利用客がまばらに思えたのだろう。
人がいるのによくこっちに声を掛けてこられるよな。俺は周りの目が気になってダメだ。
この手の地域密着型銭湯には、年配の常連さんがいて、彼らの掟に違えることをすれば叱られるイメージがある。
けれど、浴場にいる年配の利用客は、特に険しい顔をした人間はおらず、どちらかといえば、微笑ましく見守っているような雰囲気すら感じられた。
客層の良さも、今回ばかりは少々恨めしく感じてしまう。怖い人がいれば、それを理由に石動を止められたかもしれないのに。
当然ながら、浴場の中にいるのだから、お互いに全裸なわけである。
そんな状態で会話のラリーをしてしまうと、分厚い壁に仕切られているとはいえ、裸のままおしゃべりをしているのも同然と考えて全身が熱くなってしまうのは、妄想力が逞しすぎるようで恥ずかしくなる。
何故だ。俺は、石動相手ならたとえ異性だろうが冷静な気持ちでいられたはずなのに。
こうなったら、熱い湯に浸かって心身を落ち着けるしかない。
この手の銭湯の浴槽は熱湯と決まっているから、邪な気持ちだってリセットできるはず。
「い、石動~、俺、浴槽に入るから、しばらく黙っちゃうからな~」
脱衣所へ戻るまで黙ってしまうつもりだった。
「そうなんだ。じゃあ私も一緒に入るから、せーの、のタイミングで浸かっちゃおうよ」
予想外にとんでもないことを言い始める石動。
かといって、『俺一人で入るから!』と言い返すのも、男湯の浴槽に浸かるのに石動はいないわけで、道理が通らない。
結局俺は、石動と入浴をシンクロさせてしまった。
疑似混浴である。
思っていたより湯加減はほどよく、飛び出たくなるほどの熱湯ではなかった。長時間湯に浸かっていたって平気なレベルの心地よさである。
「文斗~」
壁の向こうから声が聞こえる。声の響きから考えて、壁にぴったり体をくっつけている感じがした。
「入った~?」
「……入ったよ」
「気持ちいいでしょ?」
「そりゃ気持ちいいけどさ……」
「ねー。ずっとこうしてたいって感じしちゃうよね」
「……お、おう」
俺は浴室の熱気で、脳がのぼせてしまったのかもしれない。
石動からすれば、でけぇ風呂最高! ってことを言いたいのだろうが、妄想モードが未だに抜けない俺からすればこの程度の何気ない会話でも意味深に捉えちゃうんだよ。
恥ずかしさと悔しさを同時に味わってしまう。
何だか、石動の手のひらの上で踊らされているような気がしたからだ。
俺は元々負けず嫌いな性格ではないが、石動に限って言えば、運動は論外でもゲームを通してライバル関係にあり、負けたくない相手である。そんな気持ちを抱えているからか、ゲームとは関係ない場所でも、石動へのライバル心は常に俺の胸の内でほのかに燃え続けているのだ。
ここ最近、石動を『同性の友人』以上の存在として見てしまいそうになるような心の迷いが増えていた。
そのせいで俺は、石動をはっきりと『異性』として意識することに、敗北感を覚えるようになっている。
今、俺は、風呂という互いに全裸になる特殊なフィールドにいるせいか妄想の強度が増していて、かつてないほど石動を異性扱いしてしまっているのだ。
それは俺にとって……敗北だ。
石動を異性として意識することで、こうして圧倒されている現状は、俺と石動の関係性が等号で結ばれていないことになる。
石動>俺、という構図になってしまうわけだ。
この状況で、石動有利の不等号が逆転することはない。
石動が俺を異性として見ることはありえないからだ。
今の石動は彼氏持ちなのだから。
石動からすれば、俺は恋人ではなく、幼馴染であり『同性の友人』である。
おまけに俺は石動と違って、異性の経験皆無だ。
何気にこれが強く響いている気がするのは、童貞ゆえのコンプレックスのせいかもしれない。
「足伸ばせるお風呂っていいよねー」
のんきな声で、石動が言った。
ピンク色に染められてしまった俺の脳は、もはや意味深な感じすら皆無な普通の発言だろうと、余計な補完を始めてしまう。
浴槽で存分に足を伸ばし、湯に浸っててらてらと光る白い肌をさらして浮かぶ石動の姿を、俺の脳が勝手に描画する。
どういうわけか、見たこともないくせに胸が浮島のようになっている光景まで現れる。
そんな石動が、壁の向こう側とはいえすぐ隣にいると思うと、石動への意識がいっそう強くなり、冷静を取り戻すことができなくなった。
「んもう、悔しい……!」
誰にも聞こえないように、湯をすくった手を顔にバシャバシャかけながら、俺は浴槽に頭まで沈んでいき、性的なイメージばかり刺激する石動の声から逃れようとするのだった。
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