「ああっ。……あった。良かった」

 真後ろからとりたてて特徴のない声がした。でも僕には誰だかすぐに分かる。最近、よく話しかけられているから。

 僕は大樹さんの机の方に乗り出していた体をスッと自分の机に戻して、何もしてませんよというふうに振る舞った。まあ、少しタイミングが遅かった気はするけど。

 大樹さんは自分の机にぴょこんと近づくと、携帯を手に取り、それから僕の方をちらっと見た。忘れたままどこかに行ってしまったのが恥ずかしかったのか、少しはにかんで言った。

「失くしたかと思って、慌ててしまいました……あはは」

 僕は何を言ったものかと思ってそんな大樹さんを黙って見ていたが、やっぱり訊かずにいられなかった。

「橘さん。その、携帯の待ち受けの写真……あ、ごめん、勝手に見たわけじゃなくて、見えちゃったというか」

 言い訳がましく歯切れの悪い僕の言葉に対し、処理落ちした動画か何かのように大樹さんは一瞬フリーズした。それから出し抜けに言った。

「あっ。あ、はい! 待ち受けの、写真!」

 いきなり大きな反応が返って来たので、僕は驚いて若干後退ってしまった。

「……う、うん。写真。あれさ」

 僕の言葉に被せ気味に、前のめりになって大樹さんが言った。

「興味があるのですかっ!?」


 まだ休み時間は十分ほどあって、他のクラスメイトたちも行儀よく自席に戻ったりはしていない。無軌道に教室内に放たれた言葉が飛び交って、そこら中を泳いでいる。でもそれらはもう完璧に自由というわけでもなくて、五分後の予鈴に向かって各々の着地点を探し始めている頃合いだ。どこかそわそわした空気。でも毎日繰り返す日常のひとコマ。

「これは<オモイスギ>っていうんですよ」

 そんなざわめきの中で、大樹さんの声は──あのとりたてて主張も特徴もない声は──僕の耳にはっきりと届く。カクテルパーティー効果って言うんだっけ?

 それにしても、何だ。

 重い杉? そりゃ、軽くはないだろうな。

 そんな言葉を喉の手前で持て余した。

 でも、写真と大樹さんの顔を行き来した僕の視線から察したのか、彼女ははっと何かに気づいた顔をしてから、手元に取り出したメモにこう書いた。

 思い杉。

 大樹さんらしい、別段可愛くもない文字だった。ただ、整ってはいると思った。

「湯沢の思い杉。天然記念物にも選ばれてるそうですよ」

 大樹さんは椅子ごとこちらに身を寄せて、僕の机の上に置いた自分の携帯を左手で操作した。

 近くに来ると、本当に小さいと思った。

 目線の高さでその頭がひょこひょこと動く。僕の二の腕あたりにある薄い肩。関節が薄く桜色に色づいた細い指。

 僕らのことなんか誰も気にしてなかった。校庭を見下ろす窓側の列の真ん中あたり、僕の席だけが絶海の孤島のように周囲から隔絶しているみたいだった。

 大樹さんが携帯の画面をフリックすると、別角度からの「思い杉」の写真が現れた。

「これ、実際に見に行ったの?」

 僕はそう訊く。

 てっきりネットか何かで探してきた画像だろうと思っていた。

 失礼なことだけど、大樹さんはそうやって動き回るタイプに思えなかったからだ。

「ここ、このあたりからなら自転車で行けるんです。……最後はずっと登り坂で、大変ですけど」

 そういえば近くに湯沢公園という公園がある。ちょっとした山の中腹にあって、街が見渡せる公園だ。あのあたりなのかもしれない。

 曲がりくねった斜面の農道を自転車で登って、結局ペダルが重くなって降りて、こんなことなら自転車は下に置いて歩けばよかったかもしれないと思いながら、息を切らせて登るそのうちに傾斜が緩やかになって、木々の茂った森の中へと続く脇道の分岐に「県指定天然記念物 湯沢の思い杉」の小さな看板があって、それに従って木々の合間に潜り込んでいく……。

 そんな経緯を大樹さんはころころと表情を変えながら喋った。

 この数分で、それまでの日々で僕らの交わした言葉すべての合計よりも多くの言葉を交わした気がした。

 話しながら大樹さんが携帯の上で指を滑らせて、画面上の写真が切り換わった。

 その一枚に僕の目は釘付けになった。

 いわゆる下からのあおりのアングルで、巨大な「思い杉」を捉えた一枚。

 それまでの写真と違うのは、一緒に人の姿が収まっていることだ。

 画面に一緒に人が入ることで杉の巨大さが強調されている。

 人はこちらに背を向けて杉を見上げるようなポーズをとっている。

 ハーフパンツに裾が長めのTシャツのシンプルな服装は、まだ暑さの残る時期に撮ったんだろうなということを思わせた。肩には茶色の小さなリュックを提げていて、少年なのか少女なのか後ろ姿では分からない。

 ただ、誰なのかは分かる。

 どう見ても大樹さんだった。

 僕の視線は、そんな大樹さんの後ろ姿のある一点に引き寄せられた。

 ハーフパンツの裾と細く頼りないふくらはぎの間で、半透明のヴェールを幾つも重ねたような、太陽の光を巧妙に屈折させて閉じ込めたような、繊細で複雑な輝きをただ物静かに湛えている。

 茹でたての茹で卵か、綺麗に剥いた桃みたいな色の、大樹さんの膝裏だった。


「……か、かっこいい写真だね」

 内心の動揺を悟られないよう、努めてクールな口調を作って僕は言った。

「あ、あははっ、携帯、地面に置いて撮るしかなくてですねっ、あんな写真になっちゃいましたっ」

 写真をフリックしたままフリーズしていた大樹さんは急に再起動すると、よほど恥ずかしかったのか携帯の側面のスイッチを操作して画面を切ってしまった。その横顔をちらりと見ると、耳がほんのりと赤くなっていた。

 そのタイミングで予鈴が鳴った。ゴングに救われたね、大樹さん。

「とにかくっ。野口くんがこんなお話できる人で、良かったですっ。こういうのに興味ある人、あんまりいないのでっ」

「ああ、写真ありがとう。すごく興味深い世界だなって思ったよ」

 うん、実に興味深い膝裏だった。

 自分の席に戻って座り直した大樹さんの方を見ると、今はその膝は校則通りの膝下丈のスカートに包まれているようだった。

 僕の視線に気づいてか、大樹さんははにかんで口をこしょこしょと動かした。

 良かったらまた、お話しましょうねっ。

 口元に手をあてて、そう囁くような小声で言った大樹さんの声が、なぜか耳元まではっきりと届いた。



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大樹さんの名は体を表す エヮクゥト・ウャクネヵル・²テラピリカ @datesan

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