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「野口さんっ」
学期初めの席替えから数日経ったある日の休み時間、突然大樹さんが声をかけてきた。さん付けというのもあって、一瞬自分のことだと思わず──このクラスに野口は僕だけなのに──、期せずして一度は無視する形になってしまった。
大樹さんがこちらに顔を向けながらそう言ったのに気づいて、遅れて反応する。
「え、あ、僕?」
「えっ? あ、はい、そうですっ?」
大樹さんは自分から声をかけてきたにも関わらず、わたわたとそう言った。
なんで疑問形なんだよ?
と思ったが口に出さず、かわりに訊き返す。
「名前は呼び捨てでいいよ。で、何?」
言ってから、しまったと思った。大樹さんは明らかに呼び捨てとかするキャラじゃないな。案の定また少しわたわたしてから、大樹さんが答える。
「野口、くんは、珍しい名前ですねっ?」
台本に書いてあったものを下手な演技で読み上げたような上ずった調子で、そんなことを訊いてきた。野口、というのは一般的にも程がある苗字なので、これのことを言っているわけじゃないだろう。下の名前のことを訊いているのだ。
「……これは、何て読むんですか?」
「こずえ、だよ」
小梢。それが僕の下の名前。
一学期以上のあいだ隣の席にいて今更訊かれるのがこれとは、少し悲しくなったけど、僕は努めてそのことを顔に出さないように答えた。
「め、珍しい名前なんですね」
まだぎこちなさの抜けない調子で大樹さんが繰り返した。
いや、その言葉、そっくりそのままお返ししますけどね?
よっぽど口に出してそう言いたかった。実際、言おうと思ったけど、僕らはそういう軽口を叩きあう関係でもないような気がした。そんな僕の葛藤を見透かしたかのように──彼女に限ってそれはないと思うが──大樹さんが言った。
「実は、私もちょっと珍しい名前なんですよ……?」
また、読み慣れていない台本でも読み上げたかのような妙な抑揚のセリフだった。
「へ、へえ。そうなんだ?」
まあ、全然知ってるし、何ならいつも心の中ではそう呼んでるけど、一応興味あるふうにリアクションをした。
「私のこの名前、たいじゅって読むんですけど──あ、よく見ると、ふたりで"大きい"と"小さい"が並んでますね?」
一瞬、僕のことをディスったのかと思ったが、大樹さんのことだから単に思いつきで言っただけだろう。とはいえ、そのことについては僕も前から気づいていて、気になってはいた。大樹さんは憶えていないかもしれないが、一学期にこんなことがあったのだ。
「たちばな、だいき?」
初回か二度目の政治経済の授業だったと思う。利根という腹の出た初老の男性教諭がそんな風に言った。
「あ、ほら、きみだ。きみ」
明らかに僕の方を見て、なんなら指差してもいた。もう片方の手には座席表がある。
「……僕は、野口ですけど」
利根は座席表とこちらで視線を行き来させてから、あ、逆か、と呟いた。
指された当の大樹さんは、思えばこのときもわたわたしていた。利根の勘違いを指摘すべきかどうか迷っていたのだろう。
事はつまり、こういうことだ。
利根は名前の字面の先入観から座席表を読み違えて、大樹さんのことを野口小梢(こずえ)、僕のことを橘大樹(だいき)、だと考えた。
僕らはクラスの中でも目立つタイプでは全くないが、そんなことがあって、名前だけはフルネームでよく憶えられている。気がする。なんなら、未だに他の男連中からダイキくんと呼ばれることだってある。ふざけているにしてもあまりいい気分はしない。
まあそんなわけで、このタイミングで大樹さんが名前の話を振ってきたのはちょっと謎だと言えた。大樹さんとて、自分の名前「だけ」はクラスでよく知られていることを気づかないとは思えない。
そんな疑問について頭の隅で考えていると、話題はなぜか再び僕の名前に戻り、質問が飛んできた。
「そ、そういえば、小梢って……どういう意味なんですか?」
やっぱりそう来たか。これをちょっと恐れていた。とはいえこうまっすぐ訊かれるとはぐらかすのも難しい。
「……木の枝、ってことかな」
なるだけ素っ気なく答えた僕の言葉に、しかしというべきか、やはりというべきか、大樹さんは大げさに反応した。はあぁ~だかへえぇ~だかという声を出したあとに、ちょっと前のめりになってこう言った。
「仲間じゃないですかっ」
そう。
そうなのだ。
どっちも木で、森っぽい名前だ。実際、他の生徒に「なんかこのへん、めっちゃフィトンチッド出てる気するわ」などとからかわれたこともある。そのときも何やら気恥ずかしく、なるだけ大樹さん本人には認識してほしくないなと思っていた。
「仲間ですねっ、野口くん」と大樹さんは嬉しげだったが、僕は「そ、そうだね」と引き気味のリアクションを返すばかりだった。
そこに、始業のチャイムの音。
ゴングに救われた形だ。
結局、この日急に大樹さんが前のめりに話しかけてきた理由は分からなかった。
ただ、この日以降大樹さんはたまに僕に朝の挨拶をするようになって、それは奇妙ではあったけど悪い気はしなかった。
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