#4 鎮魂と再生
ルツィカが倒れる前に服を調達できていたことだけが救いだった。
宿に飛び込んでからの三日間、女主人はなにくれとなく気を配り、食べやすい食事や湯などを提供してくれた。知り合いに持たされた解熱剤はよく効いて、ルツィカの寝息はずいぶん安らかになっている。
それでも薬で熱を下げているだけだ。服薬しなくても平熱になるまではここを動けない。
「あの子の様子はよくなってきたみたいね?」
食堂で夕食をとっていたヨルマに、女主人はそんなことを話しかけてきた。
「おととい駆け込んできたときのあなたってば真っ蒼で、どっちが病人なんだかわからないくらいだったんだから。二人とも元気になってよかった」
「いや、……熱なんて出したことがないから。どうしたらいいかわからなくて」
「妹と言っていたけど、血はつながっているの? 失礼だけどあまり似ていないわね」
どきりとしたが、ルツィカの言葉を思い出して平然と答えた。
「いいえ」
「そう。養護院の出なのね」
「そんなようなものです」
ルツィカは『そう』だがヨルマは『そう』ではない。曖昧な嘘で話を濁してから、ヨルマはそういえばと彼女を見やる。
「このあいだ騒ぎを起こしていた男たち、町の人間ではなかったですよね」
「あいつらねぇ。何年か前に外の国から出入りするようになった連中で、近くの街で商売を始めたみたいなの。でもああいう品のない人たちでしょ、みんなすっかり嫌がっちゃって」
「外の国から?」
「もともと外とは交流がないけどねぇ、外の人たちってみんなああなのかしらね。いやだわあ」
鼻の頭に皺を寄せた女主人の反応に、なるほどな、と内心納得した。やたらと素っ気ない対応をされたのはあの連中が『外』の印象を損ねたのが大きな要因らしい。いい迷惑である。
それにしても、こんな辺鄙な国で商売とは。
出国して二度と戻らない予定だから、もう関係ないといえばそうなのだが、なんともきな臭い。
「そういえばお客さん、お祭りには行かないの? 広場の行進は終わったと思うけど、出店が色々出ていて楽しいわよ」
「ああ……。でもあの子の熱もまだ下がりきらないし、やめておきます。部屋から少しは見えますか」
「通りの出店と、あとは最後の御魂送りなら窓から見えるでしょうね」
道理で、とヨルマは窓から見える通りに目をやった。祭りが近いというのは宿に飛び込んだときに聞いていたが、今日はどうも朝から町全体が浮足立っている。
──出店を冷やかしてルツィカにお土産を買うのもいいけど、一人で留守番させるのもな……。
ヨルマは内心で独り言ち、養護院で教わったラサラ式の所作で食事への礼を捧げて部屋に戻った。
ルツィカは身を起こし、窓の外を眺めていた。女主人の言った広場はここから少し遠い。昼頃そちらのほうから歓声が聞こえてきていたが、それは山程の花を飾りつけた山車が通りを練り歩き、街の人びとで伝統の踊りを踊っていたからだという。
今も喧騒だけが風に乗って届く。
「ミランの花祭りって有名なのよ。国中から参列者が集まるし、教科書にも載っているの」
「へえ……。最後のみたま送りならここから見えるってさ」
夕食にと作ってもらった雑炊の皿は空になって枕元に置いてあった。食欲も戻ったようだし顔色も悪くない。声をかけて額や首筋に触れてみると、一時よりは体温も下がったようだった。
「三百年前にミランで疫病が流行って、その犠牲者を弔うために始まったのが花祭り。現代では身近で亡くなった人の魂を慰めるお祭りに変化したの。最後に火入れした天燈を空に放って、鎮魂と再生を祈る」
「鎮魂はなんとなく解るけど……再生?」
「人の魂は蝶となって、遺されたわたしたちを見守り、やがてアルベルト山へ向かってラサラさまのもとへ召される。そしていつかわたしたちの元に還ってきて、再び生まれ直す……。だから再生」
ヨルマはベッドの端に腰掛けた。
この国の民は、死して尚毒の曠野を抜けることは許されず、城壁のなかに閉じ込められてラサラの結界から出られない。
ひどく閉鎖的な生涯、そして来世。
「さまざまな国を巡ってきたけれど、祭祀の起源というものは大半が鎮魂による」
ルツィカは無言で振り返る。
「信じる神が異なる大陸極北のこの国でも、同じような理由で祭りが生まれる。どの国にも同じように死者を弔う気持ちが存在することが、人間の本質のひとつを表しているような気がするな」
「……あのね、わたし、前にヨルマが『よい夢を』って言ってくれたとき、外の国の人も寝る前のあいさつは同じなんだなって思ったの。そういうことよね」
「うん。そういうこと」
宿の前の通りにはずらりと出店が並び、夕方ごろから人通りが増え始めている。
穏やかな様子で祭りを楽しむ人々を見下ろしているうちに、客の大半が同じような衣装を身に着けているのに気がついた。
柔らかそうな生成のシャツに、赤や青や黄の糸で細かい刺繍がされている。袖はふんわりと膨らんで手首で絞る形、襟は大きなレース。中でも年若い少女たちは、その下に明るい色合いのスカートを合わせていた。下にペチコートを重ねているのか、彼女たちが歩くたびに裾がふわふわと揺れている。
「あれはね、ソロチカ。ラサラの伝統衣装よ。シャツの刺繡の一つひとつに意味があって、友だち同士で刺繍してプレゼントしたり、好きな相手に贈ったりするの。わたしたちも、シスターが一人一枚刺繍してくれた」
「お祭りのときに着るんだ?」
「そう。お祭りとか、冠婚葬祭とか。下に合わせる服の色や、スカプラリオなんかで調整するの」
ルツィカの口調には淀みがない。教科書の内容を暗記したのではなく、ラサラ教国の教えや地方の祭りの起源、また伝統衣装について、彼女自身がしっかりと噛み砕いて理解していることが伺えた。
彼女は敬虔な信徒であり、故郷を愛する国民でもあるのだ。
これからもそう在ろうとしていた。そう在るべきだった。
「いつか御魂送りを見に行きたいって思っていたの。こんな状況だけど、すこし嬉しい」
……ヨルマと出逢ってしまったがために、その運命が歪んだ。
自分は何かとんでもない間違いを犯したのではないかと思えてくる。いくらビアンカに頼まれたからといって、こんな少女を連れ回す自分は一体何様か。ルツィカだって何もわからない子どもではないのだ、事情を一から十まで全て教えたうえで選択肢を与えるべきだったのではないか。
物思いに耽るうちに日が暮れた。
夜には大地の男神が遣わす死霊が人々を闇に引き摺り込む、という教えのあるラサラでは、日が暮れる前に皆が帰宅し、日が沈めば町中に人影はなくなる。しかし祭りの今日だけは例外なのか、外を歩く人々は辺りが暗くなってから天燈の準備を始めた。
木枠と薄い紙でできた、持ち手のない袋を引っくり返したような形状の天燈を手に持つ。
ゴ───ン……と町の中心部、おそらく教会の鐘が鳴る。一斉に大人たちがマッチを擦った。
二つ目の鐘の音で、天燈内部の灯芯に火が差し入れられる。それまでは少し頼りなくへたれていた天燈は、火がつくと見る見るうちに膨らんでいった。
静かな夜。
しばらく息を潜めて見守っていると、鐘の音が聞こえていた教会のほうからふわりといくつかの天燈が浮かび上がるのが見えた。その姿を見上げて、通りの人々がそれぞれ天燈から手を放す。
一斉に夜空へと浮き上がる無数の天燈。
見慣れないヨルマの目には、夢か幻のような光景にも映った。
ヨルマたちが身を寄せていた窓辺のすぐそばを、いくつかの天燈が柔らかく飛翔していく。ちらりとルツィカを一瞥すると、顎を上げて天燈の行く先を見守るその手は祈るように腹の前で組まれていた。
鎮魂と再生。
見下ろせば通りに犇めく人々は、まだよく祭りの意味が解っていない子どもたちを含めて、殆どが手を組んで祈りを捧げているようだった。周囲の建物の窓から御魂送りを見ていた人々も全て。ヨルマひとりが、雑踏の中で迷子になった子どものように、ぼんやりと気怠く闇夜を眺めている。
祈る神を持たないヨルマにも、彼らの祈りが美しいものだということは判った。
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