第二章 天海には程遠い
第11話 それは信仰であって魔法ではない
ビアンカの声が好きだった。
喉のあたりでひっかかって鳴るような、低く、落ち着いた声。
どこまでも柔らかく深慮な口調で語り聞かされたいくつもの物語は、いまもルツィカの胸の奥で大切に仕舞われている。
大地の女神ラサラさまの御力によってわたくしたちは守られています。
わたくしたちはラサラさまの思し召しのままに慎み深く生きていかねばなりません。
主は最後の力を振り絞ってわたくしたちのために結界をつくってくださいましたが、深く傷付いていらっしゃったため、大地が翳に覆われるあいだの時間にはその御力が弱まってしまいます。したがって、ルツィカ、陽が沈み、影の神の支配が強くなる夜の間はけっして家の扉を開けてはなりません。
もしも闇の声に応えてしまったならば、男神スギルの遣わす死霊を家のなかに招き入れることとなってしまいますからね……。
ルツィカは耳の奥にビアンカの声を思い出しながら膝を抱えた。
けっして外出してはならないと教えられてきたこの時間帯、よりによって正しい信仰心を持たねば迷うといわれる〈白霧の森〉のなかで、ルツィカは夜を明かそうとしている。
正教都を出てからここまでルツィカの手を引いてきたヨルマは、陽が完全に沈み切る前に野宿の準備をすると恐ろしいことを言いだした。自然に倒れて朽ちようとしている老木にルツィカを座らせ、自分はせっせと枝を掃ったり木を拾ってきたりしている。適当な大きさの石ころをいくつも拾ってきて、地面に小さな丸を描くかたちで並べ、そのなかに木の枝を重ね、さらに上に葉を置いた。
「ひぃ……」と、甲高い声が聞こえてルツィカは顔を上げた。
闇の向こうから、女性か小さな子どもの悲鳴のようなものが響いてくる。音の出所を探ろうと周囲を見回しているとヨルマがこちらを見た。
「鳥だよ」
「でも、人だったら」
ひぃ……、ひぃ……、と短い声が何度も聴こえる。
「本当に人間ならこんな機械的な悲鳴は上がらない。二週間前、正教都に向かう道中にも同じような鳴き声が聞こえてた。それにここは、正教都と町をつなぐ街道から逸れた森のなかだよ。ラサラの人がいるはずはない」
ヨルマは即席の竈に手を伸ばして何事かをつぶやいた。
ルツィカには聞き取れなかったその言葉は、いくつかの音節から成る文章のようだ。
ヨルマの声が途切れた瞬間、竈に敷かれた葉に、空気を舐めるような動きで赤い火が灯った。あっという間に火は大きくなっていく。かといって燃え盛ることもなく、ちょうどいい焚火程度の大きさになったところで落ち着いた。
ルツィカは唖然とその様子を見つめていた。
信じ難い光景だった。
「いま……、何をしたの?」
「何って、火をつけた」
「……コンロもなしにどうやって?」
世の中は、大気中に含まれる魔素という成分をエネルギーに変換し、それをもとに様々な道具を稼働することで恙なく廻っている。
ラサラ教国の場合は正教会の奥地にエネルギー変換装置を据え、そこからゴドルム山脈の地下を通る魔素の流れに沿って国中へとエネルギーを届けているのだ。コンロや保冷庫や洗濯機、通話機に映写機に部屋の明かりなどの魔導式も全て、魔導具とそれを動かす魔素エネルギーが揃って初めて動くものだ。
ヨルマは何もしていなかった。
葉のそばに手を差し伸べて、聞き取れない言葉をつぶやいただけだ。着火する道具もない森のなかで、火打石を打つとか木を擦り合わせるとかそういう火熾しの手順もなく。
「魔法で」
彼の端的な返しに、一瞬からかわれているのかとも思ったけれど、ヨルマの表情は至極落ち着いていて冗談を言っている風でもない。
確かに魔法はあったといわれている。けれど今はない。
少なくともルツィカの常識ではそうだったけれど、相手は東大陸生まれの旅人だ。自分の常識が相手の常識であるとは限らない。慎重に言葉を選んだ。
「ヨルマは……魔法使いなの?」
「魔法は使えるけど、べつに魔法使いではないな」
「さっき、なんて喋ったの」
「昨日、本屋の前で教えたろう。古代語だよ。炎の神さまに少し火を分けてくださいってお願いしたんだ」
「神さまは人を助けないって、ヨルマが言ったのに?」
「そうだね」ヨルマは右目のはしを歪めるようにして笑った。
ぱちぱちと燃える焚火に照らされたヨルマの白い髪や頬がだいだい色にひかっている。
「魔法は契約だから。自分の持つ魔力や触媒を献上する代わりに、神々や精霊や御子……〈隣人たち〉の御力のおこぼれをもらうだけ。この国の人たちが女神ラサラに期待するような、絶対的で無償の守護とはまた違うんだよ。それは信仰であって魔法ではない」
ヨルマは膝を抱えるルツィカを見やって、こっちおいで、と手招いた。
腰を下ろしていた倒木から離れて、地べたに座るヨルマの横に移動する。ヨルマはウエストポーチから小さく折り畳まれた紙を取り出し、それを開いて地面に置いた。紙には紋様のようなものが描かれている。
「これは魔法陣。特殊なインクで描かれた魔法の構築式。円は力の向き、つまり循環と永続を表している。内側に書かれているのは古代語で、魔法の内容や効果が指定してある。この魔法陣は空間拡張魔法の一種で、一般的には『
ぺたりとヨルマが魔法陣にかかるように掌を置くと、インクで描かれた部分が淡く発光した。
ぽんっと弾けるような音とともに煙が少量立ち込める。
すると魔法陣の上には、ヨルマの旅荷物であるバックパックが乗っていた。
「どこから出てきたの、これ……」
「魔法でつくった空間の中から。これは魔導式の前身みたいなものだ。現代の魔導式は大抵この魔法陣を組み込んで作られていて、コンロなら火をつける、保冷庫ならものを冷やす、そういう内容の効果が指定してあるんだ。つまり魔導式っていうのは、魔力の代わりに魔素エネルギーを献上することで誰にでも魔法が使えるようにと開発された技術なわけだ」
ヨルマは他人事のようにそう言って、バックパックから食料を取り出した。パンと干し肉。正教都の町中で売っているものだ。
「こんなに急に出ていくことになると思っていなかった。こんなものしかなくてごめん」
「……ヨルマのぶんは?」
「おれは一日か二日くらい食べなくても平気だから、ルツィカが食べて」
そういえば目の前にいるのは二、三日食べるのを忘れて行き倒れた人だった。食べるのを忘れるとはどういうことかと呆れたものだったが、彼の体のつくりがルツィカとは少し違うらしいと判明した今、本当に忘れていたのだろうと納得できた。
きっと平気というからには平気なんだろう。ヨルマの手から食べ物を受け取る。
ヨルマはまだごそごそと荷物を引っくり返していた。
ブランケットを地面に敷いてくれたのでその上に移動する。それから取り出したマグカップを両手に持ち、また古代語を唱えた。聞き取ろうとしてみたが、やっぱり全然わからない。
「はい」と差し出されたカップのなかは、透明な水で満ちていた。
「また魔法?」
「いまのは水の神さまにお水をくださいってお願い。古代語で神々に交渉する言葉を『
「飲んでも大丈夫なの?」
「水の神から賜る水以上に清浄な飲み水なんて存在しないよ」
ルツィカにとって水の神とは、まともに読んだこともない創世神話に登場する以上の意味を持たない。
けれど目の前にいるヨルマのことはもう全面的に信用している。
カップに唇をつけて失笑した。会ったこともない女神ラサラを信仰している自分なのに、同じように会ったことのない水の神は信用できないなんておかしな話だ。
昨日はあれほど胡散臭いと感じた魔法を、自分でも不思議なくらいすんなりと受け入れられたのは、彼の矢傷が非現実的な速度で治癒したのをこの目で見たからかもしれない。
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