第8話 バサバサした服着て尾行するやつがあるか

 二週間前に、ルツィカはこの通りで旅人を拾ったのだった。

 子ども二人がようやくすれ違えるくらいの狭い小路。近所の子どもたちが庭のごとく走り回り、自分たちの縄張りを荒らすものは許さんとばかりに毎日せっせとゴミ拾いをして帰るので、多分そのへんの路地裏のなかじゃ一番きれいだ。……きれいな路地裏というのもなんだか変だけど。

 たいていの路地裏は、建物と建物のあいだに心ばかりの隙間があるだけで、換気扇や勝手口やゴミ箱があって汚い。そのうえ浮浪者が風を避けるのに使うからあまり治安はよくないとされている。

 シグみたいに誰も知られず息を引き取る人も少なくはない。


 彼を見つけた日、ルツィカは確かにシグに呼ばれた。「ルツィカ」と、喉の奥でごろつくような優しい声で。

 前々から自分にはそういうおかしなところがある。誰もいないのに声が聞こえたり、気配を感じたり、ひどいと肩を叩かれることも。極めつけにおかしいのは勿論涙が石になるというこのトンデモ体質だから、もうそういうふうに生まれついたものは仕方がないと割り切っていた。

 だから今回も、その類いかあるいは気のせいだと思って誰にも言わなかったのだ。

 ただ、ヨルマならまあいいかと、つい口が滑った。


 ──どうせ、すぐにいなくなる人だもの。


 ……などと考えているうちに、ルツィカの耳には自分以外の足音が聞こえはじめていた。

 遠くのほうからかつかつと聞こえてくる。距離を取っているのだろうが、この時間帯のこの路地は人通りが少ないため、自分以外の音がよく響くのだ。

 ルツィカが立ち止まると、足音もやむ。

 それでも距離を詰めてこないことには通りすがりの可能性も捨てきれない。ルツィカは再び歩きだした。

 足音もついてくる。


 ヨルマは昨日、「見えないところで尾行して必ず不審者を捕まえるから、いつも通りの道で帰ってみてくれるかな」とそんなことを言っていた。

 学校を出てからというもの、ヨルマが尾行している気配も物音も感じない。本当についてきているのだろうか。くだらない嘘をつく人ではないだろうし、自分で言いだしたことを放り出すとは思えないのだが、あまりにも存在が感じられない。


 確かにもともと存在感というか──生きている気配が希薄な人だった。

 みんなと同じように喋って動いていても、どこか作り物めいている。さっきまで一緒にいたのに、ふとした折にヨルマがそこにいることを忘れる。油断すると人の意識から掻き消えてしまうのだ。あんなに目立つ白い髪なのに。


 ちょうど二週間前にヨルマが倒れていたあたりを通りすぎた。

 そのときだ。

 背後から「うっ」と男の声が聞こえて、人が転ぶような物音が一度。それきり静寂が戻ってくる。

 ややあって、


「ルツィカ、もういいよ。見覚えはあるかい」


 気絶した不審者を肩に担いだヨルマがやってきた。

 どう考えても一発で伸しているようだが、人間はそんなに簡単に意識を失う生き物だっただろうか。


「……旅人ってみんなそんなに強いの?」


 ヨルマは苦笑した。「まあ、自衛のためにある程度は……」


「どこに隠れてたの。全然わからなかったわ」

「上から追いかけてた。飛び降りて当て身を入れただけだよ」


 上、とヨルマが指さしたのはもちろん路地の両脇に聳える建物だ。

 一階建ての店舗から五階建てのアパートメントまで様々な建物が並んでいて、言うほど簡単に『上から追いかけ』て『飛び降り』られるはずがないのだが。

 ……まあ、ラサラの外に広がる毒の荒野を一人で踏破する人だから、これくらいは朝飯前なのかも。


 改めて、ヨルマに気絶させられた男に目をやる。

 白い上下に紫紺のスカプラリオを着て、腰の辺りを同色の帯で締めている。三十代くらいの若い修道士だった。


「……正教会のブラザーだわ。見たことがある」

「やっぱりそうか。第三区教会の人と服が同じだよなとは思ったんだけど。全く、こんなバサバサした服着て尾行するやつがあるか」


 ヨルマは呆れ顔で腕を組んだ。尾行するのにマナーでもあるんだろうか。


「こいつに尾行される心当たりはある? 片想いされているとか、話しかけられたことがあるとか」

「話したこともないわ。大体どうして教会の人がわたしのあとをつけるわけ?」

「おれにもさっぱりだよ」


 気絶した修道士を路地に横たえ、ヨルマは腰につけたウエストポーチに手を回す。ロープを取り出して、修道士の手足をてきぱきと縛り上げた。


「そんなもの持ってたの」

「旅をしていると色々便利だよ。──こういう事案は全て教会に通報するんだったっけ?」

「うん、そう。教会の警備兵だけど……」

「教会のブラザーに尾行されました、なんて教会の警備兵に通報してもなぁ。揉み消されるってことはないだろうが。それにしてもなぜ急に……」


 ヨルマの端正な顔から穏やかな感情の全てが削り取られていた。

 どきりとするほど険しい様子に、ルツィカは息を止める。


「ルツィカの涙のことを知っているのはビアンカだけだよな」

「そうよ。それとヨルマだけ……なんの関係が?」


 ヨルマは何かを考えるように唇を真一文字に引き締め、修道士を見下ろす。

 この二週間ですっかり見慣れた黄金の双眸が、燃えるように物騒な光を灯していた。


「養護院に戻ろう。なんだか嫌な感じだ」






 裏口の木戸から養護院に戻ると、裏庭の畑で弟妹が二人、草むしりをしていた。

 帰ってきたルツィカたちを見つけるや否や握っていた雑草を放り出し、わらわらと脚にまとわりついてくる。


「おかえりールツィカ、ヨルマ!」

「あのねぇビアンカがね、お客さまが来てるからね」

「しばらく応接室の周りに来ちゃだめだって!」


 ヨルマが微笑んだ。


「なるほど、わかった。気をつけるよ」


 応接室は一階にある。養護院の正面玄関を入って右手側にある部屋で、他教会からの視察やその他の来客があった際に使用するところだ。お客さまをお迎えするための場所だから、日頃から子どもたちは出入りを禁じられている。

 勝手口から台所に入ってみると、施設内は静まり返っていた。

 ヨルマが人差し指をたてて唇にあてた。ルツィカは小さく頷いて、足音も極力殺しながら、前を行くヨルマのあとをついていく。


 異様な空気だった。

 いつもだったら子ども部屋で遊ぶ弟妹のはしゃぐ声や、出入りするシスターたちの静かな話し声が聞こえてくるはずなのに、この静けさからして誰もいないようだ。かなり入念に人払いしているらしい。

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