#9 哀れな曠野の犬どもよ

「こいつよ。つかまえて!」

 後ろにいたヨルマが前に出て、作業台をエマに向かって蹴り倒す。テーブルの上に準備されていた今夜の夕食の材料が、エマと、その後ろからやってきた数人の男に襲い掛かった。ヨルマを拾ってきたあの日、彼を座らせてビアンカが五日分の食事を供した作業台。

「エマ……」

 茫然とするルツィカの視界が突如、ぐんっと高くなった。ヨルマがルツィカの体を肩に抱え上げて走り出したのだ。

「何事だ!」

 台所での一瞬の攻防は当然応接間にも聞こえていた。修道服を着た男たちが通路を塞いだが、ヨルマが一瞬で蹴り飛ばす。

 応接間のなかのビアンカと目が合った。真っ蒼な顔で、ソファから腰を浮かせてこちらを見ていた。

 ヨルマは全て構わず一直線に階段を駆け上がり、すぐのところにあるルツィカの部屋のドアを開ける。ルツィカをベッドに放り投げ、机を引き摺ってドアの前に置いた。その直後、怒声とともに何人かが階段を上がってきて、ドアを蹴ったり叩いたりしはじめた。

 机を後ろ手に押さえながらヨルマは静かに口を開いた。

「ルツィカ。今からきみを誘拐……いや拉致する。もう二度とラサラには戻れない。どうしても持っていきたいものがあったら今すぐカバンに詰めてくれ。悪いけど衣服は持っていけない」

 ここまでくると、ルツィカにももう、解っていた。

 この面倒極まりない体質がどこかでエマにばれ、エマはルツィカの身柄を正教会に引き渡そうとしているのだ。

 そしてビアンカとヨルマは、ルツィカを正教会に渡すまいとしている。

「嫌、いやよわたし正教会に行く、だってそうしないとビアンカたちが……」

「だめだ。行ったら死ぬ。ビアンカはきみを死なせたくないんだ。だからおれに、きみをラサラから連れ出すよう依頼した」

「ビアンカが……?」

 男たちの怒声に混じってビアンカの悲鳴が聞こえた。やめて、やめてください。ルツィカは普通の女の子なんです。そんなふうに怒鳴っては恐ろしいに決まっているではありませんか。お願いだからあの子を放っておいて──

 ルツィカは目を閉じて深呼吸をした。

 深く吸って、吐く。

 目蓋を押し上げた瞬間に、全ての迷いを捨て去った。

「わかった」

 ──もう二度と、ラサラには戻れない。

 ヨルマが押さえている机に飛びつき、天板の下の浅い抽斗を開ける。奥のほうに仕舞っていた四つ折りの紙を掴んで、机から離れた。学校帰りだからカバンは肩にかけたままだ。教科書もノートも逃げるには不要だが、荷物の取捨選択をしている暇はない。

「今すぐわたしを攫って逃げて!」

 体当たりの続いていたドアが静かになる。次の瞬間、凄まじい音とともに戸板の一部が破壊された。向こう側から斧でぶち破る気だ。

 なりふり構わない相手の執念に膚が粟立つ。

「……ったく聖職者ってのはどこも一緒だな」

 ヨルマは斧の二撃めを全身で踏ん張って耐えると、僅かな隙にルツィカの体を抱き上げて、裏庭に面している窓を開け放った。

 ルツィカの部屋は台所の真上にあたる。見下ろすと、さっき庭で草むしりをしていた二人が畑の隅っこにしゃがみ込んで泣いていた。台所での騒ぎや二階からの怒声に怯えているのだ。ノエルが抱きしめて背中をさすっている。

「つかまってて」

「きっ──」

 ルツィカの部屋のドアが見るも無残に破壊され、バリケード代わりの机が薙ぎ倒された瞬間、ヨルマは窓の外に身を躍らせた。

 一瞬の浮遊感ののち、がくんと体が揺さぶられる。

 ヨルマはルツィカを抱えたまま飛び降り、無事に着地して、泣く弟妹たちに向かって微笑み、ついでに人差し指を立てて唇に当てる余裕まで披露した。ノエルが呆気に取られた顔でこちらを見上げ、「二人とも、一体なにが」と零す。だがその問いよりも、追手が二階の窓から顔を出すのが先だった。

「貴様、ヨルマとかいう異教徒か……!」

 ヨルマは笑った。薄い唇を釣り上げて、黄金の双眸を酷薄に細める。

「……なんだ。バレてたのか」

「なんだと?」

「おれは東大陸がわすらるる峡谷に眠る〈災禍〉の意思を継ぐ者──。気楽な隠居の旅のつもりだったけど、こんな辺境のド田舎でこんな面白いものを見つけるとは思わなかったな。〈災禍〉への供物に、こいつは貰ってくことにする!」

 ヨルマはまるで用意していた口上であるかのようにすらすらと喋った。

「さらばだ。とうの昔に死んだ神をいつまでも有難く崇め奉る、哀れな曠野の犬どもよ!」

 かっと顔を赤黒く染めて、司祭が怒鳴る。

「……殺せ!!」

 ルツィカの信仰に、ぴしりと罅が入った。

 ヨルマが動き出す気配を感じて、ルツィカはノエルたちを見る。今までずっと一緒にいた家族。これから先もずっと一緒だと当然のように思い込んでいた。一緒に大人になり、一緒にこの養護院を、ラサラを支えてゆくのだと。

「ノエル、お願い、お願い、みんなを……守ってね。ごめんね」

「ルツィカ」

「ごめんなさい……!」

 ぽろりと涙が零れた。両手で顔を覆う。涙のひとかけらも、ここに残してはいけない。

 裏口から路地に踊り出たヨルマが人間離れした動きで跳躍する。窓枠や雨樋などを足掛かりにして民家の屋根に上ると、次々に建物に飛び移っていった。

 ヨルマの肩に担がれたルツィカの目に、養護院の二階の窓からこちらを睨む男が見えた。

 正教会の警備兵の装備をした男が弓矢を構えている。

 危ない、とヨルマに声をかけるより早く跳んできた一本の矢は、まるで意思でもあるかのように真っ直ぐルツィカの顔の横、ヨルマの左肩に深々と突き刺さった。

「やめて……! ふたりが怪我をしたらどうするのですか!」

 ビアンカの泣き叫ぶ声が胸に痛かった。

 ──こんな別れ方になるなんて。ビアンカ。

 ビアンカが警備兵に取り縋り、弓が下ろされた。部屋の奥に消えた彼女の姿はそれきり見えなくなった。

「ヨルマ、肩……!」

「ああ、なんか痛いね。どうなってる?」

「矢が! 刺さってる!」

「わかった、大丈夫。あとで抜くから」

「大丈夫じゃないでしょ……!」

「へいきだよ」ヨルマの口調は平然としていた。それがかえって恐ろしく、せつなかった。

 浮遊感と衝撃の連続を、ヨルマの首に抱きついてただ耐える。

 人命を尊び、困難には手を差し伸べ、終末の日までラサラを守る役目を負う聖なる人々が、唾と一緒に吐き捨てた言葉。

 ──「殺せ!!」

 それはルツィカが十五年の人生で聞いた言葉のなかで、もっとも物騒でもっとも残酷な響きを孕んでいた。

 よりにもよって正教会の、ラサラさまに仕えて市民と親しむ司祭の口から。

 一体自分はいままであの人たちの何を信じていたのだろう。

 行ったら死ぬだの、殺せだの。

 ……もう何も聞きたくない。


 ようやくヨルマが足を止め、ルツィカの体を地面の上に下ろしたとき、すっかり腰が抜けたのか足が萎えたのかとにかくしゃんと立つことができなかった。

 もう、南門の外だった。

 十五年前にルツィカが捨てられていた場所だ。

 古びた木製の門と、正教都を囲むアルベルト山の木々。ここより先に広がるのは、正しい信仰心を持たぬ者は忽ち迷うとされる〈白霧の森〉だ。しかも陽が沈みはじめている。夜になれば男神スギルの遣わした死霊が闊歩するゆえに、ラサラの人びとは夜の外出を慎むものだった。今ルツィカの存在全てがラサラ教の教えに逆らっている。

「これからどうするの……?」

「さあ、どうしようか。ルツィカはどうしたい?」

 訊かれたルツィカは黙り込んだ。

 どうしたいって、ルツィカはずっとラサラで大人になっていくはずで、いつかはビアンカの手伝いをするために教会や養護院で働いて、同じように親のいない子どもたちと過ごして、そうやって寿命を全うするのだと思っていた。

 それ以外の道はなかった。

 ラサラに生まれ、養護院に引き取られたそのときから。

 答えられなかったルツィカを見下ろして、ヨルマは息を吐いた。それから僅かに身を捩って、左肩に刺さったままの矢の位置を確認する。そうだ、と顔を上げると、ヨルマはぞんざいな手つきで矢を掴み、力任せに引き抜いた。

「ひっ……!」

「あ、ごめん。でも本当にへいきだから」

 鏃に血のついたそれを茂みにぽいと投げる。まさか外の国の人はみんな矢が体に刺さるくらいなんでもないのだろうか? いやそんなばかな……。

「あんまり気持ちいいものじゃないけど、見てみて」

 くるりと背中を向けたヨルマの左肩は血で染まっていた。

 ルツィカに見えるようにと腰を屈めた彼の肩に手を伸ばす。破れた服の裂け目から、痛々しい傷痕が覗いていた。小さめの鏃が刺さっていた穴が開いている。

「痛くないの……」

「すぐ治るよ」

 痛くないよ、とは彼は言わなかった。

 ヨルマの傷痕は、穴の奥側から血と肉が盛り上がってきたかと思うと、見る見るうちに元の白い膚を取り戻した。まるで自然治癒を何倍も早送りしたような光景だった。「外の人みんながこうというわけではないんだけど、おれは特別製で」とヨルマは目元を緩めて、ルツィカの頭をぽんと撫でる。

「だから、そんな泣きそうな顔しなくてへいき」

「でも痛いんでしょう……?」

 ヨルマは何も答えず、行こう、と手を差し出してきた。嘘をつけない人だから、本当のことを言いたくないときはこうして黙るのだろうなと思った。

「そういえばルツィカ、さっき、机のなかから何を持ってきたの」

「……手紙。十五年前、産着のなかに入ってたもの」

「じゃあもしかしてルツィカを生んだ女の人の……」

「そうだと思う」

 事情はどうあれルツィカを置いていった母親からの手紙だ。

 どんな言い訳が連ねてあろうと、ルツィカの身上に変化があるはずもない。興味もなかった。ビアンカから受け取って以降一度も開いたことがない。

 それでも、どうしても持っていきたいものと言われて咄嗟にこの紙が思い浮かんだ。

 そういえばまだ読んだことがなかったな、と。

 古びた紙をゆっくりと開いてみると、短い文が書いてあった。


『神さま。私の愛するルツィカをお守りください』


 ルツィカは手紙を千々に破り去った。風のない森だ。破片は地面にひらひらと舞い落ちて、ただの紙片になった。

 風に乗ってどこかへ飛んでいけば、まだ情緒もあっただろうに。

「いいのか?」

「いいのよ」

 ほんとだね、ヨルマ。

 神さまは、いる。いるかもしれない。

 だけどわたしたちを守ったり救ったりなんてしてくれないのだ。


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