#8 最初に足音に気付いたのは
最初に足音に気付いたのは三日前だ。
一人で裏道から下校していたところ、自分の履いた靴ではない足音が聞こえた。立ち止まって振り返ると足音も止まり、背後には誰の姿も見えない。
子ども二人がようやくすれ違えるくらいの狭い小路。近所の子どもたちが庭のごとく走り回り、自分たちの縄張りを荒らすものは許さんとばかりに毎日せっせとゴミ拾いをして帰るので、多分そのへんの路地裏のなかじゃ一番きれいだ。……きれいな路地裏というのもなんだか変だけど。
たいていの路地裏は、建物と建物のあいだに心ばかりの隙間があるだけで、換気扇や勝手口やゴミ箱があって汚い。そのうえ浮浪者が風を避けるのに使うからあまり治安はよくないとされている。シグのように、誰にも知られず息を引き取る人も少なくはない。
彼を見つけた日、ルツィカは確かにシグに呼ばれた。「ルツィカ」と、喉の奥でごろつくような優しい声で。
前々から自分にはそういうおかしなところがある。誰もいないのに声が聞こえたり、気配を感じたり、ひどいと肩を叩かれることも。極めつけにおかしいのは勿論涙が石になるというこのトンデモ体質だから、もうそういうふうに生まれついたものは仕方がないと割り切っていた。
だから今回もその類いだろうと、誰にも言わなかったのだ。
ただ、ヨルマならまあいいかと、つい口が滑った。
──どうせ、すぐにいなくなる人だもの。
などと考えているうちに、ルツィカの耳には自分以外の足音が聞こえはじめていた。
遠くのほうからかつかつと聞こえてくる。距離を取ってはいるが、この時間帯のこの路地は人通りが少ないため、自分以外の音がよく響くのだ。
ルツィカが立ち止まると、足音もやむ。
それでも距離を詰めてこないことには通りすがりの可能性も捨てきれない。ルツィカは再び歩きだした。
足音もついてくる。
ヨルマは昨日、「見えないところで尾行して必ず不審者を捕まえるから、いつも通りの道で帰ってみてくれるかな」と言った。
だが、学校を出てからというもの、ヨルマが尾行している気配や物音を微塵も感じない。本当についてきているのだろうか。くだらない嘘をつく人ではないだろうし、自分で言いだしたことを放り出すとは思えないのだが、あまりにも存在が感じられなかった。
確かにもともと存在感というか──生きている気配が希薄な人だ。
みんなと同じように喋って動いていても、どこか作り物めいている。さっきまで一緒にいたのに、ふとした折にヨルマがそこにいることを忘れる。油断すると人の意識から掻き消えてしまうのだ。あんなに目立つ白い髪なのに。
そうして、ちょうど二週間前にヨルマが倒れていたあたりを通りすぎた。
そのときだ。
背後から「うっ」と男の声が聞こえて、人が転ぶような物音が一度。それきり静寂が戻ってくる。
ややあって、
「ルツィカ、もういいよ。見覚えはあるかい」
気絶した不審者を肩に担いだヨルマがやってきた。
どう思い返しても一発で伸したようだったが、人間はそんなに簡単に意識を失う生き物だっただろうか。
「……旅人ってみんなそんなに強いの?」
「まあ、自衛のためにある程度は」
「どこに隠れてたの。全然わからなかったわ」
「上から追いかけてた。飛び降りて当て身を入れただけだよ」
上、とヨルマが指さしたのはもちろん路地の両脇に聳える建物だ。
一階建ての店舗から五階建てのアパートメントまで様々な建物が並んでいて、言うほど簡単に『上から追いかけ』て『飛び降り』られるはずがないのだが。
──まあ、ラサラの外に広がる毒の曠野を一人で踏破する人だから、これくらいは朝飯前なのかも。
改めて、ヨルマに気絶させられた男に目をやる。
白い上下に紫紺のスカプラリオを着て、腰の辺りを同色の帯で締めている。三十代くらいの若い修道士だった。
「……正教会のブラザーだわ。見たことがある」
「やっぱりそうか。第三区教会の人と服が同じだよなとは思ったんだけど。全く、こんなバサバサした服着て尾行するやつがあるか」
「気になるのはそこなの?」
尾行するのにマナーでもあるのだろうか。
「こいつに尾行される心当たりはある? 片想いされているとか、話しかけられたことがあるとか」
「話したこともないわ。大体どうして教会の人がわたしのあとをつけるわけ?」
「おれにもさっぱりだよ」
気絶した修道士を路地に横たえ、ヨルマは腰につけたウエストポーチに手を回す。ロープを取り出して、修道士の手足をてきぱきと縛り上げた。
「こういう事案は全て教会に通報するんだったっけ?」
「うん、そう。教会の警備兵だけど……」
「教会のブラザーに尾行されました、なんて教会の警備兵に通報してもなぁ。揉み消されるってことはないだろうが、それにしてもなぜ急に───」
突如、ヨルマの端正な顔から穏やかな感情の全てが削ぎ落された。
どきりとするほど険しい様子に、ルツィカは息を止める。
「……ルツィカの涙のことを知っているのはビアンカだけだよな」
「そうよ。それとヨルマだけ……なんの関係が?」
「養護院に戻ろう。なんだか嫌な感じだ」
ヨルマは何かを考えるように唇を真一文字に引き締め、修道士を見下ろす。
この二週間ですっかり見慣れた黄金の双眸が、燃えるように物騒な光を灯していた。
裏口の木戸から養護院に戻ると、裏庭の畑で小さい弟妹が二人、草むしりをしていた。
帰ってきたルツィカたちを見つけるや否や握っていた雑草を放り出し、わらわらと脚にまとわりついてくる。
「おかえりールツィカ、ヨルマ!」
するとその声を聞きつけて、建物の影からノエルが顔を出した。
「おかえり、二人とも。正教会からビアンカにお客さまがあって、応接室でお話しているからしばらく近付かないようにって。他のみんなも表で遊んでる」
ヨルマが微笑んだ。
「なるほど、わかった。気をつけるよ」
応接室は養護院の一階にある。正面玄関を入った右手側にある部屋で、他教会やその他の来客があった際に使用するところだ。お客さまをお迎えするための場所だから、日頃から子どもたちは出入りを禁じられている。
勝手口から台所に入ってみると、施設内は静まり返っていた。
先を行くヨルマが人差し指をたてて唇にあてた。ルツィカは小さく頷いて、足音を極力殺しながら彼のあとをついていく。
異様な空気だった。
いつもだったら大部屋で遊ぶ弟妹のはしゃぐ声や、出入りするシスターたちの優しい話し声が聞こえてくるはずなのに。かなり入念に人払いしているらしい。すぐそばには二階へつながる階段があるが、上階にも人の気配はなかった。ノエル以外の年長組はまだ帰宅していないのだろうか、それとも子どもたちと一緒にどこかで過ごしているのか。
玄関横の応接室の扉は閉ざされていた。ヨルマは音もなく応接室に忍び寄り、すっとしゃがみ込んで扉に耳を当てる。
ルツィカは彼に覆いかぶさるように中腰で立ち、同じように耳を澄ます。
「……なにかの間違いではないでしょうか?」
ビアンカの声だった。
あとは数人の男性の声だ。口調からして教会関係者と思われる。
「シスタービアンカ。これは養護院の内情に詳しい者からの確かな情報なのです」
「隠し立てをせず、どうか教えていただけませんか。わたしたちはラサラ教国のために、より優れた子どもたちを保護し、教育していかなければ。あなたもご承知のとおり」
ルツィカは眼下のヨルマの肩を叩いた。壁につけているのとは反対側の耳に唇を寄せる。
「正教会の司祭さまの声よ」
先日二人で正教会を見学した際、洗礼式を行っていた司祭だ。ヨルマもああそういえばというような表情でこちらを振り返った。
司祭の声は努めて穏やかだが、それ以外の人たちからは苛立ちが滲んでいる。
「教会のその活動については承知しています」
ビアンカはおっとりと答えていた。
「わたくしの弟も五十余年前、その栄誉に与りました。ですからわたくしたちも、保護する子どもが九歳の誕生月を迎えるたびに正教会に上がらせていただいております。ルツィカだって当然、そのようにいたしました」
どきりとした。
この話の流れでいくと──正教会の司祭がルツィカを保護しに来て、ビアンカがそれを止めようとしているということになる。こくりと唾を飲み込んだ音が嫌に響いた。
「ルツィカが掌をあてても、聖体はなんの反応もみせなかった。それは司祭さまも六年前にその目でご覧になったはずではありませんか。それなのに、どうして今さらルツィカを保護するという話になるのですか?」
「ですから私たちもそれを調査するために、ぜひ彼女に協力してほしいと言っているのです」
「もう一度言いますよ、シスタービアンカ。秘蹟の子を引き渡して頂きたい。もしも彼女に特別なちからがあった場合、然るべきところで然るべき修練を積み、次代の教皇候補となるべき存在として育てます。あくまで拒否するというのであれば、第三区教会は神と教皇のご意思に沿わない異端者であると皆が知るところになりましょう」
息が止まった。
これは、脅迫だ。それもかなり明確で乱暴な。
ルツィカの下にしゃがみ込んでいたヨルマがこちらを仰ぎ見て、立てた親指で台所のほうを示した。一度外で話そうということだろう。動揺する心を必死に抑えて、ルツィカは再び足音を立てないように細心の注意を払いながら応接間の前をあとにした。
なぜだか知らないが、正教会はルツィカに特別なものがあると考えているらしい。
確かに涙が石になるやらシグの声が聞こえるやら、自分にはちょっと妙ちくりんなところがある。けれどこんなものが、教皇候補になるほど大層な力なのだろうか?
そもそもビアンカとヨルマと自分しか知らないはずの話だ。
「一応言っておくけどおれじゃない。正直ラサラの教皇が誰になろうと知ったことではないから正教会に報告したところで利点がない」
「当然よ。そしてビアンカであるはずもない」
「一体どこから情報が……」
小声で会話しながら台所に入った瞬間、勝手口の扉を開けた者がいた。
エマだった。
「エマ、おかえりなさい。いま応接間に正教会から……」
薄黄色の髪を翻し、エマは背後を振り返る。開け放った扉から乗り込んできたのは数人の男、黒いスカプラリオを被って腰に剣を佩いた警備兵。
エマの右手の人さし指はルツィカを向いていた。
「こいつよ。つかまえて!」
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