第7話 ヨルマは養護院によく馴染んだ。
ヨルマは養護院によく馴染んだ。
すっかり懐いた小さな子どもたちの面倒を見てくれ、彼らから飛び出す様々な質問にも一つひとつ穏やかに答えている。そして泊めてもらっているお礼だといって、女子どもばかりで手の廻らなかった高いところの修繕や天井近くの掃除、力仕事を進んで引き受けてくれた。これには教会のことで日々忙しいシスターやブラザーたちもたいそう助けられている。
「外の人ってすごく優しいね、ビアンカ」
と、足元にまとわりつく子どもたちにビアンカは、
「そうですね。わたしが若い頃に一度だけお会いした外の国の人も、とても親切でしたよ」
「ビアンカが若い頃っていつのこと?」
「まあ、いつでしたかしら。ヨルマさんと同じくらいの年頃だったかしらね」
「それって何年前?」
食器を片付けながらそのやりとりを聞いていたルツィカは、心のなかでこっそり計算して、だいたい五十年前だなと一人頷いた。
ヨルマがいま泊まっている客室は、ビアンカが若い頃に旅人を急遽泊めた部屋だというふうに聞いている。ふらりと現れた旅人を慌てて埃まみれの空き部屋に泊めてしまった経験から、次はいつ誰が訪ねてきても気持ちよくお迎えできますようにと、掃除と手入れを欠かさなかったのだ。
当の五十年ぶりの旅人は、午前中は養護院の仕事の手伝いをして、午後からは徒歩や馬車で正教都を見て回っているようだった。夕方になれば学校から帰ってきた子どもたちと力いっぱい遊ぶ。夜にはルツィカたち年上組の宿題を眺めたり、一緒にカードで遊んだりした。
ヨルマが町を発つとなったら弟妹たちは泣いて寂しがるのだろう。
彼がいつ出発するか確認したことはないけれど、あの旅人を路地裏で拾った日からそろそろ二週間になろうとしていた。
授業を終えて学校から帰っていると、目抜き通りに面する古書店の前に、ヨルマが立っていた。
「なにしてるの?」
「ルツィカ。おかえり」
自転車屋と骨董品店の間に捻じ込まれるようにして建つ狭小な店の店内は、山ほどの書物で溢れかえっている。ヨルマが見ているのは歩道側に剥き出しになっている本棚だった。
「少し興味のある本があって」
言いながら人差し指を本の背の上部に引っ掛ける。タイトルらしきものは書いてあるが、引き出された本の背表紙も、表紙も、ルツィカには読めなかった。外国語だろうか。
首を傾げたルツィカに、ヨルマは「これは大陸の古い言葉だよ」と教えた。
「ラサラも創世神話は同じだろう?」
「どこにあるかも知れない世界樹ヴァルガルドが天海のくじらを生み、その後相次いで神さまを生み……ってやつよね」
天海のくじら。天海を棲み処とする最大最古の聖獣である。
大陸の東西を問わず、世界に恵みと幸いを与える最高神として認められ、人々の信仰と祈りを集める存在だ。神々よりも古き存在であることから、世界の起源を知るとされていた。
普通に生活していれば天海を泳ぐ姿を見ることができる、世界で唯一の『可視の神』。
「そう。まず天海のくじらが生まれ、大地ができ、次に名もなき神々が生まれた。神々の数が増えると戦争になる。地上が焦土と化したので、神々は住まいを天界に移し、地上には四肢を持つ生き物を産み落として自分たちの代わりに戦わせた。……やがて、魔人族が最初に自我を持ち、地上の生き物たちが戦いを放棄すると、その気付きに敬意を表して神々は支配を解いた」
ヨルマがつらつらと述べたそこまでが、大陸史における『神代』である。ルツィカも最低限の流れは学校で習っていた。
「そのあとが『古代』。神々と人間が隣り合わせで暮らしながら、人間が社会を形成していく過程の時代だ。多分この地にラサラさまがやってきたっていうのも、古代の頃の話だろう」
「うん、そう。地上の支配から手を引いた神々が、自分たちの司るものを巡ってまた神さま同士で小競り合いを起こした……とかなんとか」
「ラサラさまだけじゃない、そういう神さま同士の迷惑なケンカの言い伝えは、西にも東にも色々と残ってる。この本はその頃に使用されていた『古代語』で書かれたものだよ」
「それじゃあ、これは古代の本っていうこと?」
時期にもよるが、古代は今から遡って千五百年以上前だ。ぎょっとして訊ねると、ヨルマは首を横に振った。
「そこまで前の本じゃない。古代から中世にかけて言語の統一が行われて、いまの大陸公用語ができたわけだけど、現在も古代語を使用する人々はいるんだ」
「へえ……?」
「ラサラで出版されるわけがないから、おれみたいな旅人が置いてったものだろうなぁ」
「なんて書いてあるの、これ」
ヨルマはそこまで前じゃないと言ったが、ずいぶん古い本に見える。小口は黄色く日焼けしているし、表紙の端の方はぼろぼろだ。タイトルは金の箔が貼られているが、ところどころ剥げて色褪せていた。
「魔法の本だよ。『古代封印魔法の解説書』」
「…………」
想像の五倍くらいうさんくさかった。
ルツィカの怠け者の表情筋もこのときばかりは大活躍したようで、ヨルマはこちらの顔を覗き込んで一通りけたけた笑ったあと、代金を払いに店内へ入っていった。……買うの、それ。
魔法、というのは一応『本当にあった』ということになっている。
そもそも創世記、天海のくじらという可視の神、ラサラ教の言い伝えや教皇猊下の結界というものが身近にあるから、不思議な力というもの自体は疑われていない。歴史的にも二百年前まで実際に魔法が使われていたようだということは習った。
とはいえすでに失われて久しい技術である。
魔法は昔あったらしい、けれど現代で魔法を使える人は少なくともラサラにはいないので、たいていの場合はおとぎ話やフィクションの域を出ない。
「そういえばルツィカ、大通りを歩くなんて珍しい。いつも裏口から帰ってくるのに」
店から出てきたヨルマと並んで帰路を辿りながら、ルツィカはああとうなずいた。
「なんだか最近、へんな足音がついてくるから」
「……は?」
「ヨルマを拾ったあの近道、子どもたちはけっこう使うんだけど、下校の時間帯は一人なの。ここ数日、後ろをついてくるような足音が聞こえていて、でも振り返っても誰もいないから、ちょっと気味が悪くて今日はこの道にしたのよ」
ヨルマは剣呑な様子で目を細めて、僅かに背後を振り返った。
目抜き通りにはたくさんの人の往来がある。同じような学校帰りの少年少女、買い物帰りの主婦、店先の掃除をする顔なじみの店主、スカプラリオを着た教会の聖職者。
「誰かに相談したか?」
「言ってない。気のせいかもしれないし」
ヨルマは額に指先を当て、白い眉をぎゅっと寄せた。はぁぁぁぁ、とやたらわざとらしく深い溜め息をつく。
「……学校って毎日あるんだっけ」
「明日までね。明後日から二日間は休息日だから休みよ」
「じゃあ明日中に解決しよう」
明日は正教会に出かけよう、くらいの軽さでヨルマは言った。
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