第6話 寝る前のあいさつはラサラも外の世界も一緒
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シグは三年前まで教会の警備兵をしていた。
あの第五区の山崩れが起きるまでの数年間は第三区教会の担当で、だからルツィカたちは彼のこともよく知っていたのだ。
天海で起きた海嘯の影響で降雨が続き、正教都を流れる川のひとつが第三区内で氾濫した。シグは深夜にも拘わらず第五区の自宅に妻を残して出動し、仲間と手分けをして近隣住民らの避難誘導をしていた。
そして未明、アルベルト山の一部が地滑りを起こし、第五区の山際に近い地区は土砂に呑み込まれた。
彼の家は、跡形もなかったそうだ。
第五区の山沿いが埋まったという報せを聞いても、シグは目の前で助けを求める第三区の住民の救助を続けていた。彼が第五区に戻ったのは五日後のことで、そのときにはもう、自分の家がどこにあったかもはっきりとしないような惨状だったという。
第五区には第五区の教会警備兵がいる。彼らも必死に行方不明者を捜索したけれど、多くの遺体は岩や泥や瓦礫に体を擂り潰されてしまって、まともな状態で発見されることは稀だった。
シグの妻もそうだ。
それから彼は警備兵の職を辞した。貯金の殆どを、この災害で家や家族を失った人たちの支援に寄付した。あなた自身も被害を受けているのですからとビアンカは止めたが、シグも頑固だったから押し負けたのだ。それから路上生活を開始して、たまに教会の炊き出しに顔を出していた。
家を再建することもなく──まるで早く妻のもとに逝こうとするように。
彼は善良で敬虔なラサラの民だった。あんな孤独な最期を迎えるべき人では、断じてなかったはずなのだ。
あの災害さえなければ……。
ルツィカは静かに目を開けた。
自室のベッドの横に膝立ちになり、祈る恰好で指を組んだ手は整えた布団の上に預けている。カーテンを開けた窓の外から月光が差し込み、ルツィカの手や、布団の僅かな皺を蒼白く浮かび上がらせていた。
シグを発見した第一区の教会に連絡すると、彼の遺体は第三区に移送された。
彼と一緒に第三区教会まで戻り、みんなで埋葬に立ち会うまで、ヨルマはずっとルツィカの隣にいてくれた。目の前で泣いてしまったから気を遣ってくれたのだと思う。
シグが早く死にたがっていることはなんとなくわかっていたから、最初の衝撃が落ち着いた今、途方もない悲しみのようなものはない。
「……神さまはいるけど、守ったり救ったりはしてくれない、か」
ラサラという神さまの救済を待つルツィカたちでは、口にできない言葉だ。
だけどなんとなくしっくりくる。ラサラさまが本当にこの町の人間を守るつもりなら、いつ訪れるかもわからない世界の終末なんて呑気なこと言ってないで、身近な災害や悲劇のほうをどうにかしてくれるべきなのだから。
ルツィカはそっと立ち上がり、枕の下に隠してあった巾着袋を持って部屋を出た。
暗い廊下の両脇に部屋が並んでいる。ルツィカの部屋は二階の廊下の端っこ、階段の正面だ。客室は廊下の奥のほうで、ヨルマの部屋の扉の下から灯かりが洩れているのが見えた。
足音を立てないように廊下を歩き、エマや取り巻きの部屋の前を通って、ヨルマの部屋の扉をノックする。
ややあって迎えてくれた彼は黄金の双眸を丸くして、ルツィカ、と小さく零した。
「夜遅くにごめんなさい。これを渡したくて」
持ってきた巾着袋を手渡すと、袋の口を開けて中を検めたヨルマは二度ほど瞬きをした。
ルツィカの肩に手を回して部屋の中に押し込みつつ、廊下に誰もいないのを確認して、静かに扉を閉める。
「これってもしかしなくても、ルツィカの……涙だよな」
「ちょうど処分に困ってたところなの」
袋のなかには小石が詰まっている。
正確にいうと、今まで人知れずこっそり涙が出るたびに貯め込んでいた涙の石だ。
もちろん最初はそのへんに捨てていたのだが、一度、幼い弟妹が「養護院の庭に宝石が落ちてる!」と大騒ぎしてしまったことがあるのだ。察したビアンカがなんともいえない微妙な表情で首を振ったので、以降ずっとこの袋に入れて保管していた。別に宝石でもなんでもないのだけれど、子どもにとってキラキラ光る石というのは何よりも価値があるものだ。時には本物の宝石よりも、よっぽど。
「よかったらラサラを出るときに持っていって、ついでにどこかで捨ててくれると助かる」
「捨てるっていったって……」
「国内でなければどこでもいいの」
朝起きて欠伸をしたときに滲む涙は、蕩けるようなあけぼの色。本を読んで悲しくなったときには不透明な青磁色で、感動したときはさわやかな勿忘草色。ルツィカの涙は流れるときのきっかけや場所、感情によって色彩を変える。
自分が器用だったらアクセサリーに加工してもいいと思えるような、きれいなさざれ石だ。出所を訊かれたら困るからやらないけど。
色とりどりの小石が詰まった袋を再び見下ろして、ヨルマは溜め息をついた。
「……わかった、預かろう。だけど多分、取り扱いのあるところに持っていけば買い取ってもらえるレベルのものだと思うよ」
「そうなの?」
自分で持っていくのはまずいけれど、ヨルマが持っていくぶんには他所の国で買った石とかなんとか言い訳も立つかもしれない。
「それならヨルマのいいようにして。全部任せるし、全部あげる」
しばらくヨルマは文句を言いたいような納得いかないような顔をしていたが、やがて観念したようにうなずいた。
用が済んだらお客人の部屋に長居するわけにもいかないので帰ろうとすると、ヨルマは扉のそばまでついてきた。
「ルツィカは、ラサラを出ようと思ったことはないのか?」
「ラサラを出る?」
今まで考えたこともないことをいきなり切り出されて、少し思考が止まった。
この国に生まれた子どもたちは、物心ついた頃にはすでにラサラ教の物語を諳んじることができる。国のなかならラサラさまと教皇さまの特別な結界があるから大丈夫だけど、外には毒の荒野が広がっているから、けっして城壁の外に出てはいけないのが決まりだ。
ラサラでも最奥に位置する正教都で育ったルツィカなどは、国を出るという発想自体がない。
「おれは医者じゃないから断言はできないが、涙が石になるっていう体質、外なら治療法があるかもしれない。人前で泣いてはいけないっていうのは……案外、大変だろう」
その言葉が、夕方のことを指しているのは明らかだった。
第三区教会へと移送されてきたシグとお別れのときを過ごし、教会裏の共同墓地に埋葬されるあいだ、ルツィカは泣かなかった。別れの涙はシグを見つけたとき、ヨルマに見守られながら流したから。
けれど、警備兵だった頃からのつきあいであるシグの死は、養護院の職員や子どもたちにとっては大きな悲しみだったのだ。
「あんたって本ッ当に薄情ね」
埋葬が終わって養護院に帰るなり言い放ったのは目を真っ赤にしたエマだった。
エマの取り巻き二人組も、はっきりとは言わないまでも非難めいた眼差しを向けてくる。
「ちょっとくらい悲しそうな顔すれば?」
自分の表情筋が怠け者なのは自覚しているから言い返さない。
事情を知っているビアンカが仲裁しようとする前に、ルツィカは足早にその場を立ち去った。エマの物言いが刺々しいのはいつものことだ。彼女はいつもイライラしている。親の顔も知らない哀れなルツィカを攻撃することでしか自分の自尊心を守れない。相手にするだけつけ上がるのだから、黙っておくのが正解なのだった。
「エマも……シグに懐いていたから」
「だから、ひどいことを言われても仕方がない?」
「そういうわけじゃない。かなり偉そうで鼻持ちならないしビンタしてやろうかと思うことも一日三度くらいはあるんだけど──」
ヨルマが口の端を引き攣らせた。「一日三度……」
「でも、シグが亡くなって頭ぐちゃぐちゃの状態で、隣に全然表情変えないやつが立ってたら、むかつきもするでしょう。他の子に当たり散らすようならひっ叩いたかもしれないけど、エマはそういうことはしないし……」
そりゃもちろん嫌な気持ちにはなるけれど、エマはけっして年下の弟妹に意地悪することはないし、なんなら面倒見だっていいほうだ。
ヨルマはルツィカに対して意地悪を言うエマしか知らない。それがすこし歯がゆい。
それでええとなんだっけ、そう、ラサラを出ようと思ったことはないか、って。
「国を出る気はないわ」
「教皇の結界とか、毒の荒野とかを無事に切り抜ける手段があるとしても?」
「うん」いくら閉鎖的でも、ヨルマのような旅人の来訪の前例が一切ないというわけではない。他国との貿易自体は行われているし、数十年に一度ほどふらりと外部の人がくるから、毒の荒野に関しては多分どうにかしたら抜けられるんだろう、というのはみんなわかっている。
「山崩れで家族を失った子が多いって話をしたでしょう。どこの養護院も人数が増えちゃって運営が厳しいの。わたしは早く大人になって、養護院の手伝いをしたいから」
「……そっか」
「ビアンカもね、年齢的に大変なところあるから。だからわたし、ずっとここにいる」
ヨルマはそっと口の端を微笑ませた。
「わかった。変なことを聞いてすまない」
「いいの。それじゃあ、おやすみなさい。よい夢を」
一礼してから今度こそ部屋を出ると、ヨルマは扉から顔を覗かせて、灯かりの落ちた暗い廊下の先に目を凝らした。
ルツィカの自室以外は全て消灯していて、扉の隙間から灯かりが洩れているというようなこともない。ヨルマを見ると、「気のせいかな」とつぶやいてからこちらを見下ろした。
「おやすみ」
寝る前のあいさつっていうのはラサラも外の世界も一緒なんだなぁ、なんてことを考えながら部屋に戻り、ルツィカはベッドに潜り込んだ。
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