第5話 路地裏で起きることの九割は碌でもない
「『いつか必ず迎えにくるから』って言われたんですって」
施設に子どもを預けた親のうち、何割が本当に迎えに来るのだろう……。そう考えたヨルマを見透かすような目で、ルツィカはこちらを見上げた。
──ああだから『呪い』なのか。
いつまでもエマの心を縛る母親の言葉は、なるほど呪いという他なさそうだ。
迎えにくるはずがないものを。
食事を終えた二人は養護院に戻ることにした。
ルツィカは他に見たいところはないかと訊ねてくれたが、せっかくの休息日にまる一日彼女を拘束するのはかわいそうだ。……昨日もだいぶ面倒くさそうな顔で返事をしていたし。
「すこし歩こうか。馬車がくるまで待つのも時間がもったいないし、通ったらつかまえよう」
乗合馬車が通る正教会前のメインストリートをぷらぷらと歩きつつ店を冷やかす。
広場の近くには銀行や役所や図書館などが立ち並んでいたが、第一区のほうに近づくにつれて生活用品を扱う店舗や住宅が増えてきた。どの建物も白い石造りをしていて、決まって扉や窓枠が青く塗られている。古く歴史ある街並みだが、どこか色のない夢のような風景にも思えた。
町ゆく人々の表情は──ヨルマを見て驚く以外には──穏やかに満ち足りている。
極めて平和で治安のいい宗教都市。宗教はしばしば戦争の火種になるものだが、孤立した立地と極端に閉鎖的な国柄のおかげで、永らくの安寧が保たれているのだろう。
唐突にルツィカが足を止めた。
慌ててヨルマも立ち止まり、彼女が顔を向けたほうに視線をやる。建物と建物のあいだに狭い路地があった。
両側の建物は飲食店だ。勝手口の横にはゴミ袋が無造作に置かれている。
「どうした、ルツィカ」
「……いま、知り合いの声が聞こえたような気がして」
「知り合い?」こんなところから──と怪訝に思ったが、よく考えたらヨルマがルツィカに拾われたのもこんな路地裏だった。
いまにも暗くて汚い小路へ向けて駆けだしていきそうなルツィカを制し、せめてもの気持ちで自分が前に出る。ラサラではどうか知らないが、こういう路地裏で起きることの九割は碌でもない。
「知り合いって、学校の友だちとか?」
路地は複雑に入り組んでいたが、人間の通れる道幅だけを選べば一本道だった。
耳を澄ますも、ルツィカの言うような声は聞こえない。
人の気配もない。
「そうじゃない。シグおじさんっていって、教会の警備兵をしていたけど、さっき言った山崩れで家を失ってから浮浪者になってしまった人なの。警備兵を辞めたあとも、教会の炊き出しや学校の行き帰りでたまに喋ってた。ヨルマがくる少し前にも会ったんだけど、調子が悪そうで気になっていて」
道なりに進んで角を曲がったところで、ヨルマは足を止めた。
薄暗い小路の行き止まりに、ひとりの老人が行き倒れていた。
「髪は赤茶色で……髭のある?」
「うん。家はないけどお洒落な人なのよ。いるの?」
……この子は、そういう聲を聴くタイプの子なんだな。
と、そう認識を新たにしながら、ヨルマはその場で振り返った。ルツィカが身を乗り出さないように、細い両肩を手で押さえる。
「亡くなっている」
「…………」
彼女の睫毛が震えた。いたましい。
「こういう場合は誰に連絡すればいいのかな。警察組織はある?」
「そういうのは、全て、教会に……。本当に亡くなってるの? 本当にシグ?」
ルツィカは昨日、行き倒れて死んでいるように見えて実は腹を空かせていただけの旅人を拾ったばかりだ。信じられないのも無理はない。けれど多分、こういうのは子どもに見せるべきではない。
肩を押して強引に路地を出ようとしたヨルマの手首を、ルツィカはきつく握り込んだ。
「どいて。ヨルマ」
その声音の強さに、体が勝手に硬直した。
よく似た眼を知っている。人の生死に際して、その尊厳を最後まで守ろうとする種類の人間の頑固な眸の煌めきを、そのせつないほどの美しさを。
「……ルツィカ……」
ルツィカは肩や背中を建物の壁で擦りながらヨルマの横を抜け、突き当たりで静かに死んでいる浮浪者のもとに駆け寄った。
おそらく死後数日が経っている。どこか甘いような腐敗臭を漂わせるその遺骸に寄り添い、ルツィカは迷うことなく手を伸ばした。
「シグ……」
髭に包まれた頬を撫で、髪を撫で、そして投げ出された手を握る。
浮浪者は目を閉じていた。ヨルマが知る限りではかなり穏やかな部類に入る死に顔だ。
ルツィカは浮浪者の手を握ったまま動かない。
やがてぽつりと、
「ヨルマは神さまを信じている?」
小さくそうつぶやいた。
地面に座り込んでいる彼女の横に立ち、小さな頭を片手で撫で回す。信じているかどうかという問いに対する答えは、とても難しい。
「ラサラさまが本当にわたしたちを見守っているのなら、どうしてこの善良なひとから、家や家族を取り上げるようなまねをしたのかしら」
「…………」
「こんな死に方をするはずのひとじゃなかったのに……」
ヨルマは自分の頭のなかの言葉を探った。
「神は、いる。だけど、いるだけだ」
もともと喋るのは得意ではないのだ。記憶の底にお手本があるから、どうにか人間らしい会話ができているというだけで。
言葉というものは基本的に無神経で無礼で無力だ。
「天界から地上を見下ろしているかもしれないけど、人間を守ったり救ったり、そんなことはしてくれない。神がつくったのは四肢をもつ生き物であって、集団になって社会を形成し国を興したのは人間だ。不平等とは神から与えられるものではない。……したがって神は、人間の不平等を正したりは、しないんだよ。ルツィカ」
「それならラサラさまが終末の日にわたしたちを救うというのも嘘?」
「嘘かどうかは終末を迎えてみないとわからない。だけどさっき、きみが自分で言ったんだ、ラサラさまは死んだって。確かに神はいるし死ぬ。……死んだ神にたいそうな力はないよ」
ルツィカがふと体の力を抜いて、ヨルマの脚に凭れかかってきた。
これじゃあラサラ教はいんちきだと言ったも同然だ。ラサラに住む彼女の信仰に支障がなければいいけれど。
ルツィカの横にしゃがみ込んで、顔を覗き込み、ヨルマは思わず絶句した。
少女は泣いていた。
「ルツィカ……それ……」
「泣いたこと、ビアンカには内緒にしてね」
ヨルマは見ていた。ルツィカの透きとおるすみれ色の双眸が潤み、いましも涙になって零れ落ちようかという瞬間を。
それなのに彼女の涙は、眼球から下目蓋に移動したと同時に、透明な硝子片のように変化してころりと落っこちたのだ。
少女の白い手のうえには涙の代わりに、小さな石が五粒、転がっていた。
「人前で泣いちゃいけないって言われてるの。驚くわよね」
──これだ、と直感した。
ビアンカがこの子を連れていってほしいと言いだした最大の理由。
この体質はどう考えても異常だ。
ヨルマの知る教会という組織ならば、こういう症状はさも神の与えた奇跡だとか御業だとか讃えて仰々しいことこの上なく祀り上げそうなものなのに、聖職者であるビアンカがこれを隠しあまつさえ逃がそうと──或いは国から逃がそうとしている。内心で盛大に舌打ちをした。くそったれあのシスター、一体何が目的だ。
……けれどルツィカの体質そのものや彼女自身に罪はない。
あろうはずもないのだ。
「……これって眼球が傷付いたりしないのか」
絞り出したその発言に、ルツィカは呆気にとられて、そして笑った。
「気になるのはそこなの? 変な人ね」
「大事な問題だろ」
ルツィカの涙は、ところどころに銀色の結晶を散らした、深い藍色をしていた。
どこまでも透明な彼女の悲しみの色をしている。
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