#5 町ゆく人々の表情は
町ゆく人々の表情は──ヨルマを見て驚く以外には──穏やかに満ち足りている。
極めて平和で治安のいい宗教都市。宗教はしばしば戦争の口実に利用されるものだが、孤立した立地と極端に閉鎖的な国柄のおかげで、長らくの安寧が保たれているのだろう。
唐突にルツィカが足を止めた。
慌ててヨルマも立ち止まり、彼女が顔を向けたほうに視線をやる。建物と建物のあいだに狭い路地があった。この都市は、わりあい計画的に拡張されてきたため大通り沿いは整然としているが、少し奥に入ると細い道が無造作にあちこちで繋がっている。ヨルマもそうやって迷子になって行き倒れたのだ。
「どうした、ルツィカ」
「……いま、知り合いの声が聞こえたような気がして」
「知り合い?」
いまにも暗くて汚い小路へ向けて駆けだしていきそうなルツィカを制し、せめてもの気持ちで自分が前に出る。ラサラではどうか知らないが、こういう路地裏で起きることは碌でもないと相場が決まっている。
「知り合いって、学校の友だちとか?」
路地は複雑に入り組んでいたが、人間の通れる道幅だけを選べば一本道だった。
耳を澄ますも、ルツィカの言うような声は聞こえない。
人の気配もない。
「そうじゃない。シグおじさんっていって、教会の警備兵をしていたけど、さっき言った山崩れで家を失ってから浮浪者になってしまった人なの。警備兵を辞めたあとも、教会の炊き出しや学校の行き帰りでたまに喋ってた。ヨルマがくる少し前にも会ったんだけど、調子が悪そうで気になっていて」
道なりに進んで角を曲がったところで、ヨルマは足を止めた。
薄暗い小路の行き止まりに、ひとりの老人が行き倒れていたからだ。
「髪は赤茶色で……髭のある?」
「うん。家はないけどお洒落な人なのよ。いるの?」
……この子は、そういう聲を聴くタイプの子なのか。
と、そう認識を新たにしながら、ヨルマはその場で振り返った。ルツィカが身を乗り出さないように、細い両肩を手で押さえる。
「一人、倒れている。彼がシグおじさんかどうか判らないが、亡くなっている」
彼女の睫毛がふるりと震えた。
「こういう場合は誰に連絡すればいいのかな。ラサラの警察組織は?」
「そういうのは、全て、教会に……。本当に亡くなってるの? 本当にシグ?」
ルツィカは昨日、行き倒れて死んでいるように見えて実は腹を空かせていただけの旅人を拾ったばかりだ。信じられないのも無理はない。けれど多分、こういうのは子どもに見せるべきではない。
少女の細い肩を押して強引に路地を出ようとしたヨルマの手首を、ルツィカはきつく握り込んだ。
「どいて」
その声音の強さに、体が勝手に硬直した。
「どいて、ヨルマ」
ルツィカの紫水晶のような双眸が、ぱちりと瞬いて、凄絶な煌めきを放った。
人の生死に際してその尊厳を最後まで守ろうとする類いの人間の眼だった。頑固で、優しくて、切なくなるほど美しくて、腹立たしいほど強い。そういうとき、言葉も制止もなんら意味をなさないことをヨルマは知っていた。
ルツィカは肩や背中を建物の壁に擦りながらヨルマの横をすり抜け、突き当たりで静かに死んでいる浮浪者のもとに駆け寄った。
おそらく死後、数日が経っている。どこか甘いような腐敗臭を漂わせるその遺骸に寄り添い、ルツィカは迷うことなく手を伸ばした。
「シグ……」
髭に包まれた頬を撫で、髪を撫で、そして投げ出された手を握る。
浮浪者は目を閉じていた。ヨルマが知る限りではかなり穏やかな部類に入る死に顔だ。外傷が見当たらないのはせめてもの救いだった。
「ヨルマは神さまを信じている?」
ルツィカは小さく呟いた。
信じているか否かという問いに答えることは、とても難しい。そもそも大陸の歴史に神の存在が明記されているうえ、天海を見上げれば週に一度程度は、世界を回遊する可視の神たるくじらを見ることができる。だがルツィカの言う「神さま」が、大地の女神ラサラを指すとすると、ヨルマは頷くことができなかった。
東西の大陸を渡り歩いてきたヨルマは、あらゆる土地の大陸歴において、ラサラという神の名を聞いたことがなかった。ついでに言えば、スギルという男神も。
そもそも創世神話には海と大地を司る神が存在しない。海と大地ははじまりの場所。命の源。生きとし生けるものすべてを養う母なる自然を司ることのできる神など、神代に生まれてはいないのだ。
「ラサラさまが本当にわたしたちを見守っているのなら、どうしてこの善良なひとから、家や家族を取り上げるようなまねをしたのかしら」
「…………」
「こんな死に方をするはずのひとじゃなかったのに……」
ヨルマは自分の頭のなかの言葉を探った。
もともと喋ることが得意ではない。記憶の奥底に手本があるから、どうにかその人をなぞることで人間らしい会話が成立するというだけで。
「神は、いる。だけど、いるだけだ」
言葉というものは基本的に無神経で無礼で無力だ。
頭の中に渦巻く容赦ない思いの奔流の中から、できるだけ穏やかで、棘や刃の鈍いものを掬い取っていく。どうか、この心優しく善良で敬虔な少女の信仰に、罅を入れることのないように。
「天界から地上を見下ろしているかもしれないけど、人間を守ったり救ったり、そんなことはしてくれない。神がつくったのは四肢をもつ生き物であって、集団になって社会を形成し、国を興し、歴史を重ねてきたのは人間だ。不平等とは神から与えられるものではない。……したがって神は、人間の不平等を正したりは、しないんだよ。ルツィカ」
「それなら」ルツィカは顔を上げてヨルマを振り返る。「それならラサラさまが終末の日にわたしたちを救うというのも嘘?」
「嘘かどうかは終末を迎えてみないとわからない。だけどさっき、きみが自分で言ったんだ、ラサラさまは死んだって。確かに神はいるし、死ぬ。……死んだ神にたいそうな力はないと、おれはそう思うよ」
ルツィカは浮浪者の手を握りしめたまま静かにヨルマを見上げていた。
出逢ったときから、表情の変化が薄い少女だった。一番よく光を取り入れるように研摩された宝石のような双眸だけがきらきら輝いていて、まるでよくできた人形のようだ。ヨルマの探しものは二つあってそのうち一方は人間だが、その人と同じ色をした双眸でじっと見つめてくるので、ヨルマは身じろぐこともできずその視線を受け止めるほかなかった。
やがて、ルツィカの瞳がじんわりと潤む。
ああ、どうしよう、泣く。泣いてしまう。泣かせてしまった。命の恩人なのに。なんの罪咎もない、善良な女の子なのに。じわじわと罪悪感が込み上げてきて、ヨルマは慌てて彼女の傍らに膝を折った。ハンカチを携帯する習慣のない己に内心で舌打ちを零し、ルツィカの頬に手を当て、親指で眦を拭う。
指先に触れたものの感触に、ヨルマは違和感を抱いて瞬いた。
「……え……」
涙を拭ったはずの親指になにか硬質なものが触れた。ルツィカの瞳を濡らす涙が、目の縁に溜まり、ほろりと零れ落ちたかと思うと、下睫毛に引っかかって小さな硝子片のようなものに変化する。彼女がゆっくりと瞬きをすると、その風圧と振動でころりと落っこちた。
「ルツィカ、これは……」
「泣いたこと、ビアンカには内緒にして」
ヨルマはルツィカの頬から手を離して、指に引っかかっていた欠片を掌に載せる。どこからどう見ても固形物だった。指で押しても潰れない。藍色で、小指の爪の先ほどの大きさの、不思議な小石。
「人前で泣いちゃいけないって言われてるの。驚くわよね」
──これだ。
ビアンカがこの子を連れていってほしいと言いだした理由。
正教会で見た洗礼式が脳裡に過ぎる。特別な力を持つ子どもを選別し教皇の候補として修業するとかいうあの儀式。ルツィカのこの体質が「特別」でなくて一体なんだというのだ。
ヨルマの知る教会という組織ならば、こういう症状はさも神の与えた奇跡だとか御業だとか讃えて仰々しいことこの上なく祀り上げそうなものなのに、聖職者であるビアンカがこれを隠しあまつさえ逃がそうと──この国から出そうとしている。
内心で盛大に舌打ちをした。くそったれあのシスター、一体何が目的だ。
「シグ、少し待っていてね。人を呼んでくるから。第三区の教会に、一緒に帰ろうね」
……けれど、今もはらはらと両眼から涙でなく欠片を零しながら浮浪者の頬を撫でるルツィカの、体質そのものや彼女自身に罪はない。
あろうはずもないのだ。
「これって……眼球が傷付いたりしないのか?」
絞り出したその発言に、ルツィカは呆気にとられて、そして笑った。
「気になるのはそこなの? 変な人ね」
「大事な問題だろ」
ルツィカの涙は、ところどころに銀色の結晶を散らした、深い藍色をしている。
夜空にも似た彼女の悲しみの色を、ヨルマは掌に握り込んだ。
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