第3話 隣人を愛し、赦し、終末の日まで心穏やかに

 昔むかし、アルベルド山の麓にひとつの村があった。

 一体誰がいつどのようにしてこの村を拓いたかは定かではない。山の奥深くにぽつんと佇む、貧しく小さな村だったが、人びとは協力し合って穏やかな日々を過ごしていた。

 ある日、村落に一人の女性が迷い込んできた。

 よくぞ辿りついたと村人が驚くほど彼女はひどい怪我を負っていた。村人たちはとてもかわいそうに思って、みんなで代わる代わる懸命に看病してあげた。しかし女性の容態は思わしくなく、早晩力尽きるかと思われた。

 すると彼女は息を引き取る間際、驚くようなことを言いだしたのだ。


 自分は神々の戦いに敗れた大地の女神ラサラである。

 村人たちの手当てと心遣いに深く感謝し、その謝礼として、いつか訪れる世界の終末の日には必ずこの村を自分が守り通す、と。


 そして女神ラサラは最後の力を振り絞って、村を守るための結界を作り上げたのである。

 村人たちは彼女の遺体を丁重に葬った。

 後年、ラサラの遺体を狙った大地の男神が村を襲ったときも結界は村を守った。しかし怒った男神はアルベルト山の周囲一帯を毒の煙る荒野に変えてしまった───





「いまは教皇猊下がラサラさまの結界を代々受け継ぐ大切なお勤めをなさっています。ゆえに村人たちの血を引くわたしたちラサラ教国の民は、女神ラサラのご加護の及ばぬ場所にはけっして足を踏み入れず、日々の平和を女神と猊下に感謝し、慎ましく、隣人を愛し、赦し、来たる終末の日まで心穏やかに生きていかなければなりません」


 ルツィカは自然と胸の前で両手を組んでいた。


「──わかりましたか、ヨルマ?」

「よくわかりました、ルツィカ。……それはビアンカの真似か何か?」

「よくわかったね」


 いちいち丁寧に相槌を打ちながら話を聞いていたヨルマは、何か難しいことでも考え込むかのように視線を逸らす。


「なるほど、神々の戦いに敗れた大地の女神ね」


 この国に住む人たちは当然ラサラ教を信仰しているけれど、外の世界には外の世界の信仰があるという。学校ではそうしたラサラ教以外の主要な宗教についても教わった。

 西大陸も東大陸も基本的には〈天海のくじら〉を最大最古の神とする向きが強い。そのなかで、土地によっては固有の神を信仰する宗教がいくつかあるという。他の宗教と較べてそうおかしなところがあるとも思えないのだが、東大陸の生まれのひとから見るとやっぱり違和感があったのだろうか。


 馬車は正教会前広場に到着した。

 広場からは、幅広の大通りの先に聳える正教会を見上げることができる。


 正教都はアルベルト山の麓に沿って緩やかな傾斜を描いている。都市を一番高いところから見下ろす正教会は、白い石造りの美しい建物だ。

 左右対称に広がるファサード、大きな薔薇窓の色とりどりのステンドグラス、細かい彫刻の施された柱の数々。礼拝堂の奥には聖職者の生活区があったり教皇猊下の居住する建物があったりするので、同じように白い石でできた尖塔や煙突がいくつも突き出している。

 馬車のなかでは難しい表情で考え事をしていたヨルマも、感心した様子で正教会を見上げた。


「立派な教会だ。お金がかかってる」

「面白い感想だね」

「そうか?」

「そうだよ。でも言われてみると確かに、ラサラで一番お金のかかっている建物かも」

「技術もね」


 まずは銀行でヨルマの所持金をラサラ通貨に替えたあと、正教会へ向かった。

 休息日である今日は朝の七時、九時、十一時から儀礼拝が行われる。

 これは教会にみんなで集まってラサラさまにお祈りを捧げましょうという時間で、正教会のものに参加してもいいし地域の教会や個人宅で祈ってもよい。ルツィカは大抵の場合、第三区教会で養護院のみんなとお祈りしているが、月に一度は職員の引率で正教会の儀礼拝に参加している。

 ちょうど十一時の部が終わったところだった。

 人波が捌けてから入ろうとファサードの横に避けていたものの、ここでもヨルマは盛大に注目を浴びていた。


「すごく視線を感じる」


 ヨルマはさすがに辟易してルツィカの後ろに隠れていた。頭一つ分背の高い彼だから、一番目立つ白髪は全く隠れていない。さすがにかわいそうになってくる。

 しばらく待ってから、ひと気が少なくなったところで礼拝堂に足を踏み入れた。


 しんと張り詰めた空気。

 ひっそりと膚が冷えていく。

 色とりどりのステンドグラスから射し込む光が、数名残る礼拝者や聖職者の頬に不思議な色合いを落としていた。

 アーチ状の高い天井を支える柱には細かい彫刻がなされている。あらゆる音も声も息遣いも吸い込んでしまいそうな白い壁、絨毯の敷かれた床。建物があまりにも大きく、吹き抜けの天井も高いから、自分の存在の耐えられない脆さに眩暈がしそうになる。


 敬虔なしずけさ。


 ルツィカは正教会の空気が好きだった。とりわけ、儀礼拝直後に人が少なくなった正教会のきれいな沈黙が。

 ここは静かでいい。祈りを祝福されている感じがする。

 養護院の賑やかさも嫌いじゃないけれど、たまには耳と心を一人にしてあげたくなるのだ。


 ──とはいえ、今日は一人ではないか。

 物怖じしない足取りで礼拝堂を突っ切ろうとする後ろ姿に手を伸ばし、上着の裾を掴んで引っ張った。

 口の横に手をあてると、察したヨルマが身を屈めてくれたので小声で囁く。


「一般の礼拝者が歩いていいのは側廊だけだよ。それと、祭壇にはあまり近付かないで。側廊の深緑の絨毯が中央塔の下辺りで途切れているんだけど、その向こうは一般の礼拝者は行ってはだめ」

「真ん中の廊下は歩いちゃいけない?」

「真ん中の青い絨毯は神廊というの。ラサラさまの通り道だからわたしたちは避ける」


 礼拝堂の出入口から祭壇までを貫く神廊の左右には長椅子がずらりと並んでいる。長椅子の外側と円柱の間の通路が、一般礼拝者の通路である側廊だ。


「なるほど。丁寧だ」


 ヨルマは感心したのか呆れたのかちょっと微妙な様子でうなずき、向かって右側の側廊を歩きはじめた。

 外の国の旅人が正教会の何に興味を示すのかわからないがあまり専門的な質問をされても答えられない。どうしたものかと思っていたのだが、ヨルマは建物の造りにひたすら感嘆の声を洩らすばかりだった。

 しかも「でかいな」だの「細かいな」だの養護院の弟妹と大差ない感想である。側廊の上に二階と三階の礼拝席があるのを見て、またひどく感心していた。


 壁や柱に刻まれた本物の彫刻のあいだに立つヨルマは、ようやく人間らしく見える。


「あれはなに?」


 ヨルマが礼拝堂の奥のほう、先程ルツィカが行かないようにと注意した祭壇のあたりを指さす。

 祭壇のそばに数名の集まりが見えた。


「洗礼式よ。ラサラの子どもは九歳の誕生月に正教会を訪れて儀式をおこなうの。祭壇の上に聖体が置いてあるんだけど……」


 白い石舞台に青い布が掛けられた祭壇の上に、皿に乗った丸い石が置いてある。祭壇のそばに招かれた一家のうち、子どもがぺたりと石に触れた。


「あの石?」

「そう。教会のなかにあるときは乳白色で、たいていは誰が触れても変化は起きないんだけど、奇跡の力を持つ子どもが触れると七色に輝くのね。そしたらその子は〈秘蹟の子〉として正教会に引き取られて、然るべき教育を受けることになるの。次代の教皇猊下になる存在ね」

「ふぅん……。どのくらいの割合なんだろう」

「四、五年にひとり、いるかいないかってくらい。ここ数年は出てないみたい」


 ルツィカたちはそのままなんとなく洗礼式を眺めた。

 集まっていたのは三家族で、男の子二人と女の子一人がそれぞれ聖体に触れたが、特に何も起きなかった。彼らはそのまま司祭の手によってメダイのペンダントを掛けられ、経典の一節の朗読と祝福を賜る。

 ヨルマはまた何かを考え込むように、ゆるく握ったこぶしの親指と人さし指で顎を支えて、こてりと首を傾げた。


「教皇の候補に選ばれるのってやっぱり名誉なこと?」

「そうね。希望してなれるものじゃないから、天から賜るお役目だと思って有難く拝命しないといけないわ。だけどそうすると二度と家には戻れないし、家族にも会えないから、やっぱり少し複雑だろうと思う」

「……家族にも会えないのか。二度と?」

「教皇さまやその候補は、聖なる力を保つために俗世との関係を絶つものよ」


 その代わり家族には正教会とのつながりができるし、年に何度かの手紙のやりとりなら許されている。


「ビアンカの弟は、ずっと昔に候補として正教会に入ったらしいよ。手紙を送りあっていたけど、大人になってからは途絶えたみたい」

「そうなんだ。……寂しいだろうね」


 まるきり他人事の様子でヨルマは言った。

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