第9話 聖職者ってのはどこも一緒だ

 玄関横の応接室の扉は閉ざされていた。

 すぐそばには二階へつながる階段があるが、上階にも人の気配はない。エマたちはまだ帰宅していないのだろうか、それとも子どもたちと一緒にどこかで過ごしているのか──

 ヨルマは音もなく応接室に忍び寄り、すっとしゃがみ込んで扉に耳を当てた。

 ルツィカは彼に覆いかぶさるように中腰で立ち、同じように耳を澄ます。


「なにかの間違いではないでしょうか?」

「シスタービアンカ。これは養護院の内情に詳しい者からの確かな情報なのです」


 ビアンカの声だった。

 あとは数人の男性の声だ。口調からして教会関係者と思われる。


「隠し立てをせず、どうか教えていただけませんか。わたしたちはラサラ教国のために、より優れた子どもたちを保護し、教育していかなければ。あなたもご承知のとおり」


 ルツィカは眼下のヨルマの肩を叩いた。壁につけているのとは反対側の耳に唇を寄せる。


「今のは、正教会の司祭さまの声よ」


 先日二人で正教会を見学した際、洗礼式を行っていた司祭だ。ヨルマもあーそういえばというような表情でこちらを振り返った。

 司祭の声は努めて穏やかだが、それ以外の人はだいぶ苛立っているようだ。

 ビアンカはおっとりと答えている。


「教会のその活動については承知しています。わたくしの弟もその栄誉に与りました。ですからわたくしたちも、保護する子どもが九歳の誕生月を迎えるたびに正教会に上がらせていただいております。ルツィカだって当然、そうしましたわ」


 どきりとした。

 この話の流れでいくと──正教会の司祭がルツィカを保護しに来て、ビアンカがそれを止めようとしているということになる。


「ルツィカが掌をあてても、聖体はなんの反応もみせなかった。それは司祭さまもその目でご覧になったはずではありませんか。それなのに、どうして今さらルツィカを保護するという話になるのですか?」

「ですから私たちもそれを調査するために、ぜひ彼女に協力してほしいと言っているのです」

「もう一度言いますよ、シスタービアンカ。秘蹟の子を引き渡して頂きたい。もしも彼女に特別なちからがあった場合、然るべきところで然るべき修練を積み、次代の教皇候補となるべき存在として育てます。あくまで拒否するというのであれば、第三区教会は神と教皇のご意思に沿わない異端者であると皆が知るところになりましょう」


 息が止まった。

 これは、脅迫だ。それもかなり明確で乱暴な。


 ルツィカの下にしゃがみ込んでいたヨルマがこちらを仰ぎ見て、立てた親指で台所のほうを示した。一度外で話そうということだろう。動揺する心を必死に抑えて、ルツィカは再び足音を立てないように細心の注意を払いながら応接間の前をあとにした。

 なぜだか知らないが、正教会はルツィカに特別なものがあると考えているらしい。

 確かに涙が石になるやらシグの声が聞こえるやら、自分にはちょっと妙ちくりんなところがあると思う。けれどこんなものが、教皇候補になるほど大層な力なのだろうか?

 そもそもビアンカとヨルマと自分しか知らないはずの話だ。ヨルマが正教会に洩らしたって利点はないのだし、あの様子だとビアンカが報告したわけでもない。一体どこから。


 台所に入った瞬間、勝手口の扉を開けた者がいた。

 エマだった。


「エマ、いま応接間に正教会から……」


 薄黄色の髪を翻し、エマは背後を振り返る。その右手の人さし指がルツィカを向いていた。



「こいつよ。つかまえて!」



 ──その意味をルツィカが理解するよりも早く、後ろにいたヨルマが前に出て、作業台をエマに向かって蹴り倒した。

 ヨルマを拾ってきたあの日、彼を座らせてビアンカが五日分の食事を供した作業台。

 テーブルの上に準備されていた今夜の夕食の材料が、エマと、その後ろからやってきた数人の男に襲い掛かる。きゃあっと上がった甲高い悲鳴はエマのものだ。


「エマ……」


 茫然とするルツィカの視界が突如、ぐんっと高くなった。ヨルマがルツィカの体を肩に抱え上げて走り出したのだ。


「何事だ!」


 台所での一瞬の攻防は当然応接間にも聞こえていた。修道服を着た男たちが通路を塞いだが、ヨルマが一瞬で蹴り飛ばす。

 真っ青な顔をしたビアンカが、応接間のなかからこちらを見ていた。


 ヨルマは階段を駆け上がり、すぐのところにあるルツィカの部屋のドアを開けた。

 すぐさまベッドに放り投げられたルツィカの目の前で、ヨルマは机を引き摺ってドアの前に置く。バリケードを作ろうとしたのだろうが、この部屋にある家具は机とベッドくらいのものだ。しかもそんなに頑丈ではない。


 怒声とともに何人かが階段を上がってきて、ドアを蹴ったり叩いたりしはじめた。

 ドアが震えるたび、机が悲鳴を上げる。

 机を後ろ手に押さえながらヨルマは静かに口を開いた。


「ルツィカ。今からきみを誘拐……いや拉致する」

「ヨルマ……」

「もう二度とラサラには戻れない。どうしても持っていきたいものがあったら今すぐカバンに詰めてくれ。悪いけど衣服は持っていけない」


 ここまでくると、ルツィカにももう、解っていた。

 この面倒極まりない体質がどこかでエマにばれ、エマはルツィカの身柄を正教会に引き渡そうとしているのだ。

 そしてビアンカとヨルマは、ルツィカを正教会に渡すまいとしている。


「嫌、いやよわたし正教会に行く、だってそうしないとビアンカたちが……」

「だめだ。行ったら死ぬ。ビアンカはきみを死なせたくないんだ。だからおれに、きみをラサラから連れ出すよう依頼した」

「ビアンカが……?」


 男たちの怒声に混じってビアンカの悲鳴が聞こえた。やめて、やめてください。ルツィカは普通の女の子なんです。そんなふうに怒鳴っては恐ろしいに決まっているではありませんか。お願いだからあの子を放っておいて──


 ルツィカは目を閉じて深呼吸をした。

 目蓋を押し上げた瞬間に、全ての迷いを捨て去った。


「わかった」


 ……もう二度と、ラサラには戻れない。

 ヨルマが押さえている机に飛びつき、天板の下の浅い抽斗を開ける。奥のほうに仕舞っていた四つ折りの紙を掴んで、机から離れた。学校帰りだからカバンは肩にかけたままだ。教科書もノートも逃げるには不要だが、荷物の取捨選択をしている暇はない。


「今すぐわたしを攫って逃げて!」


 体当たりの続いていたドアが静かになる。次の瞬間、ばきぃっと凄まじい音とともに戸板の一部が破壊された。向こう側から斧でぶち破る気だ。

 なりふり構わない相手の執念に膚が粟立つ。


「……ったく聖職者ってのはどこも一緒だな」


 ヨルマは斧の二撃めを全身で踏ん張って耐えると、僅かな隙にルツィカの体を抱き上げて、裏庭に面している窓を開け放った。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る