第一章 私の愛するルツィカ

第1話 魂の籠もった彫刻のようなひとだと


「かたじけない」


 音もなく立ち上がって深々と頭を下げた旅人の前には、きれいに平らげられた五人分の食器が積み重なっている。

 こんな大食を目の当たりにするのは初めてで、つい感心して人の食事風景を眺めてしまった。最初は胃の状態を見ながら慎重に食べていたが、徐々にペースが上がっていき、最後にはなんだか気持ちよく感じるほど淡々と食事を口に運び続けていた。よく食べる人だ。

 ぱちくりと目を瞬かせる少女の前で、青年は礼の姿勢を取ったまま動かない。

 胸の前に持ってきた右拳を左手で受けている。見慣れない所作だった。


「おれの名はヨルマという。命の恩人の名前を教えてはもらえないだろうか」


 旅人は頭を上げると同時にさりげなく腕をもとの位置に戻した。とても先程まで空腹で死にかけていたとは思えない、流れるような動作だ。


「わたしはルツィカ」

「ルツィカ、改めて礼を言う。あなたに拾われなければどうなっていたかわからない」

「どういたしまして。餓死する前に拾えてよかった」


 ヨルマは畏まった言葉遣いと裏腹に、強すぎる黄金きんの煌めきを和らげて微笑んだ。

 そうしているとずいぶん柔和な青年のように見える。

 年の頃は二十前後。食事の手つきは上品だったし、喋り方も物腰も柔らかだ。養護院にいる年下の小生意気な少年たちやクラスメイトの粗雑な男子とは全く異なる、どちらかというと教会に勤めるブラザーに似た雰囲気をしている。


 ルツィカの差し出した蒸しパンを一口で食べてしまったヨルマは、どうにか動く気力を取り戻したもののやっぱり死にそうなことに変わりはなかった。この様子では寝泊まりする宿もあるまいと、ルツィカは通学鞄を降ろし、彼のバックパックも放置して、とにかくヨルマを背負うようにしてこの養護院まで戻ってきたのである。

 教会の裏手に建つ養護院には、身寄りのない子どもたちと、職員である聖職者たちが暮らしている。

 えっちらおっちら養護院の裏口の木戸を開けたとき、ちょうど畑で草取りをしていたシスターに会ったので、急いで彼女に食事を用意してもらった。食堂まで彼を運ぶ体力がなかったので、勝手口から入ってすぐの台所で作業台に椅子を持ってきている状態だ。


「ここまで引き摺ってもらったけど、重かったろう。どこか痛めていないか」

「へいき。こちらこそ、引き摺ったせいで爪先が削れたかもしれないけど」

「それこそへいきだ。靴なら買い直せばいいから」


 路地に項垂れる彼を見つけたとき、どこか彫刻のようだと感じた印象は、こうして起きて動いている様子を見てもあまり変わらない。

 さらりとした雪のような髪に、白い膚。

 金箔を散らしたような黄金の双眸は、美しいようだけれど、人間離れしていて少し怖い。

 魂の籠もった彫刻のようなひとだとルツィカは感じた。確かに目の前にいるはずなのに、気配がとても薄い。


「ヨルマは……ラサラの人ではないよね」

「うん、そうだよ。生まれは東のほうだ」

「東大陸──」


 大陸を越えた出逢いは、ルツィカにとって、いやこの国に生きるほとんどの国民にとって、一生に一度も有り得ない珍事である。


 その原因は地形にあった。

 東西に長い楕円形をした中央大陸は、真ん中の辺りを〈白海はっかい〉で隔てている。

 ラサラ教国があるのは西大陸の北だ。背後には北方ゴドルム山脈を戴き、周囲を果てしない荒野に囲まれたラサラは、いくつかの町と一つの正教都によって成り立っている。

 ルツィカたちの住む正教都は、荒野の只中という立地のラサラ教国でもさらに孤立した都市だ。ゴドルム山脈が一峰アルベルト山の両腕に抱かれるように位置しているため深い森に守られている。一番近い町でも馬で二日かかるという有様だ。

 もともと辺鄙な場所にあるラサラ教国には、外国人は滅多に来ない。国としての交易は僅かながら存在するが、一般市民のほとんどはラサラ以外の国の人間を実際に目にすることなく生涯を終える。


「外国の人と会うのは初めてだわ。それじゃあさっきのお辞儀はヨルマの国の風習なのね」

「ああ……包拳というらしいよ。見慣れない礼で驚かせたかな」

「いいえ。とてもきれいだと思ったわ」


 ヨルマは目を丸くして、やがてはにかむように微笑んだ。


 彼は東大陸の大部分を占めるベルティーナ古王国内を一巡りし、南部の国から〈白海〉を渡り、西大陸の諸国を北上してきたのだという。ほとんど中央大陸一周だ。

 暇なのかな。お金持ちだな。とぼんやり考えていたルツィカをよそに、料理の後始末をしていたシスターが心の底から感心したというような顔でこちらを見た。


 白いワンピースの上から深緑のスカプラリオを着たシスタービアンカは、この養護院の世話をする聖職者のなかでも一番の古株だ。おっとりとした老女だが教会や養護院の仕事も精力的にこなす働き者で、ヨルマのために五人分の食事を手早く作ってくれた。


「お若いのにずいぶん色々な国を旅してこられたのですね」

「ええまあ。探しものをしているうちに気付いたらこんなことに」


 ずいぶん壮大な失せもの探しだ。


「前に立ち寄った国で、ラサラはあまり外と交流しないところだから観光には向かないと教えてもらっていたのだけど、思っていた以上だった。みなさん警戒心が強いし、大陸貨幣が通用しないし、正教都なんて宿もないし。途方に暮れているうちに二、三日経ってしまって、気付いたら食事も忘れてあの有様だったんだ」


 どこまで途方に暮れたら食事を忘れるなんて事態になるんだか……。

 ビアンカは洗い物を終えた手をエプロンで拭きながら苦笑する。


「よそとの往来がないうえに、正教都は小さな都市ですから、みな外泊する用事もないので宿がないのですよ。どうしても寝床に困ったときは、近くの教会の扉を叩けばどうとでもなりますの。よろしければうちにお泊まりくださいな」

「助かります。手持ちが大陸貨幣しかないのですが、どこかで両替できますか」

「正教会の近くにある銀行でできますよ。ルツィカ、明日は学校もお休みでしょう、案内してさしあげて」


 外出するのはちょっと億劫なのだがうまいこと断る理由が思いつかなかった。仕方ない。

「はぁい」とうなずいたけれど、ヨルマはその様子を見てくすっと笑った。


「お休みの日にすまないね」


 ……面倒くさがったのがばれているみたいだ。

 一方全く気付いていない人の善いビアンカはにっこり笑った。


「ルツィカ、お客さま用のお部屋の窓を開けて、お布団も入れておいてくれるかしら」


「はい。ビアンカ」今度はきちんと殊勝な態度で答える。


「夕食の時間にでもみんなに紹介させてくださいね。それまではゆっくり過ごして」

「お世話になります。シスタービアンカ、ルツィカ」


 ヨルマがまた胸の前に上げた右拳を左手で包み頭を下げた。『包拳』、憶えた。


 ルツィカの記憶にある限り初めての『お客さま』だ。小さな弟や妹が大喜びして大興奮する様子が目に浮かぶ。

 ……もみくちゃにされていたら、救出してあげたほうがいいかな?

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