君よ世界の涯てに眠れ

天乃律

第一章 私の愛するルツィカ

#1 明け方から降り続いた雨が


 明け方から降り続いた雨が、ようやく止んだ昼下がりのことだった。

 学校帰り、いつもの近道を歩いていたルツィカは、建物の影に沈むように倒れ込む男を発見した。

 町の目抜き通りを逸れていくつか奥に入ったひと気のない小路は、白い石造りのアパートに挟まれているため陽射しが届かずいつもじめじめしている。雨の匂いが吹き溜まるこの路地は暗いし狭いから通ってはいけないとシスターたちに言われるのだが、登下校には大通りよりも断然近道で、人通りも少ないし、ルツィカや他の子どもたちにとっては庭先に等しい場所だった。

 そんな子どもたちの領域で、男は折り畳んだ右脚を抱えるようにしてがくりと項垂れている。

 ルツィカは男の脇に足を止めて彼を見下ろした。

 胸の上下が、ない、ように見えるのは気のせいか。じっ、としばらく無言で立ち尽くし、数十秒の観察の果てに、やはり呼吸が聞こえないという結論に至る。

「……大変だ。人が死んでる」

 制服のスカートを折り目正しく押さえて膝を折り、改めて男に近付いた。もう少し確実な方法で呼吸や脈を判断したほうがよいと考えたのと、それからどう見ても外部の人間である男の容貌に興味が湧いたからだ。

 顔を覆い隠す髪の色は、路地に落ちる影さえ切り裂くような雪白。

 白髪の下に覗く顎や首筋には皺も染みもない。髪は白いが、老人ではなく青年だ。傍に放置されたバックパックはよく使い込まれているし、小奇麗な身形をしている。特徴的な外見の男だが見覚えがないから、よそから来た人間であると知れた。

 死んでいるとしたら──いや死んではいないとしても、誰か大人に報せなければならない。

 だがルツィカは同時に、騒いではいけない、とも感じていた。なぜかはわからないけれど、呼吸の音すら零してはならない、このしずかな眠りを、何者も妨げてはならないと。両手で口元を覆って、こてり、首を傾げる。

「……生きていますか?」

 そっと。自分の喉から出せるいちばん優しい声で、訊ねた。

「死んでいますか……?」

 青年は答えない。

 ルツィカは困りきった挙句に、反応のない彼に向かってそろそろと手を伸ばした。白い前髪を指先で二、三本掃う。その感触が思いのほかやわらかくて、すこし戸惑った。

 もう一度、今度は思いきって目元が見えるくらい、前髪を掻き分ける。

 固く閉じられた瞼を縁取る睫毛まで雪のような白さだった。細く高い鼻梁、少し乾いた唇。生死が判然としないこともあってか、どこか彫刻めいている。

 青年の目がぱちりと開いたのはそのときだった。

 夜を照らす月のような金色の双眸が、瞼の下から現れる。

 驚いたルツィカが手を引っ込めるよりも早く、青年がその手首を掴んだ。動いた。生きている。しかも意外と力が強い。そして氷のように冷たい手だった。まるで死体のような。──何はともあれ、生きている。

「……た……」

 青年の唇の隙間から声が零れた。

「『た』?」

「腹が……減った」

 それだけ絞り出すと彼はまたぐったりと目を閉じる。ルツィカの手首を掴んでいた手もずるりと滑り落ちた。

「お腹が減っているのね?」

 肩から斜め掛けにしていた通学用の鞄に手を伸ばし、学校からこっそり持ち帰った給食の残りを取り出す。帰宅したあと小さな弟妹たちに分けてあげようと思っていたのだが人命には代えられなかった。薄い油紙に包まれた蒸しパンを、青年の口元に差し出す。

「これあげるから、元気出して。食べられる?」

 青年の瞼が震えた。薄く開いた隙間から金色の双眸が覗き、蒸しパンとルツィカを交互に見やった。食べやすいように指先でひと口大に千切り、乾いた唇に押し付ける。

「すぐ近くに家があるの。だからそこまで頑張りましょう」

 そういうわけで少女は、行き倒れていた旅人を拾ったのだった。


「かたじけない」

 音もなく立ち上がって深々と頭を下げた青年の前には、きれいに平らげられた五人分の食器が積み重なっている。感心するやら呆れるやら、ルツィカはぱちくりと瞬きを繰り返した。

 青年は礼の姿勢を取ったまま動かない。胸の前に持ってきた右拳を左手で受けている。見慣れない所作だった。

「おれの名はヨルマという。命の恩人の名前を教えてはもらえないだろうか」

「わたしはルツィカ」

「ルツィカ、改めて礼を言う。あなたに拾われなければどうなっていたかわからない」

「どういたしまして。餓死する前に拾えてよかった」

 ヨルマはふっと目を細めて微笑んだ。

 路地に項垂れる彼を見つけたとき、どこか彫刻のようだと感じた印象は、こうして起きて動いている様子を見てもあまり変わらない。さらりとした雪のような髪に、白い膚。金箔を散らしたような黄金の双眸は、美しいようだけれど人間離れしていて少し怖い。

 魂の籠もった彫刻のようなひとだとルツィカは感じた。確かに目の前にいるはずなのに、気配がとても薄い。

 どこから来たのかと訊ねようとしたとき、背後から声が聞こえた。

「まあ、そんなところで覗き見なんてお行儀が悪いですよ」

 振り返ると食堂の出入り口の扉が薄く開いて、隙間からはこちらを覗き見る子どもたちの顔が積み重なっている。子どもたちを諫めたのは厨房からやってきたシスタービアンカだった。

 白いワンピースの上から深緑のスカプラリオを着たビアンカは、この養護院の世話をする聖職者のなかでも一番の古株だ。おっとりとした老女だが教会や養護院の仕事も精力的にこなす働き者で、あっという間にヨルマのための五人分の食事を作ってくれた。

 蜘蛛の子を散らすように逃げていった子どもたちに苦笑して、ビアンカはヨルマの前にコーヒーを差し出す。

「食後のコーヒーです。もう具合がよろしいのでしたら、どうぞ」

「有難うございます。頂きます」

 とてもさっきまで餓死寸前だったとは思えないヨルマは、ビアンカに目礼してカップを手に取った。

 路地裏で、ルツィカの差し出した蒸しパンを食べきったヨルマは、どうにか動く気力を取り戻したもののやっぱり死にそうなことに変わりはなかった。この様子では寝泊まりする宿もあるまいと、ルツィカは一旦荷物を全てそこに置いて、ヨルマを背負うようにしてこの養護院まで戻ってきたのである。

 教会の裏手に建つ養護院には、身寄りのない子どもたちと、職員である聖職者たちが暮らしている。路地に面する養護院の裏口の木戸を開けたとき、ちょうど畑で草取りをしていたビアンカに会ったので、彼女に急いで食事を用意してもらった。食堂にヨルマを座らせ、置いてきた荷物を回収して戻ってきたときには、すでに二人ぶんの食事が彼の胃の中に消えたところであった。

「ルツィカはホットミルクでよかったかしら」

「ありがとう、ビアンカ」

 優雅に食後のコーヒーを嗜むヨルマの向かいに座るルツィカに、ビアンカはマグカップを差し出して、その隣に彼女も腰掛けた。

 温めた山羊のミルクにお砂糖を足したものだ。両手でカップを持ち上げ、ふぅ、と息を吹きかけると、柔らかな湯気が立つ。その隙間からヨルマを眺めていると、彼もまた視線を上げてこちらを見た。

 年の頃は二十前後。食事の手つきは上品だったし、喋り方も物腰も柔らかだ。養護院にいる年下の小生意気な少年たちやクラスメイトの粗雑な男子とは全く異なる、どちらかというと教会に勤めるブラザーに似た雰囲気をしている。

「ヨルマは……ラサラの人ではないよね」

 恐る恐る訊ねると、彼は拍子抜けするほどあっさりとうなずいた。

「うん、そうだよ。生まれは東のほうだ」

「東大陸──外国の人と会うのは初めてだわ」

「初めて?……生まれて?」

「生まれて初めて」

 耳を疑うような表情のヨルマに、もう一度「生まれて初めてよ」と繰り返す。

 大陸を越えた出逢いは、ルツィカにとって、というよりもこの国に生きるほとんどの国民にとって、一生に一度も有り得ない珍事である。

 その原因は地形にあった。

 東西に長い楕円形をした中央大陸は、真ん中の辺りをはっかいによって隔てられている。ラサラ教国があるのは西大陸の北だ。背後には北方ゴドルム山脈を戴き、周囲を果てしない曠野に囲まれた北限の国。辺鄙な場所にある国ゆえ、外国人は滅多に来ない。

 ルツィカたちの住む正教都は、曠野の只中という立地のラサラ教国でもさらに孤立した都市だ。ゴドルム山脈が一峰アルベルト山の両腕に抱かれるように位置しているため深い森に守られている。一番近い町でも馬で二日かかるという有様で、僅かばかり存在する国としての交易は、ほとんど国境付近の街で完結して正教都までは届かない。一般市民の大半が、国外の概念は知っていながらも外国人を目にすることなく生涯を終える。

「それじゃあさっきのお辞儀はヨルマの国の風習なのね」

「ああ……包拳というらしいよ。見慣れない礼で驚かせたかな」

「いいえ。とてもきれいだと思ったわ」

 ヨルマは目を丸くして、それからはにかむように微笑んだ。

「東大陸からラサラに来たの?」

「いや、そういうわけではない。ベルティーナ王国から南部諸国を一巡りして、白海を渡り、西側諸国をいくつか回りながら北上してきた感じだ」

「それってほぼ中央大陸一周してない?」

「うん、まあ……探しものをしているうちに、気付いたらこんなことになっていた」

「壮大な失せもの探しだわねえ」

 よほど重大な探しものなのだろう。赤子の頃から育ったこの正教都が世界の全てであるルツィカには、想像もつかないほど途方のない旅路だった。

 ビアンカは柔らかい微笑みを浮かべる。

「お若いのに、ずいぶん色々な国を旅してこられたのですね」

「ええ。前に立ち寄った国では、ラサラはあまり外と交流しないところだから観光には向かないと聞いていたのだけれど、想像以上でした。城門近くはともかく、正教都はみなさん警戒心が強いし、大陸貨幣の取り扱いがないし、宿もないし……。途方に暮れているうちに二、三日経ってしまって、気付けば食事も忘れてあの有様に」

「よそとの往来がないうえに、正教都は小さな都市ですから、みな外泊する用事もないので宿がないのですよ。どうしても寝床に困ったときは、近くの教会の扉を叩けばどうとでもなりますの。よろしければうちにお泊まりくださいな」

「ああ……有難うございます。とても、とても助かります」

 真っ白だったヨルマの頬にさっと赤みが差した。胸の前に上げた右拳を左掌で包み、さっと頭を下げる。

「あの、食事代や宿代はもちろん払いたいのですが、手持ちが大陸貨幣しかなくて。どこかで両替できませんか」

「困ったときはお互いさまですわ、ヨルマ。ですけど探しものをするのにお金がないのは不便でしょうから、ルツィカ、明日にでも正教会の近くの銀行に案内してさしあげて」

「…………はい」

 休日は正直言ってごろごろしたいし読みたい本があるし掃除したい箇所もあるのだが、致し方あるまい。

 ヨルマはくすりと笑った。

「お休みの日にすまないね」

「…………いいえ」

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