君よ世界の涯てに永眠れ

天乃律

序章 misercordia



 ひとりの旅人が行き倒れていた。



 あかときくたちの頃から降り続いた雨が、ようやく止んだ昼下がりのことだ。

 町の目抜き通りからいくつか奥に入った、ひと気のない小路。子ども二人がようやくすれ違えるだけの幅しかない、白い石造りのアパートとアパートの隙間だ。陽の光が届かないからいつも暗くてじめじめしている。

 雨の匂いが吹き溜まるそんな路地の隅で、建物の翳に融け込みそうになりながら、男は折り畳んだ右脚を抱えるようにしてがくりと項垂れていた。


 だから少女は、はじめ「死体だ」と思った。


 ──大変だ。人が死んでる。


 男の姿を見つけて脚を止めた少女は、素早く思考を切り替えて恐る恐る死体に近付いた。

 顔を覆い隠す髪の色は、路地に落ちる翳を切り裂くような白。

 浮浪者の老人がここでこと切れたのかと思われたが、白髪の下に覗く顎や首筋の肌には皺も染みもない。老人ではなく青年だ。傍らに置かれたバックパックはよく使い込まれている。身形は小奇麗だ。浮浪者でもない。昨日読んだ小説に登場する、旅人、のような風体をしている。


 学校から帰る途中だった少女は、制服のスカートの裾を折り目正しく押さえて膝を折った。

 誰か大人に報せなければならない。

 だがしかし、騒いではいけない、とも感じたのだった。なぜかはわからないけれど、呼吸の音すら零してはならないと思った。


 このしずかな眠りを、何者も妨げてはならない。

 だから、そっと、自分の出せるいちばん優しい声で、少女は訊ねた。


「……生きていますか?」


 旅人は答えない。

 少女はすきとおる菫色の双眸をぱちりと瞬かせてもう一つ訊ねた。


「死んでいますか?」


 旅人はやはり答えない。

 困りきった少女は細い頤に指を当てた。一体全体、どうしたものか。いつまでもここでこうしていられるはずもないし。


 ひとまず生死を確かめなければと、反応のない旅人にそろそろと手を伸ばす。白い前髪を二、三本掃った。その感触が思ったよりもやわらかくて、すこし戸惑う。

 もう一度、思いきって目元が見えるくらいに触れてみる。

 固く閉じられた瞼を縁取るまつ毛まで、雪のような白さだった。細く高い鼻梁、少し乾いた唇。生死が判然としないこともあってか、どこか彫刻めいている……。


 そのとき、旅人の眸がぱちりと音をたてて開いた。

 闇夜に浮かぶ猫の目のような金色の双眸が瞼の下から現れる。


 少女が驚いて手をひっこめるよりも早く、旅人がその手首を掴んだ。動いた。生きている。しかも意外と力が強い──そして氷のように冷たい手だった。

 もしかしたら氷よりも冷たいかもしれない。氷よりも冷たいものがあるとすれば、それはこの旅人の手に違いなかった。少女はそんなことを考えて、自分が自分の理解以上に混乱していることに気付く。いやいやとにかく、生きている!

 そうこうしているうちに、


「……た……」


 乾いた唇の隙間から声が零れた。


「た、『た』?」


 思わず鸚鵡返しにしていた。まだ混乱している。しっかりしなければ。

 旅人は掠れた声を絞り出した。


「腹が……減った」

「お腹が減っているのね?」


 少女は肩から斜め掛けにしていた通学用のカバンに手を伸ばした。中には学校からこっそり持ち帰っていた昼食の残りが入っている。帰宅して小さな妹や弟たちに分けてあげようと思っていたのだが、人命には代えられない。

 薄い油紙に包まれていた蒸しパンを旅人の口元に差し出した。


「これあげるから、元気出して」


 掴まれていた手首をどうにか動かし、旅人の冷たい手を握る。


「すぐ近くに家があるの。だからそこまで頑張りましょう」



 ──そういうわけで少女は、行き倒れていた旅人を拾ったのだった。


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