第7話

 10月31日は、彼女の起きていられる最後の一日である。


 少しずつ寒くなってきた外を、彼女は恋しく眺めている。


「……はぁ……」


 爽子さんが窓に向かって息を吐く。気温差があるのか、窓は白んだ。

 僕はそんな爽子さんの儚げな姿を写真に収める。


 白と紅葉の中に佇む彼女は、とても美しかった。


「……この分だと、雪が降るかもしれないね」


 ゆっくりと彼女の側へと僕は寄る。爽子さんは、え、と不思議そうな表情をした。


「季節外れの雪。ここは山奥だし、今夜は気温が低くなるだろうから、可能性はあるよ?」

「でも……」


 爽子さんは珍しく口ごもる。それもそのはず。彼女は今日、一年を終え眠りについてしまう。

 眠りにつくまでに、彼女の願う変化ふゆが訪れるとは限らない。爽子さんは迫る時間を気にしていたのだ。


「信じてみよう? 君にとって、4年ぶりの冬が来るのを。僕も信じるから」

「……降るかな?」

「降るさ。だってこんなにも寒いんだ。ね?」


 僕は微笑む。絶対なんて言わない。絶対はない。分かっているから、僕はその言葉を口にしない。彼女も分かっているから言わない。


 ただ、望みたいのだ。冬が訪れることを。

 ただ見たいだけなのだ。白い世界を。


 紅いだけではない、白く染まる世界を彼女は望んでいるのだ。


「……うん」


 はぁ、と窓に息を吐く。僕はその白んだ場所に猫の絵を描いた。爽子さんはそれを見て真似た。

 二つに並んだ猫の絵はとても可愛らしかった。僕は猫たちが消えてしまう前に、記念にその猫の絵を撮影した。


 昼食を終え僕は自分の仕事をしに部屋に向かう。爽子さんはというと、リビングにあるテレビで何やら映画を見るようだった。

 何の映画を見るのか尋ねてみると、この間録画した恋愛ものを見るらしい。


 確か、とある図書館で働く男性が若年性認知症の女性と恋に落ちる話だったはずだ。

 2年前に放映された作品で、当時の評判も良かったと記憶している。

 彼女が映画に集中している2時間ほどを利用して僕は仕事に集中することにした。


 仕事、と言っても大したことはしない。

 ただ、日常を機関に報告し、今後の治療方針を考える程度のものだ。


 答えのないものに時間をくことほど、無駄なことはない。


 そう思いながらも、僕たちは機関かれらに従い、頼るほかないのだ。 機関への報告を終え、机上を片付ける。医学書や文献は意味を持たないが、それらを捨てることはできなかった。

 これは自分への気休めだ。

 僕はそれらを書棚に仕舞い、ファイリングをして部屋を出る。机上に飾られた姉さんとの写真が、嫌に輝いて見えた。


 映画は終わりを迎えようとしていた。爽子さんは集中し切っていたので、僕は静かに台所へ立ち、自分と彼女の分のカフェオレを作る。

 ほわほわと甘い香りのする水蒸気が目の前に立ち込める。ついでにメガネが曇ってしまった。

 エンドロールが流れ始めた。爽子さんは感動したのか涙を一筋流していた。その涙はいつになく美しかったので僕は思わず息を呑んだ。


「……そんなに良かった?」

「……うん。なんだか、だったけど、とても感動した」

「――そっか」


 僕は静かに彼女の前に作ったカフェオレを置く。ありがとう、と彼女はゆっくりとカフェオレを飲む。ほぅ、と彼女の頬が赤らみ潤んだ瞳は輝きを増した。


「……ねぇ、鹿目かなめ先生」

「うん?」

「先生は私のこと、忘れないでね」

「忘れないよ」


 忘れられるものか。

 僕はこんなにも君に依存しているというのに。


「忘れない。僕は来年だって君を待つよ。いつか本物の春を見に行く約束だって、プールに遊びに行く約束だって、雪だるまを作る約束だってしたんだから。それを全て叶えるまでは、僕は君のことを諦めない」

「……うん。ありがとう、先生」


 爽子さんが微笑んだ。僕もカフェオレを飲む。

 この時、軽く口内を火傷したのは内緒だ。

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