月面ブランドマーケティングの自殺人工衛星

 もし人が熱中症にならないようにマスクを適宜外すことが科学的に正しいという場合、本質的にそれを誰が行ったかどうかは問題にならないような状況が前提になっている。例えば人が多いところでは感染症対策でマスクを外すことは感染リスクを上げるが、それは規範的な意味で絶対にマスクを外してはいけないと言われているわけでなく、マスクを外すことは感染リスクが上がることを踏まえて行動しなければならないということを意味している。したがって「政府が」マスクを外すことを奨励するかどうかは「熱中症の予防」としては正しいが感染リスクの点では「予防的な行動」ではない。問題は一般的な社会状況と個人の価値観が同一の前提となっている場合にマスクをつけることが一般的な意味で正しいかどうかということである。この問題の答えは「マナーとしてマスクをつけるかどうかに関わりなく感染症予防のために熱中症にならないだけの行動を全体としては取るべきである」ということになる。この観点に対立する論点として「ワクチンを接種しない」やマスクを「集団意識からの独立として外す」行動は医療機関に負担をかける行動と集団的規律意識のモラルを個別的に糺すという言動の混合形態として認識されることになる。科学的に言って「個別的なワクチンが普段の体調とは別の状態を誘発する可能性がある」ことと「ワクチンが科学的に正しい根拠で感染症予防に使われていない」という言説は全く別のものであり、これは誰が言ったかに関わりなく「客観的に正しい基準」に沿った共通認識を形成することが問題になっている。さて「ワクチンが金銭的な利害関係に利用されていて」、「不良品としてのワクチンが他国からの購入として流入している」ことは「ワクチンの予防効果」に対する分母係数の反論ではない。だがワクチンが「理性的実践」による「感情的心性」にとって「毒性」であるかもしれないという認識は存在しうる。それはまだ科学が認められない未知の真実だからではなく、理気論的な世界の根源性に対してワクチンを接種することは「霊的なカルマ排除の統一性に対する障害だから」である。ここから別の問題が派生してくる。それは「統一教会」が政治的に党派活動に対する献金をしていることは政教分離則に対する違反である、というものである。だがこの問題の前提は日本の政治体制は「そもそも」政教分離に則った政治体制か否かという問いなしには成立しない。そして日本は「象徴天皇制」を憲法の国民的統合として戴いた祭政一致の国体政だということである。その根拠は国学的な「心」を中国古典の書物で正当化した尊王攘夷のテロリストである薩長の藩閥政治が弄する「防衛的な」「大東亜戦争」に敗北した「太平洋戦争」の戦死者を明治の皇室典範のGHQ的な検閲体制の下に移植することで冷戦体制の共産主義の防波堤としての「民主主義」を名目的に維持することにある。これは統一教会の批判として何を意味するのか。それは「防衛上の名義で」統治していた土地に対して「教育」を施した金融操作体系として基軸通貨に管理された「自由主義」を国債発行の軍事的信用で維持するということ以外の何物でもないのだ。なぜなら日本の国体にとって天皇制で「統治した」領土は「防衛戦争」の「心の根拠地」であるからである。人はこう言うかもしれない。大義名分はどうせ詭弁なのだからそれを裏切っても構わないと。しかしそれは「国民」に対してであって「天皇」に対してではない。革命国家とちがって革命もどきの天祖郷土は時間の更新を歴史的な虚像で引き受けるしかない。軍事的信用は官製相場を引き上げるから「財政収支」の見込み収益が改善し、その国債の利得分を兵器を購入してもらう国の為替相場の価格として移転する。仮に為替相場の市場を動かす何らかの流通の封鎖が起こった場合、インフレの流入を避ける手段は存在しないし、戦争を何らかの経済的援助として「防衛的に」支出しない根拠も存在しない。そうなると人間の「命」が循環することで、惑星の血が「皇祖」に祭り上げられることで、広報戦略の金融操作が「気の放射」として汚染されるだろう。

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