崩壊貨幣の信用創造
貨幣を生み出すことは価値を生み出すことなのか。違う。無は無でしかない。では通貨として流通する貨幣に対して労働雇用がなされることが価値を生み出すのか。ありえない。それも無から労働の作用を引き出しているからである。では労働の代価としてのみ貨幣が発行されるべきなのか。それは労働は労働でのみ交換されるべきだと言っているに等しい。つまり労働を生存とは別のやり方で利用することすべて搾取だということだ。では労働の成果に対して通貨が価値を生み出すことが貨幣を発行することなのだろうか。これもまた違う。というのも「労働の成果」がなんであれ通貨が価値を生み出すというのなら貨幣が発行されるだけで「労働の成果」を評価することができると言っていることになるからだ。つまり貨幣を所持することが単に生存の手段だと宣言しているに過ぎない。そこに労働は全く考慮されないのである。だから労働を評価する存在を実体として献金する要素が必要になってしまう。それは自作製品でもいいし仮想の存在でもいい。しかしそれらは流通の期待には入らない。したがって労働は成果に対して特定の技術を伴う評価を通貨として交換することで貨幣としての実体を持たなければならないということになる。この実体に対する技術化された交換の貨幣の形態こそ信用創造が価値を生み出すものにほかならない。貨幣化されない価値があることから創造の信用を引き出すと労働はそれ自体としては無意味な報酬に対して決して貨幣化されない成果を価値として流通させるために通貨を技術的に切り売りしていることになる。つまり信仰を評価しろと言っているのと同じになるのだ。ではどうして自然化された対象に対して労働を作用させることで価値を生み出すということを貨幣に対して言うことができないのだろうか。それはもちろん自然と自然化された対象の区別を労働では付けることができないからである。重要なことは自然を商品化することで値付けすることと、労働の対象として自然を価値交換の製品にすることは全く別の操作だということだ。稲に生産物としての価値単位が存在することは稲という植物に食料としての値段がついているという意味ではない。稲に食料としての価値があるのは、それを別の価値と交換することで単純な生存維持という状態から別の経済的領域を作り出すことができる場合だけだ。それが資本というものである。土地の場合、それが見掛けとしては同じように見えることが生産物に対する資本の解放を交換ではなく価値の差異として贈与にするということにすぎない。
異なる価値の交換に対していかに所有としての差異が産み出されるのだろうか。これは偽りの問いだ。問題なのは異なる価値の交換がどのように賢明な投資としてより共有された価値を生み出すのか。それとも愚かにも交換を行わず価値を常に生存状態に対しておくことで通貨の流通を腐らせ、労働の成果を廃棄する分を過剰として消費するのか、ということだからだ。例えば一時間で1000円の自給が発生する仕事と1200円の自給が発生する仕事なら1200円の方がいいが同じ商品を一時間で1000円分作れるのと1200円分作れるのなら1000円の方がいい。なら余った200円分は純粋な消費に回せばいいのだろうか。しかしコスト計算をするならその余った200円分も経費として計上しないと売り上げにはならない。これはおかしい表現だと言われるかもしれない。ある商品の生産に対して時間的なコストと賃金単位が同じ共有される経済条件で労働として成立していると言っているからだ。しかし消費条件で考えた場合、どちらにしても安い方がいいということになるから賃金も価格も実質的には下がるしかないことになる。仮に価格が材料費や身体的な消費の条件で増加するとしても結局その分は余った分から切り捨てざるを得ないのである。つまり所有条件の差異で考えた場合、労働という過程は純粋な抽象に成り下がらざるを得ず、良い投資条件は所有する通貨の貨幣信用状態で判断するしかないということになる。そして端的にいって通貨に対していくら通貨を交換しても労働力は増加しないし、その投資条件の技術が評価されることにも全くならない。社員が好待遇の株式条件で雇われる場合、その投資が人事評価に対する適切な労働過程を交換価値に含めないのなら、どのような高循環の経営状態を維持できたとしても、その資本が交換価値として社会的共有条件の改善にはならない。つまり賃金コストの生産条件の価格は上がるしかないのだ。これは逆に言うと社会的共有条件は各人の通貨交換状態に対する負債によってのみ資本が信用創造としての消費の改善の評価を行うことができるということだ。というのも生存状態に対してしか消費することのできる貨幣の使い道がないとしたら、その貯蔵分が全くないのだとしてもそれを搾取することによってのみはじめて社会的な価値というものが交換されるからである。
すべての人間が自分が金持ちになることしか望んでいないとしたら融資の金利は引き下げられるしかない。これは各人が公共的な資産として莫大な負債を背負っていても変わらない。これは社会公共資本というものがグループの総意として利用されているわけではなく特定の公共部門が他国の対外資産を担保にして自分たちのやりたいことを自由にやるという場合に機能する仕組みである。この場合融資の金利と労働の交換価値の決済は全く異なる基準で行われることになる。例えるなら、地方の納税を促進するために観光事業を開いて、それを都会向けの労働条件で雇用するために公共事業の借金を補助金で賄うようなものである。土地に関する開発の融資は税率で交換されるのに、労働条件の価値は外部の存在の交流で補うとしたら経済の流通は単なる人口移動に過ぎなくなる。そうなると労働の報酬を考えるとき、特定の土地資産に根付いた価値体系でしか共有された資本を運用することができない。実はデジタル技術を資本として利用するときの障壁はこの地方と都会流通の循環が人口移動の圏域と全く同じ領域でしか言説として交換されないというところにある。
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