夕方の山頂
ランドセルを玄関に置いたら、お母さんには投げつけるようにおじさんと遠出することや帰りが遅くなることを伝えて、返事も聞かないで、玄関で運動靴を履いて飛び出した。これじゃ、許可をもらったことにはならないけど、あとで叱られてもいい。
息を切らして駅につくと、そこにはもう魚沼くんがぽん子を両腕で抱えて立っていた。そのぽん子は首に黄色いハンカチを巻いた状態で、むすっとしている。そして、おじさんも肩に古ぼけた虫かごをひっかけ、ウエストポーチを腰につけていた。
「あ、半間っ。ぽん子、抱えてあげてくれよ。俺じゃ嫌らしいんだ」
「うん。……ぽん子、私たちが行くことに納得してくれた?」
「してないけど、しようがないでしょ」
人前だからアリみたいに小さい声で返事をして、ぽん子はちょっとむすっと腕の中に収まった。
「集まったな。それじゃ、移動しよう。電車よりもタクシーのほうが早いから、山のふもとまでタクシーに乗るぞ。ぽん子、清夏に抱えられるぬいぐるみのふりを頼む」
「はいはい」
駅の改札を出た横のところに、タクシー乗り場がある。私たちはそこからタクシーに乗り込んで、目的地を告げた。
タクシーのドライバーは、腕に抱えているぽん子に目を止めたけれども、私がぎゅっと胸に抱き込んでもぴくりとも動かないぽん子を見て、納得したのか視線をそらした。こっそりと、息苦しいとぽん子から腕を叩かれてしまった。
「今から山ですか? 上るにしても、今の季節はすぐに暗くなるからやめたほうがいいですよ。いくら近くの山だからって、山道は危ないでしょう」
「そうですね……」
行き先が山と聞いた運転手は、おじさんをじろじろと不信そうに見ている。それから心配そうに私と魚沼くんのほうを振り返って、子どもづれだと特に不安だけどねとつけ加えられた。
何度もタクシーの運転手に帰ったほうがいいと言われつつも、何とか山のふもとまでは送り届けてもらうことができた。私たちを下ろしたタクシーが走り去って見えなくなると、ぽん子がひょいっと私の腕から飛び出して地面に軽く着地する。
「あの運転手も言ってたけど、すぐ暗くなってしまうわ。普通の道じゃ頂上に行く前に暗くなっちゃうし、私たちの抜け道から連れていってあげる。私についてきなさい」
そう言って、ぽん子は舗装された道ではなく、道ができていない木と木の間のちょっとした隙間、ぼうぼうと草が生えているところへと飛び込んでいってしまった。私と魚沼くんが驚いている間に、おじさんは何の戸惑うこともなくぽん子を追って足を踏み入れている。そして、通りやすいようにしたの草を踏みつけながら、ちょんちょんとおじさんは私たちを手招きした。
「道が出来ていないし危ないから、私の腕でも、服のすそでも、何でもつかんでいなさい。絶対に離したらいけないよ。……それとも、ここで待っているか?」
「行くよ、おじさん」
「俺も行きます」
ぽん子はもうずっと先を進んでいて、振り返ってこちらを待っていた。
私と魚沼くんはそれぞれおじさんの腕とズボンのポケットをつかんで、そっと道になっていない山の中に入った。思ったよりも落ち葉が積もっていて、一歩足を出すたびにふわりと足元が沈んでいく。クッションの上みたいみたいに落ち着かない。
もたつきながらも、おじさんに引っ張られてどんどん進んでいく。ある程度進むと、前も横も後ろも全部紅葉した木に囲まれていて、目がちかちかしてくる。思ったよりも坂道はきつくないけど、ずっと同じような景色ばかりで進んでいないように思えてくる。ざくざくざくざくと私たちが進む音だけが――むしろ、私たちの足音よりも多い音が鳴っている気がする。
「おじさん……」
「今は、静かに進むしかない。ここは妖怪の道だからね」
そう言われて、ただ黙ってついていくけど、やっぱりちょっと怖い。でも、ここで引き返すわけには行かないと、先をぴょこぴょこ跳ねながら進んでいるぽん子だけに集中することにする。
ぽん子がぴょんと木と木の間を潜り抜けていった。それに続いて私たちもついて行ったところで、ぱっと急に視界が広くなった。それは、ほんの少し前に私たちがお弁当を食べていた場所、山の頂上だった。でも、上り始めてから五分もたっていない。
「もう、着いたの?」
「はやく着いたのならいいことだ。手分けして探そう、何かあったら大声を出しなさい」
どう考えてもここにいるのはおかしいけど、それ以上におかしいことがすでに起こっている。おじさんの言葉にしたがって、どこに向かうのかもわからないまま走った。そして、大きく息を吸って名前を呼ぶ。
「つむぎちゃん、つむぎちゃんっ! むかえにきたよ! 出てきて!」
日の入りが近い時間だからか、頂上には私たち以外誰もいない。あんなに目立つ色をしていた大きいチョウだったから、動けばすぐにわかるはずだ。
「お願い、出てきて! つむぎちゃんっ!」
向こうでも、おじさんや魚沼くん、それからぽん子もつむぎちゃんを呼んでいる。まだ、見つからないらしい。空の青さがどんどん薄れていく。
木々が茂った奥にも、紅葉が敷かれている足元も、水がしみ出す岩陰にも呼びかけた。ぐるりと頂上を一周するようにかけまわってその姿は見えず、もう一度逆周りに行こうとしたところで、はっと足を止めた。目の前に大きなクモの巣があったからだ。よく目をこらすと、巣の端に獲物を待ち構えているクモがいる。
チョウが、つむぎちゃんが、巣に引っかかっていたらどうしよう。
「つむぎちゃん……」
ひらりと、赤や黄色の紅葉とは違う鮮やかな色が視界に映った。ふらふらとちょっと頼りなく舞っているそれに、私は手を伸ばした。
「つむぎちゃん! つむぎちゃん!」
私の声に反応するように、チョウは木の陰でちらちらと飛んでいる。でも、なかなかこちらに近づいてこない。チョウが隠れている木の下まで行ったが、ずいぶんと高い枝のところにいて手が届かない。
「見つかったのか、清夏?」
「うん。たぶん、あれがつむぎちゃんだよ」
「間に合ってよかった。ちょっと狭いがここに入ってもらおう、ポケットに入れて帰るわけにもいかない」
おじさんはそう言って、私に虫かごを手渡した。軽いプラスチックの透明の箱を上に差出して、怯えたように隠れているつむぎちゃんの名前を呼ぶ。
「つむぎちゃん、むかえに来たよ。一緒に帰ろう」
チョウは枝で羽を休めるようにじっと動かずにいた。腕がしびれてきたけど、下ろすことはできった。じっとチョウを見つめて、もう一度名前を呼んだ。すると、チョウは枝から飛び上がってふらふらとこっちに下りてきて、ゆっくりと虫かごの中に収まってくれた。
「よかった。つむぎちゃん……」
ほっと安心して、虫かごをふるえる手でぎゅっと握る。私の鼻先で、何度かチョウが羽を開いたり閉じたりした。
「暗くなる前になってよかった。それじゃあ、山を下りよう」
「うん……」
つむぎちゃんが見つかったことを教えるために、向こうで探してくれているぽん子と魚沼くんにも大声で報告する。もうすっかり日は傾いている。
「つむぎちゃん、見つかったよ!」
大声でそう言うと向こうから大きく手を振られた。それに手を振り返して、こちらにやってくる魚沼くんとぽん子に近づこうとして、思わず虫かごを地面に落ちそうになった。はっと息をのんだおじさんに受け止められて、虫かごとそのなかのつむぎちゃんは無事だった。丁寧に虫かごを持ち直したおじさんは、後ろにいなさいと私に言って前に出る。
赤い空を背景に、魚沼くんとぽん子と――それからもう一人。
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