チョウと魚沼くん
手が震えて、伸ばした腕がおじさんのシャツにたどり着く。その服のすそを思いっきり何度も引っ張った。
「おじさん、おじさんおじさんっ! どうしよう、本当につむぎちゃん、入れかわっちゃったの? そしたら、本物のつむぎちゃんはどこに行っちゃったの? 帰ってくるのっ?」
「清夏、まずはおちつくんだ。おじさんがついてる」
「おじさん、だいじょうぶだよね? 何で、そう言ってくれないの?」
「……清夏を安心させるためには、まずは考えないといけない。だから、落ち着いて。もう一度、そのときのことを教えてくれ」
「……うん」
こういうとき、おじさんはだいじょうぶだと簡単に言ってくれない。思えば昔から、私が不安になってもすぐに安心する言葉をくれるような人じゃなかった。その代わり、おじさんはうそをつかない。
私はおじさんのシャツのすそを握ったまま、ぎゅっと一瞬息を殺して、のどのあたりでわめきたい言葉をせきとめる。
「おじさんを助けるためには、何を教えればいい?」
「入れかわったのなら、そのつむぎちゃんと入れかわった相手も近くにいたはずなんだ。そうだったはずだな、ぽん子?」
「そうね。儀式というのは、行う本人がその場にいないと成立しないものだから。何か、変なものは見なかった?」
「変なもの? ……そういえば、チョウを見かけたよ。手のひらぐらいの大きさの色がすごく鮮やかなやつ。女の子たちがきゃあきゃあ騒いでた。それが出たのはつむぎちゃんが変になったあとだったけど」
そのほかに目についたものというものはなかった気がする。
私がそう言うと、魚沼くんもあれかと思い出して、こちらに前のめりになってくる。
「俺もそれ見たよ。女の子たちが騒いでたから、遠くのほうに逃がした覚えがある。あれ、でもあれって半間のとこのグループだったっけ?」
「ううん。あのあとに、こっちのほうにも来たの」
「……それだわ」
チョウのことを話す私たちに、ぽん子がぽそりとつぶやく。えっとそちらに視線を向けるけれども、ぽん子はがっくりと頭を床の上にすりつけている。おじさんのほうを見ると眼鏡でわかりづらかったけど眉間にしわができていた。でも、私と目が合うとすぐにいつもの平静な表情に戻してしまう。
「状況からして、それだろう」
「え?」
「そのチョウが、清夏のお友達と入れかわった妖怪だったということだ。そして、入れかわった後に飛んでいたチョウの中身は――」
「つむぎちゃんだなんて言わないよね?」
その先の言葉を遮ってしまった。何となく、もうその先の言葉がわかってしまう。
おじさんは口を閉じたけれども、しばらく黙ったままこちらを見つめて、静かに一つ頷いた。思わず立ち上がってしまう。
「あれが、つむぎちゃん? つむぎちゃんだったの? ど、どうしてそんなことになったのっ!」
「……もしかして、俺が原因だったりする?」
つぶやかれたその言葉には説得力があった。本人もそう確信しているようで、魚沼くんは引きつった顔で無理やり笑顔のようなものを浮かべている。
つむぎちゃんが変になる前に、魚沼くんはチョウを逃がしている。そして、変わってしまったつむぎちゃんは、魚沼くんにずっとくっついて離れない。それは、つまり魚沼くんが目的の入れかわりだったということにならないだろうか。
座ったままの魚沼くんに近づいて、上からその腕をつかんで揺さぶる。
「どうしてあんなことしたのっ! そのせいで、こんなことになっちゃったじゃない! 全部、魚沼くんが――」
魚沼くんは抵抗しないまま、私が揺さぶるのにも無抵抗でぐらぐら揺れている。それに余計に腹が立って、もう一方の腕を振り上げかけたとき、後ろから誰かが私を引き止めた。おじさんの手だ。
「やめなさい、清夏」
「だ、だって、おじさんっ! つむぎちゃんは……!」
「魚沼くんは何か悪いことをしたのか? 私にはそうは思えない。彼はただチョウを逃がしただけだよ、偶然。それはわかるね?」
「でも……」
「清夏は、彼を傷つけたいと思っているのか? 彼が泣いているのを見たら、うれしくなるか? 彼を傷つけて、明日も明後日も、1年後も、大人になってからも、思い出して後悔しないと言えるか?」
「そんなことはないけど……」
まだ心は全然すっきりしないけど、おじさんの言葉を聞いて、魚沼くんの顔を落ち着いてもう一度見た。泣いていなくてほっとして、でもぎゅっと引き結ばれた口で彼が傷ついていることもわかってしまった。
もう自分の中の勢いはなくなってしまって、私の手はもうその腕をうまくつかんでいられなかった。手を離すと、ぶらんと魚沼くんの腕が垂れ下がってしまう。その横におじさんがしゃがみこみ、大丈夫だと魚沼くんに向かって言った。
「君は悪くない。悪いとしたら、その入れかわりを行った妖怪だ」
「はい……」
いつもおじさんの言葉に大げさなくらい反応するのに、魚沼くんは一言返すだけだった。
居心地が悪くて視線をそらすと、ずっと頭で床を撫でていたぽん子が飛び上がるように顔を上げた。
「あまりにも悪質だわ! これは私も見逃してはおけない案件よ! 同じ妖怪としても許せないわ!」
「そうだな。まずは、そのつむぎちゃんをどうにかして元に戻さないといけないんだが、入れかわってしまったその子の精神、つまりチョウが今どこにいるかという問題だ。たしかハイキングに行ったのは、ここから電車に乗った先の山だったな?」
おじさんにそう問いかけられて、うんとうなずきかけて重要なことに気づいてしまった。頭からさっと血が下がって、自分のほおが冷たく感じる。
「お、男の子たちが、チョウを捕まえようって言ってビニール袋を振り回してた。つかまってたら、どうしよう。ぼろぼろになって、飛ぶこともできない状態になってたら」
「……たぶん、つかまってないと思う。山を下りる直前に、隣のクラスのやつにチョウを見てないかって聞かれたから」
「あ、そ、そうなんだ」
考えたくもないチョウのかわいそうな姿が頭に浮かんで私に向かって、控えめに魚沼くんは言葉をかけてきた。そのおかげでちょっと冷静になったけど、返事はうまくできなかった。
おじさんは一度だけ私の背中を軽く叩いて、教えてくれてありがとうと言った。
「なら、その子は今もチョウとして山にいる可能性が高いな。……保護するなら、できるだけ早いほうがいい。私が、今から一度山へ探しに行こう。あと、ぽん子に手伝ってもらえれば非常に助かる。力を貸してくれるか?」
「聞くまでもないでしょう。私だって見逃せる話ではないもの。一緒に行くわ」
「ありがたい。それじゃ、清夏と魚沼くんは、今日はいったん帰って――」
「私も行くっ」
「俺も、行きます」
おじさんは私と魚沼くんを家に帰そうとしたが、私は激しく首を横に振った。座ったままだった魚沼くんも立ち上がってまで、あの尊敬してやまないおじさんに向かって行くと主張している。
ちらりと横目で見ると、こくりとうなずかれた。
「だって、つむぎちゃんは私の友達だよ。つむぎちゃんはおじさんのことを知らないから呼んでも出てこれないかもしれないし、私がいたほうが絶対いいよ」
「原因の一つは俺にあるみたいだし、だったら無視できません。俺も手伝せてください」
おじさんが私たちの顔を交互に見つめている間に、ぽん子が私たちの足元をぐるぐると速足で回って、ぽすぽすと前足でつま先を踏んでくる。
「なにをばかなこと言ってるの、あなたたち! ハイキングと一緒じゃないのよ! 危ない妖怪なんだからっ!」
「……置いていかれても、ついていくよ! 絶対についていくから!」
「俺も行きます!」
おじさんがつむぎちゃんを探しに行っている間に、家でじっと待つなんてことできない。危ないからって止められていることぐらいわかってる。でも、素直に言うことなんて聞けない。
睨むようにしておじさんを見ていると、ため息をつかれてしまった。隣で魚沼くんがびくりと肩を揺らしている。
「今から向かうとなると、山を下りるころにはもうすっかり暗くなっているだろう。そういう意味でも危ないし、ぽん子が言ったような危なさもある。正直なところ、二人がついてきたら足手まといになると思っている」
「でも……!」
「――でも、勝手についてこられるぐらいなら、目の届く範囲にいてくれたほうがありがたい。ただし、清夏も魚沼くんも親に遠出することと帰りが遅くことを伝えて、許可がもらえたらの話だ。今すぐ行ってきなさい。30分だけ、私は駅前で待っていよう」
おじさんはそれだけ言って、準備をするためなのか奥の部屋へと引っ込んでしまった。ぽん子が本気かとちょっと怒ったようにそのあとをついていく。
取り残された私たちは顔を見合わせて、それから急いでカウンターをくぐって古本屋を飛び出した。学校帰りにそのまま来たから、私たちはランドセルを背負ったままだ。
「じゃ、あとで! 急がないと!」
「うん! その、魚沼くん」
「なに?」
「ごめん。……それから、ありがとう。一緒についていくって言ってくれて」
「べつに、俺がやりたかっただけだから!」
魚沼くんは笑って、さっとすぐに駆け出して行ってしまった。一瞬ぼうっとその背中を見送ってしまったけど、すぐに私も追うように家へと走った。
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