はんかちおとし
つむぎちゃんの姿をした誰かが立っていた。
「あーあ。どうしてそんなことをするの?」
誰かはそう言った。こちらに近づこうとしていた魚沼くんはじりじりと後ずさり、ぽん子が威嚇するようにぎゅるるっと声を上げる。
「私がさきに一緒に遊ぼうって言ったのに、なんでほかの子と遊んでるの?」
魚沼くんに言っているようだった。うまく答えられないのか、魚沼くんは黙ったままだった。その代わりにぽん子がかばうように怒った声を出す。
「あなた、自分が何をしているのかわかってるの?」
「なあに? たぬきが私に説教? やめてよ」
ぽん子が話している間に、おじさんがそっと地面に虫かごを置いた。そして、じりじりと誰かに近づきながら、ポケットから白いハンカチを取り出した。
瞬間、ぽん子と話していたはずの誰かが首をぐりんと向けた。
「何をするつもり? ハンカチ落とし? ……私をじゃまするつもり?」
きっと睨みつけられて、おじさんは動きを止めた。
しかし、すぐにつむぎちゃんの姿をした誰かは睨むのをやめてにっこりと笑い、それから見開いた目をおじさんから私へぐるりと移した。
「まぁ、もう一回やってもいいかな。選ぶ子をまちがえちゃった。仲良くなるには、そっちの子のほうがよかったのね」
ぞわりといやな感覚が全身をかけめぐって、急に足元からちょっとずつ沈んでいくような気分になった。がさっと大きく落ち葉が踏みつけられる音がした。おじさんが、また一歩近づいたからだ。
「あの子に手を出すな」
「なら、私の邪魔をしなければよかったじゃない。でも、そっちの子のほうがいいわよね。やっぱり、そうしよう」
ざわざわと山全体が騒ぐように木が揺れた。強い風の影響で一瞬目を閉じてしまう。目を開くと、不気味にこちらをじっと見つめるつむぎちゃんじゃない誰かと視線が合った。ぎゅっと口を閉じて、悲鳴を我慢する。いつのまにか、その誰かの手にはおじさんが持っていたはずの白いハンカチがにぎられていた。
「ハンカチ落としをしたかったんでしょう? ちょうど円の形になっていることだし、やりましょう?」
はっと見ると、おじさんと私、魚沼くんにぽん子、ついでに誰かで大きめの円のような形になってしまっていた。円じゃなければいいと思って足を動かそうとしても、なぜか落ち葉の中に足が埋まったように動かない。
見せびらかすように、誰かが白いハンカチを持ち上げたときだった。
「やめろよ」
ふるえる声が、誰かを止めた。魚沼くんがうつむいた状態から、おそるおそるというように顔を上げて誰かを見る。
魚沼くんの声だけは、彼女も無視できなかったみたいだ。
「じゃあ、私と仲良くしてくれる?」
「そ、それは、無理だ」
「……やっぱり、この子じゃだめなんだ。なら、あの子になるよ。そうしたらいいでしょ?」
「……そのままでも、姿が変わっても、また違う人になっても無理だよ。君とは仲良くしない」
「――なんで?」
ぽつりと、つむぎちゃんの姿をした彼女の声はとても不思議そうだった。まぶしいほどだった赤い夕焼けが少しずつ地平線の向こうへと消えていき、ちょっとずつてっぺんに星が見え始めている。逆光で見えなかった彼女の表情がちょっとずつわかるようになってくる。
「俺は、もう君とは仲良くできない。だから、あきらめてくれ」
「だから、どうして? だって、だって最初にやさしくしたのはあなたなのに」
魚沼くんばかり見つめて、それ以外目に入っていないようだった。悲しそうな顔だった。
また、ざわざわと木が揺れる。そんな表情を見ていると、ふつふつと怒りがわいてきた。
「やさしくされると思っているほうがおかしいよ」
「あなたには聞いてないわ」
「妖怪なんてっ、人に好かれるわけないじゃない! 人間のフリしたってむだよっ! さっさとどこかに行っちゃえばいいんだ!」
「――うるさいって、言ってるでしょ!」
つむぎちゃんだった何かの目玉が暗闇の中でぎらりと光った。おそろい形相でこちらに向かってこようとしているのを見て、ばくばくと心臓が鳴ったけどにらみ返した。
でも、それは急にがくんと首を落として大人しくなった。その瞬間に、おじさんが地面に置いていたはずの虫かごを持ってつむぎちゃん――ではなく、あらぬ方向へと駆け出した。
「え、な、なに?」
「もう、大丈夫よ」
わけがわからない私に安心させるように声をかけたのは、つむぎちゃんの姿の誰かだった。反射的に言い返そうとして、でもさっきとちょっと違うことに気がついた。
「つむぎちゃん……でも、ない。だれ?」
「私よ、ぽん子」
「ぽん子? なんで……」
本当にそうなのかと疑いつつも一歩ずつ近づくと、つむぎちゃんの姿の誰かの後ろにハンカチが落ちていることに気がついた。おじさんの持っていた白いハンカチでもない。ここに来る前に、なぜかぽん子の首に巻かれていた黄色のハンカチだった。
「もしかして、ハンカチ落としをしたの? それじゃあ、さっきの妖怪は……?」
そこへ、横からたぬきがたったと駆けてきた。これが妖怪かと身構えるが、何だか様子がおかしい。
「清夏ちゃんっ! よかったぁ! 無事でよかったよ!」
「……もしかして、つむぎちゃん? じゃあ、さっきの妖怪は……」
「ここだ」
おじさんが虫かごを持ってやってきた。その中では、鮮やかな色のチョウが逃げ出そうと羽を大きく動かして暴れていた。さっき、走ったときに捕まえたらしい。魚沼くんも警戒しながらゆっくりと近づいてきて、うまくいってよかったと胸に手を当てている。何にもわかっていないのは、私だけみたいだった。
「え、なに? 本当にどういうこと?」
「いや、俺もさっきぽん子に作戦を聞かされたばっかりだったんだけどさ……」
魚沼くんがぽりぽりと頭をかいている。説明を求めようとしたところ、足元でぽすぽすとやわらかい感触がふれた。そこにはたぬきの姿のつむぎちゃんがいる。私はしゃがみこんで、思わず抱きしめた。
「苦しいよ、清夏ちゃん」
「とりあえず、つむぎちゃんが無事でよかった……」
「……うん。あのね、たぬきのぽん子さんが助けてくれたの」
「ぽん子が?」
今はつむぎちゃんのぽん子を見上げると、ちょっと自慢げに腕を組んでいる。
ぽん子とそれからおじさんは、山に行ったらつむぎちゃんの姿の妖怪が追ってくる可能性も考えていたらしい。そして、隙をみてつむぎちゃんの身体を取り戻す作戦を幾つか立てていたという。そのうちの一つが、一度ぽん子とチョウのつむぎちゃんの身体をハンカチ落としで入れ替えて、チョウの姿になったぽん子がつむぎちゃんの姿の妖怪と入れ替わるという作戦だ。
「人間の子よりも、化けたぬきの私のほうが妖術の扱いも慣れてるし、相手に気づかれないように動けるから。あとは、私とその子がもう一回入れ替わればおしまいよ」
「それで、相手の気を引くためになんか言えってぽん子に直前になって言われたんだ……。あんまり俺は何もしゃべれなくて、半間のほうがうまく注意を引いてたけど」
何でおじさんは私に何も教えてくれなかったのかなと思いつつそちらを見ると、嫌でも虫かごの中で暴れているチョウが目に入る。ぎゅっと額にしわをつくってしまう。
「おじさん、それどうするの?」
「……妖怪のことは妖怪に任すべきだろう。そのあたりは全部ぽん子に任せるつもりだ」
「あの、古森さん。ちょっといいですか?」
せっかくつかまえたのに、ぽん子に任せてしまって大丈夫だろうか。この場で、二度と飛べないようにしてしまえばいいのに。そう言ってしまおうとしたところで、魚沼くんがじわじわと怖がりながらもおじさんに近づいた。そして、ゆっくりと虫かごに手を伸ばす。
「君は俺がやさしくしたって言ったけど、もうやさしくもできないよ。だって、君は俺の友達にひどいことをしたから」
こつんと魚沼くんの指先がプラスチックの箱にぶつかった。中のチョウの動きが大人しくなり、じっとその指先を見つめている。
「俺は君に怒ってるし、もう二度と会いたくない。……だから、今度は何度でも君にやさしくできる相手を探しなよ」
そう言って、魚沼くんは虫かごから離れて、おじさんにもういいですと告げた。
あんな目にあわせたのに、そんな言葉だけでいいのだろうか。つむぎちゃんが、何か厳しく言ってやったほうがいいんじゃないのかな。抱きしめていたつむぎちゃんのたぬき顔をのぞくと、不思議そうに首をかしげられてしまった。
「それじゃあ、そろそろぽん子とつむぎちゃんを元に戻そう。ぽん子、たのむ」
「わかったわ。それじゃ、みんな円になって」
つむぎちゃんの代わりに文句を言ってやろうと思ったけど、おじさんがそう声をかけてしまった。みんなが円になっているし、それに早くつむぎちゃんには元に戻ってもらいたい。私はありとあらゆる悪口を言うのをあきらめて、円になった。
ぽん子とつむぎちゃんのハンカチ落としは一瞬で終わった。
元の姿に戻ったつむぎちゃんは、いつもの笑顔で私に抱き着いてきた。私もそれをしっかりと抱きしめ返す。
「よかったわね」
「うん。ありがとう……」
たぬきの姿に戻ったぽん子に声をかけられて、お礼を言ってから視線をそらした。
人が妖怪を好きになるわけがないと言ってしまった。人に恋をしている、そして化けたぬきのぽん子を傷つける言葉だったかもしれない。ぽん子に言ったつもりはないけど。
もう一度そっとぽん子を見ると、特に怒っていなさそうだったのでほっとした。
その後、もう一度ぽん子に案内されて山を下りた。つむぎちゃんは初めてだったからちょっとおびえていたけど、しっかりと手をつないで、無事に地上まで下りることができた。
「今日は本当に助かった。それじゃあ、あとは頼んだ」
「ええ。また、あんたの店に顔を見せるわ」
ぽん子はチョウが入った虫かごを口にくわえて、そのまま暗闇の中に消えてしまった。
日はすっかり落ちて暗くなり、道には街灯のあかりがついている。ハイキングのときほどではないといえ、一日中動き回ってすっかりくたびれていた。ぐうっと誰かのお腹が鳴る。
「……帰る前に、どこかへ食べに行くか」
おじさんに連れられて、私と魚沼くんとそれからつむぎちゃんはファミリーレストランに入った。特につむぎちゃんは、しばらく花の蜜しか吸っていなかったせいでお腹がぺこぺこらしくメニュー表を熱心に見つめていた。
自分の注文を決めて、ふとおじさんのほうを見ると膝の上に木のかたまりの大黒が乗っていた。
「おじさん、大黒も持ってきてたの……」
「いつも持ち歩いていたんだから、当たり前だろう。ウエストポートはそのためのものだ」
「古森さんは研究熱心だよなぁ」
憧れできらきらと目を輝かせる魚沼くんにメニューを選んでいたつむぎちゃんもなになにっと興味深そうにこっちを見てくる。おじさんは嫌いじゃないけど、このことについては変だと思っている私はうまく説明できない。そうすると、魚沼くんが勝手に長々と説明し始めた。
あきれつつもいつもどおり笑える時間に自然に自分も笑えてきて、だけどなんだかすっきりしなかった。
「どうした、清夏?」
「……ぽん子に謝れなかったなって。やっぱり、謝っておけばよかった」
「また、会えるだろう? そのときにちゃんと言葉にしなさい」
おじさんは落ち込んでいる理由を深くは聞かなかった。私は素直にうなずいて、ファミリーレストランの窓から外を眺めた。
外では風が吹いていて、木が大きく揺れて、枝をしならせ、何枚もの色づいた葉を地面に落としていた。木はだんだんと姿を小さくして、どんどん寒く、冬になっていく。
私は鼻をすすってから、目元をぬぐって隣にいるつむぎちゃんに笑いかけた。
「つむぎちゃん、もうメニュー決めた?」
「うん。清夏ちゃんも決まってる?」
「うん。それじゃあ、店員さんを呼ぼう」
呼び出しボタンを押すと、すぐに店員さんがやってきた。
お腹いっぱいにご飯を食べる私たちは、その後すっかり帰りが遅くなったことをお母さんたちに叱られるなんてまだ知らなかった。
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