恋するぽん子
とりあえず、私はぽん子を拘束していたバスタオルの結び目にふれた。おじさんはなかなか固くしばっていたようで、ちょっと手間どったけどなんとかほどくことができた。
「えっと、それじゃあ、お湯をかけるね。暑いからぬるま湯ぐらいにしようか」
「……ええ、お願い」
ぽん子は逃げ出すことも暴れることもせず、洗面器の中で大人しくしていた。しゃーっと上ちょっと弱いぐらいのお湯を、目に入らないように気をつけながら体にかける。元からきれいにお手入れしていたのか、そこまで水が汚れることはなかった。
シャンプーを1回プッシュして手のひらでちょっと泡立て、さて洗おうとしたところで一言お伺いをたてる。
「えっと、洗うね」
「爪で引っかかないでね」
「うん」
化けたぬきとはいえたぬきだ。たぬきに触れるのは初めてだ。たぬきの毛って、思っていたよりは固い。そういえば、筆にたぬきの毛が使われているって学校の先生が言っていたような気がする。
最初はおそるおそる洗っていたけど、もっとちゃんと洗ってほしいとの要望によりごしごしと力を込めて洗う。
「好きなの?」
今なら聞けると思って、泡を広げながら聞いてみた。しばらくはだんまりで、無視されたのかなと思ったころに返事がきた。
「そういう言葉で簡単に表せない。だって、あまりにも単純じゃない? 助けられて好きになるなんて」
「でも、私のクラスメイトは、消しゴム拾ってもらったり、机を運ぶのを手伝ってもらったり、笑いかけられたり、単純なことで好きになってるよ」
「それは、あなたたちが恋をしたがってるからよ。ちょっとどきってしたらすぐに好きなんだって思うの、若いころは。もっと大人になったらわかるわ」
あからさまに子ども扱いされてちょっと気分が悪くなって、少し強めに背中をこすった。感情なんて自分のものだから、好きかどうかぐらいなんてわかりそうだ。恋をしたと言い合っている子たちだって、好きだと思いこんでそう言っているようには見えなかった。
「子どもはわからないなんて言うけど、わかることはあるよ。逆に、大人でもわからない人いるよ。おじさんとかそういうのまったく気づかないもん。さっきだって、あんな強引に会いに行こうとしちゃってさ」
「まぁ、あれはさすがに強引すぎてびっくりしたわ」
ぽん子はそう言って、ちょっとだけ笑い声をお風呂場に響かせた。
「でも、あなたのおじさんだって恋を知ってるのよ」
「そんなの聞いたことも見たこともないよ。大人だからって、誰でも恋をするわけじゃないんだから」
おじさんと恋ってこの世で一番ありえない組み合わせだ。だって、おじさんはいつだって本を読んで、最近では木の大黒なんかを抱えている。あのおじさんが恋なんて、想像もつかない。
「じゃ、今度ちゃんと観察してみなさい。きっとわかるから」
「……おじさんとは初対面でしょ? そんなのわかる?」
「私は初対面だけどね。でも、よくよく見ればきっとわかるわ」
意味不明なことを言われて、私はもやもやを誤魔化すように勢いよくシャワーで泡を洗い流した。
お風呂場の扉を開けると、横に新しいバスタオルとドライヤーが置いてあった。濡れたぽん子をバスタオルで包んで水を拭き取った後で、ドライヤーで一気に乾かす。ドライヤーを経験したことがないぽん子は、うるさいうるさいと耳をふさごうと短い前足でやっきになっていたので、弱でじっくり乾かす。
すっかり乾かした後、もう一度バスタオルで包んで抱き上げると重たくてちょっとよろめいてしまった。よたよたしながらおじさんたちのいる部屋に行くと、魚沼くんとおじさんが妖怪のような絵が描かれている本を一緒に読んでいた。
「おじさん、終わったよ」
「ああ、ありがとう。こっちにブラシがあるから、必要なら使ってくれ」
おじさんが手わたしてきたのは、ホテルにあるような袋に入っているブラシだった。ぽん子に使うかと聞くと、お願いされたのでブラッシングも私がすることになる。
ぽん子が痛がらないように細心の注意を払って毛にブラシを通していると、横でおじさんがごそごそし始めた。手が動かしながらも、何だろうと様子を伺っていると、おじさんは引き出しから赤いリボンを引っぱり出してきた。
「これをつけるのはどうだ? お菓子の箱についていたリボンなんだが」
積極的にぽん子をかざりつけようとするおじさんに驚いて、思わずがりっとブラシでぽん子を引っかいてしまった。ぎゃっと悲鳴を上げられてあわてて謝る。こういうのは魚沼くんと同レベルで気がつかないと思っていたのに。これがぽん子の言う、おじさんの知っているところなのかと思わずにらむようにリボンを見てしまう。
一方、リボンを目の前に持ってこられたぽん子はあまり乗り気じゃなさそうだった。
「リボンを結ぶなんてまるで人間のペットみたい」
「そうか。ペットと思われたほうが親しみやすいと思ったが、気に障ったのなら悪かった」
そう言っておじさんがリボンを引っ込めようとしたところ、待ってとぽん子が寸前になって止めた。そして、しぶしぶという感じでうなずいた。
「いいわ。りぼん、つけるわ。いっそあんたの言うとおりにして、失敗したらあんたが悪かったせいにする」
「じゃあ、そうしよう」
ということで、ブラシが終わった後にリボンも結ぶことになった。
そしてすべての準備がすっかり終わって、かわいいペットのたぬきのぽん子が完成した。ぽん子は首元のリボンが気になってしょうがないみたいだけど、ちょっとの間だから我慢してもらうしかない。
「それじゃ、さっそく行くか」
おじさんがぽん子を抱えて今度こそ店を出た。両手がふさがっていて持てない大黒は、ベルトの後ろ側に挟んでいる。
「その格好で行くの?」
「だって、置いてはいけないだろう」
そう言いながら戸締りをするおじさんの姿はちょっと不格好だった。当然のごとく、ぽん子から文句が出た。
「ちょっと、あんたみたいな毛バモノに抱えられたら、せっかくのおしゃれが台無しでしょ! あんたのめいっ子に私を持たせて」
「……そんなに言うんなら、お店の近くまできたら抱える役を交代する。清夏が抱えていくには大変だろう」
「ちょっと、それって私が重いって言ってるの?」
これでは、ぽん子に毛バモノって言われてもしようがない。というか、やっぱりおじさんが恋を知っているなんていうのはありえないんじゃないかな。恋を知っていたら、もう少し自分の格好を気にしそうなものだけど。
外はすっかり夕焼けに染まっていて三人分の影が道に長く伸びていた。ぽん子を揺らさないようにゆっくりとした歩調で進むのに合わせて風鈴がりんりんと鳴った。風鈴を古本屋に持ち帰ってきた魚沼くんが、同じように持って歩いているからだ。
大通りにくる手前で、おじさんは歩くスピードをゆるめた。
「さて。それじゃあ、ここらへんで抱える役を交代するか。もうお店も見えている」
よくよく見ると目立たない紺ののれんに白い文字で茶とあった。表は開放されていて、商品のお茶葉が陳列されているのが遠目でもわかった。あまり興味のない商品だし、地味な外観だったから、あまり気にとめていなかった。
私は足を踏ん張っておじさんからぽん子を受け取り、絶対に落とさないようにと力を込めて腕を巻き付けた。それに、苦しいとぽん子と言われてしまう。でも、苦しいのは私の腕だけが問題なのではなさそうで、ぽん子の顔は緊張してお店を見つめていた。
「むしろ強く抱きしめていたほうがいいかもしれない、逃げられないように」
おじさんがそう言うと、ぽん子がしゃっと歯をむき出しにした。
「逃げないわよ」
「ならよかった。じゃ、ここからはしゃべらないように」
小声でおじさんがそう伝えると、ぽん子はぬいぐるみみたいにかちんと腕の中でかたまってしまった。その間に、魚沼くんに頼んでお店の前までその店員さんを呼んでくることになった。
「すみませーん」
魚沼君の何の裏もない伸びやかで明るい声を出しながら、お店の奥に入っていった。それからしばらくして、エプロンをした背の高い男性と一緒に表に出てきた。腕の中で、もぞりとぽん子が身じろぎをする。私は顔を前に向けたまま、しーっと注意をした。
その人は、太眉にたれ目でやさしそうな笑顔の、なんというかちょっとたぬきに似た人だった。一目で恋に落ちるかどうかはおいといて、いい人そうだ。
「店員さん、この人が古森さんっ! 風鈴を直してくれるかもって俺が言ってた人っ!」
「そうですか。はじめましてではないですね、何度かお店でお見かけしていますから。改めまして、ここのお茶屋の店員をしている佐野です」
魚沼くんの紹介に佐野さんはぺこりと頭を下げられて、おじさんもぺこりと頭を下げ返す。
「御丁寧にどうも。古本屋をしている古森です。こちらは私の姪の清夏、そちらの魚沼くんの学友でもありますね」
おじさんに紹介されたので、私もちゃんと頭を下げてあいさつをする。腕の中のぽん子は固まったままで、ゆらゆら尻尾だけがゆれてお腹をくすぐってくる。
「古本屋さんなのに、この短時間で風鈴を直せたんですか。すごいですねぇ」
「趣味です。直したというより、不具合の原因を取りのぞいたという感じです。もう変に鳴ったりはしないと思います」
「そうですか。それなら、よかったです」
実際は風鈴に何をしたわけでもないのに、おじさんは適当なことを言う。それに佐野さんは純粋にすごいなぁと感心しているようだった。
風鈴の話は終わった。次はたぬきの話のはずだけど、おじさんは何も言おうとしない。佐野さんはにこにこ風鈴を直してくれたことをありがたがって、このままお店の中に帰ってしまいそうだ。
ちらちらっと横に立っているおじさんを見上げると、表情にはあまり出ていないけどちょっと困っていそうだった。そういえば、おじさんは別に会話が上手なわけではなかった。もしかしたら、うまくたぬきの話題を出せないのかもしれない。そもそも、私もどうやってたぬきを話題に出せばいいのかわからない。
「佐野さんっ! 半間の持ってるたぬき、知ってる?」
唐突に魚沼くんが声を上げた。
たぬき? と佐野さんは私の腕の中に視線を向けた。
「ぬいぐるみかと思いましたけど、本物のたぬきなんですか? 飼っているんですか?」
「めいと仲良しのたぬきなんです。ぽん子と呼んでいます」
「へぇ。こんなに近くで見るのは初めてです」
膝を曲げて、佐野さんの顔がさっきよりもぐいっと下がって、ぽん子と目と合わせる。私の腕に爪が食い込んできて、思わず悲鳴が出そうになるのを我慢した。
「りぼんもつけていてかわいいですね、ぽん子ちゃん」
たれ目がゆるりと笑みの形をつくると本当にやさしい顔になる。
よかったなぁと思っていると、腕の中から声が上がった。
「ありがとう」
佐野さんは目をぱちくりとさせた。魚沼くんは向こうで大慌てして腕をぶんぶんと無意味に振り回しているし、おじさんは何かを言おうか言うまいかと悩んでいるように口を開け閉めしていた。
「ぽっ、ぽん子の気持ちを代弁してみましたっ! ありがとうって、ぽん子も思ってますよっ! ありがとうっ!」
わざとらしく裏声をつくって、私はありがとうとくり返した。夏の暑さとは関係のない熱が顔に広がって、頭がカッカとする。さりげなく、腕の中のぽん子をゆらしておいた。
佐野さんは特に疑わず、そっかとうなずいてくれた。
店じまいがあるからと、佐野さんはそれから二言三言話してお店に戻っていった。その背中が完全にお店の中に消えたのを確認して、三人で一斉に息を吐いた。
「ちょっとっ! しゃべったらだめって言ったのにっ!」
「清夏、ここでは人目につくからいったん戻ろう。また、抱える役を交代しよう」
おじさんに止められて、私は大声で不満を言うのをやめた。おじさんが腕の中の重みを持って行ってくれたので、ちょっとしびれていた両腕をぷらぷらと振る。
古本屋に戻る道でも、ぽん子は黙ったまま、ぬいぐるみみたいに固まったままだった。古本屋の扉の鍵を開けようとしたところで、やっとぽん子は口を開いた。
「おろしてちょうだい」
おじさんは言われるがままぽん子を地面に下ろした。たぬきはぺたんと地面におしりをくっつけて座って、熱いわねとやっぱり腰を上げた。
「今日は、ありがとう。本当はやったらだめだったけど、あの人に声をかけられてよかったわ」
かみしめるように言葉にするぽん子に、私は言ってやろうと思っていた言葉を忘れた。
「これですっきりしたわ、ありがとう。今日はもう帰るわね。このお礼はいつかするわ」
ぽん子は首にリボンを巻いたまま、ととっと大通りを駆けていって茂みの中に消えていってしまった。さよならも言わせずに消えていってしまったぽん子に、私は達成感とさびしさを感じた。
そのまま解散となって、私と魚沼くんは家に帰ることになった。
家のリビングに入ると、出迎えてくれたおかあさんが冷蔵庫を見てごらんと言った。中には、お兄ちゃんに食べられたはずのゼリーがあった。
「お兄ちゃんが買って、冷蔵庫に入れてたのよ」
ありがとうの言葉を飲み込んで、にこにこしているお母さんをにらんだ。
「ただ買っただけでしょ。私のためじゃないよ」
「そうかしら? でも、どっちにしろ食べてもいいと思うわよ。だって、お兄ちゃんは清夏のゼリーを食べちゃったんだから」
「……食べる」
冷蔵庫からゼリーを取り出して食べていると、お兄ちゃんがリビングにやってきた。ちらりとこちらに視線を向けられたけど、何も言わずにお茶だけ飲んでまた出ていってしまった。私もお礼なんて言わなかった。
それから、ぽん子はまた古本屋に来た。お礼をしに来ただけかと思いきや、またあのお茶屋まで連れていけと要求された。おかげで、私は何度もぽん子を抱えてお茶屋さんにお使い行っている。
「すっきりしたんじゃなかったの?」
私がそう聞くと、ぽん子はふんと鼻を鳴らした。
「すっきりしたっていうのは、迷いが消えたってこと。これから迷わず、あのお店に堂々と遊びに行こうと思ったの」
ぽん子のこれが恋になっているかどうかはわからない。でも、しばらくはおじさんの店にやってきそうだった。
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