化けたぬき

 おじさんは注意深く音の鳴ったほう、お店の入り口を見つめていた。おそらく、入り口の扉に何かがぶつかった音だった。

 カウンターをくぐって近づこうとするおじさんに、私もその後ろに続く。魚沼くんも迷ったようだけど、私の後ろについてくる。

 扉の前まで来て、おじさんはすぐに開けようとはせずにガラス越しに外の様子を伺った。目の前に何かがあるようには見えないが、おじさんは扉の外のすぐ下を見ている。私も背伸びをして下を見ようとしてみるけど、何かが見える前におじさんが扉を開けてしまった。

 開いたことに気づいた瞬間に、うずくまっていた何かは起き上がって逃げようとした。ところが、その頭上へ鉄砲のように水が飛ばされる。ぴゃっと悲鳴を上げて飛び上がったその背中を、おじさんが両手でつかんで持ち上げた。


「……ありがとう、助かった」


 水を飛ばした金魚鉢に向かっておじさんがお礼を言うと、水面が応えるようにゆれた。

 そんな様子を、私と魚沼くんは二人して呆然と見るしかなかった。


「それって、たぬき?」

「たぬきかな?」


 おじさんが抱えているのは、毛むくじゃらで、黒っぽくて茶色っぽくて白い毛がある、先が丸っこい耳を持った生き物だった。それは、前足、後ろ足を必死に動かして宙をかき、逃げようともがいていた。


「離してっ! 離してよっ、この毛バモノ!」


 そして、それは言葉を話した。

 おじさんは顔色を変えずにこちらを振り向いて、私に奥からバスタオルを持ってくるようにたのんだ。何も考えることができず、私は言われれるがまま奥からバスタオルを持ってくることにした。正直なところ、たぬきがしゃべるのは金魚鉢以上の衝撃を受けた。

 戻った私がバスタオルを持ってくると、おじさんはそのバスタオルでぐるぐるっとたぬきを巻いて後ろの方で結んでしまった。一見、たぬきがぬぐるみみたいで見た目はかわいいけど、つまり逃げられないようにしばっているのだ。これ、人に見られたら怒られたりしないだろうか。

 おじさんはそのまますたすたとお店に戻ってしまい、私と魚沼くんもついていくしかなかった。


「さて、それでは名前を聞こうか?」


 カウンターに乗っていたものを雑にすみに寄せて、座布団を置いたかと思うとその上にバスタオル包みのたぬきをそっと下ろした。たぬきは黒い鼻先をふんふんと揺らして、室内を探っていた。


「おじさん、これたぬきなの、たぬきじゃないの?」

「人語を話すたぬきだろう。いわゆる化けたぬきだな」

「化けたぬき……」


 暴れるのをやめたたぬきは人の顔をじっと無言で見つめてくる。たぬきとかきつねは昔話の中でもよく人を化かしているし、さっき言葉を話していたのも聞いてはいたけど半信半疑だ。首をかしげると、同じ方向にたぬきも首をかしげる。

 ただのたぬきにしか見えない。


「やっぱり、暑さのせいでみんなおかしくなっちゃったんだよ。だって、たぬきがしゃべるなんて絶対ないよ、ありえないもん……」


 熱くなってきた頭を冷やそうとグラスに麦茶を入れていると、おじさんがたしなめるように私の名前を呼んだ。


「疑うのはいいけど、違うと決めつける必要はない。常に可能性は考えてみるべきだ」

「そう、なのかな」


 おじさんには同じようなことを何度か言われている。違うと決めつけてはいけないって、おじさんから言われると正しいように思う。でも、うそだとわかりきってることを違うと決めつけることも悪いことなのかな。

 グラスの麦茶を両手で持ちながら考え込むと、おじさんがちょっとこまったように笑った。


「べつに私の言葉を疑ってもいいんだ。自分の意見を持つことはいいことだ。ただ、否定されたら、少しさびしくなるが」

「ええ……。だったら、おじさんのこと、少しだけ信じてあげてもいいよ」

「俺もっ! 俺も古森さんのこと、信じてます!」


 隣でおびえていたはずの魚沼くんまで手を挙げて主張している。そもそも、魚沼くんはあまり疑うということをしなさそう。それはそれで、変な人にだまされそうで心配だけど。


「それはありがたい。……それで、このたぬきが化けたぬきがどうかだが」


 バスタオルに包まれたたぬきは黒いつぶらな瞳でおじさんを見上げている、かわいい。


「最初は、かまいたちでも来たのかと思っていたんだが。化けたぬきだったのは、私としても予想が外れてしまったな」


 かまいたちと化けたぬきより聞き慣れない言葉が出てきたかと思うと、がっとたぬきが歯をむき出しにして怒った顔をした。


「かまいたちとたぬきを一緒にするなんてっ! あんなお高くとまっている、嫌味な奴らっ! きつねより一緒にされたくなかったっ!」


 たぬきがしゃべった。

 じたばたとバスタオルの中で暴れる姿を表情も変えずに観察し続けるおじさんに、途中ではっとたぬきは我に返ったようだ。ちらりと右左を見て、何ごともなかったかのようにかわいらしく小首をかしげる。


「かまいたちと一緒にして悪かった。風を起こすならかまいたちかと安直に考えてしまったんだ」


 おじさんはあぐらから正座になって、たぬきに向かって頭を下げた。しばらく頭を下げるおじさんときょとんと何もわからない様子のたぬきの光景が続いたが、しばらくしておじさんの下げた頭にため息が落とされた。


「まぁ、お前のような人間の毛バモノにわかれと言うほうに無理があったわ。顔を上げなさいな」


 ふんっと鼻を天井に向けたたぬきは、もう動物のフリをするのはやめたようだった。頭を上げたおじさんが頭を上げると、たぬきはかわいらしい声で堂々と自己紹介を始めた。


「私は隣山の化けたぬき、ぽん子よ」

「なるほど、ぽん子か」

「なるほどじゃないわよ。私が言ったんだから、そっちも自己紹介ぐらいなさい。まったく、これだから毛バモノは」

「……毛バモノって、なんだ」


 思わずつぶやいた魚沼くんの言葉が耳に入ったのか、たぬきのぽん子はそちらのほうを向いた。それに対して、魚沼くんはこそこそと私の後ろに隠れようとする。


「毛のお手入れもできていないようなやぼてんということよ。ちょっと、そこの子っ! あなたも野暮の一歩手前よ! 女性に対してもっと紳士的に振舞えないのかしら」


 そう言われてみれば、女性と見えなくもないような。よくよく観察してみると、野生のたぬきにしては毛はつやつやで、お手入れをよくされている。

 しかし、毛バモノとは。やぼてんとは。


「やぼてん……サボテン?」

「辞書を使うか? ええっと、ここにしまっておいたはず……」


 ごそごそとおじさんが資料でいっぱいで雑然とした本棚の中に無造作に手を突っ込もうとする。無理やり紙の束のようなものを入れているせいで、ちょっと本を動かすたびにがさごそとこすれる音がする。

 その音があまりにも耳に嫌に響いたのか、ぽん子がもうっと声を上げた。


「まどろっこしいわね! 野暮天っていうのは、現代風に言うとださいってこと。これで、一つ鼻が高くなったわね!」

「鼻が高く……?」


 おびえたように自分の鼻を指先で確認する魚沼くんは、この間の国語のテストで出た「鼻が高い」の選択問題でバツ印をつけられているかもしれない。

 辞書を探す必要がなくなってしまったおじさんは腕を膝の上の大黒の上に戻して、もう一度姿勢を正した。


「それでどこまで話したんだったか……自己紹介をしていたところか。はじめまして、私はこの古本屋の店主だ。そしてこちらが私のめいとその友人になる」


 おじさんが私と魚沼くんの紹介もしてくれたけど、何かおかしい。一言も自分の名前を教えていない。毛バモノ、毛バモノとおじさんに文句をつけていたぽん子は怒るんじゃないかと思ったけど、あらそうと特に気にしていないようだった。


「妖怪に名乗っちゃだめっていうのはよくわかっているのね、さすがに」


 私の疑問に答えるように、ぽん子が言った。

 妖怪に名乗ってはいけないなんて、初めて聞いた。というより、それならさっきまで思いきりお互いの名前を呼び合っていたような気がするけど。特に、魚沼くんは古森さん、古森さん、うるさかった。

 魚沼くんがこの暑いのに顔を青くしてふるえている。


「こ、こも、あ、ちがった。えっと、はんま――でもなくて、えっと……」

「魚沼くん、落ち着きなさい。妖怪に名乗ることが駄目なだけであって、私たちがお互いに呼び合うことは問題ない」

「あ、なんだ、よかった……」


 おじさんに説明されて、魚沼くんはほっと一息つく。

 そんな様子を見て、ぽん子はバスタオル包みの中からにゅっと首だけ伸ばしてきた。


「別に名乗ってくれてもいいのよ、頭のてっぺんからつまさきまでばりばり食べちゃうだけだし」


 意地悪くにやりと笑うと、口元から鋭い前歯4本が見えた。

 魚沼くんは、ぱしんと音をたてるぐらいの勢いで口を両手で覆ってしまう。


「この子たちをおどかさないでくれないか。君は人を食すタイプの妖怪には感じない」

「確かにそんな悪食じゃないけどね。でも、私が食べないにしても、妖怪に名乗るのは全面降伏するって意味だから気をつけなさい。そもそも、ぽん子も私の本名じゃないし」


 あっさりと牙をしまったぽん子は、世話焼きのお姉さんみたいな口ぶりで私たちに注意をしてくる。あまりのあっさりとした変わりように、知らずぎゅっと握っていた私の拳がゆるりとほどけてしまう。


「話がどんどんとそれていくな。それでは、どうして君をこうやってバスタオルで捕まえているのかという話をするか」

「それよ、それっ! 女性をぐるぐる巻きに拘束するなんて、どういう毛バモノなのっ!」


 さっきまで忘れていたようだったのに、その話になった途端に火がついたようにまたぽん子がバスタオルの中で暴れ始める。そのままごろんとカウンターの上で転がってしまいそうになるのを見て、おじさんがその眼前でちりんと鳴らした。


「この風鈴について、君と話したい」


 魚沼くんが持って帰ってきたそれを見て、ぴたりとぽん子は暴れるのを止めた。

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