さわぐ風鈴

お茶屋のなぞ

 夏休みだからか、いつもより通りに人が多い。

 頭の上から日差しが降り注いできて前髪をちりちりと焼いた。あまりにもまぶしくてアスファルトにばかり目を向けていると、向かいからやってくる人にぶつかりそうになる。額の上に手をかざして、私は自分の行く道を見た。あまりにも暑くて、視界の先までぼやけてしまいそうだ。

 いつものように表通りから外れて狭い道に入ると、並んでいるお店の前には打ち水がしてあった。きらきらと地面が光を反射しているから、ぬれた部分を飛び越えて進んだ。

 古本屋の前には、古ぼけた椅子の上に青い陶器の金魚鉢が置かれている。直射日光に当たらないようにするためなのか、家から引っ張りだしてきたであろう古い雨傘が背もたれ部分に引っかかっていた。指先をちょっとだけ金魚鉢の中につけると、ひやりと冷たくて気持ちよかった。それと同時に指先をつつくような感覚があって、手を引き上げると器の中で魚の影の絵がぐるりと水の中で泳いでいた。


「邪魔してごめんってば」


 一言金魚鉢に謝って、私はぬれた指先をかるく払った。

 古本屋の中に入ると、外よりはましだけれど涼しいとは言えない。店内にあるのは古いエアコンが一つばかりで、大して涼しくならないのだ。それにぎちぎちに並べられた本棚のせいで風の通りが悪い。

 ごうごうとやけに大きい空調機の音を聞きながら奥に進むと、いつものようにカウンターにおじさんが座っていた。信じられないことにいつもの長袖の白シャツを着ている。


「おじさん」


 声をかけると、本のページをめくっていたおじさんが顔を上げた。自分の横に扇風機を置いているとはいっても、暑さなんて感じていないような涼しい顔にちょっとむっとしていると、こいこいと手招きをされた。


「なに、どうしたの?」

「顔が真っ赤だ、外がよほど暑かったんだろう。はやくこっちで扇風機に当たったほうがいい」


 おじさんに指摘されて、ちょっと冷たくなった指で自分の顔を触る。確かに熱い気がする。

 私はのろのろとカウンターをくぐって、おじさんが引き寄せてくれた扇風機の前に座った。ちょっとだけましな気がするけど、まだ頭の奥のほうがぼうっとする。おじさんはちょっとここで店番をしてくれと言って、奥の居住スペースに行ってしまった。その際にも、おじさんは腕に木片――大黒を抱えている。

 扇風機に当たりながら、私はカウンターの上に頭を乗せて横向きにぼんやりと誰も来ない店内を眺めた。相変わらず店内は薄暗くてちょっと気味が悪い。しかも店内は涼しくもないし、ほこりっぽいし、おかげさまで今日もお客さんは来ない。

 そう思ってぐったりとしたまま店番をしていたのだけれども、ふと本棚で見えにくいお店の入り口に人影があることに気づいた。その人は、白いワンピースを着た女性だった。麦わら帽子をかぶっているせいでよく表情は見えないけれど、熱心に店内をじいっと覗き込んでいる。

 もしかして貴重なお客さんかもしれないと声をかけようと思うけど、どうにも身体が重くて持ち上がらない。カウンターの上に腕をついて私が頭を上げたときには、お店の前から女の人は消えていた。

 しまったと思っていると、また急に人が現れて店内に飛び込んできた。


「こんにちは! 遊びに来ましたっ!」


 夏の暑さを跳ね返すような明るさで店内に入ってきたのは、私のクラスメイトの魚沼くんだった。遠慮なくずかずかと慣れたように入ってきて、カウンターの前に座っている私を見て首をかしげた。


「あれ、半間じゃん。古森さんは?」

「おじさんは、今は奥にいるよ」


 春に起こった金魚鉢の事件以降、魚沼くんはなぜか古本屋によく来るようになって、今では古森さんなんて呼んで慕っている。あれほど怖がってたくせに、その元凶の金魚鉢がある古本屋になぜ来るのか。それに、魚沼くんは学校の朝の読書時間でも寝ようとするぐらい本にはなじみがないのに。

 一度どうしてここに来るのか聞いたら、おじさんの話を聞いたり、逆に話を聞いてもらったりするのが楽しいらしい。あのおじさんがそんなにしゃべるだろうかと思ったけど、おじさんは質問されたら答えるし、こちらが話すこともちゃんと聞いて返事もくれる、たまに本に夢中のときは無視されるけど。確かに、私だっておじさんに話しかけて無下に扱われたことはない。

 でも、おじさんについての新発見を魚沼くんにされたことが気にくわない。私は、おじさんが本を読んでいるからと思って積極的に話しかけなかっただけだ。本を読んでいるときに遠慮なく話しかけるような魚沼くんの図太さがなかったせいで見つけられなかっただけなのだ。

 そういうことで、自然と話しかける声も低くなってしまう。


「それで、今日は何しに来たの?」

「だから、遊びに来たんだよ。……半間大丈夫か、元気なさそうだな」


 魚沼くんに心配される結果となってふんと横を向くと、奥へつながるガラスの引き戸が開いておじさんが戻ってきた。その手にはお盆があって、グラスとタオルが載っている。


「清夏、これで顔でも拭きなさい。それからお茶も」

「……ありがとう、おじさん」


 ついさっき水道水で濡らしてしぼったタオルはひやりと冷たい。広げてその布地の上に顔を乗せると、少しだけさっぱりとした。けれど、自分の熱を吸ってすぐに生ぬるくなってしまう。麦茶が入ったグラスにも手を伸ばして、一気に飲み干す。一瞬喉がひやりと冷たくなるけど、頭はまだぼんやりとしたままだ。


「まだ暑そうだな。……ああ。魚沼くん、いらっしゃい」

「おじゃましてます」


 ぺこりと頭を下げる魚沼くんのつむじを睨んでいると、おじさんがポケットの古くさい皮の財布から1枚お札を取りだして、それをカウンターの向こうに差し出した。きょとりと目の前のお金を見つめる魚沼くんに、おじさんは説明を付け加える。


「申し訳ないけど、少しお使いに行ってきてくれないか。大通りからここの横道につながる入り口あたりにお茶を売っている店がある。夏限定でアイスクリームを売っているから、それを君と清夏の分の2つ買ってきてほしい」


 記憶を辿ると、確かにそんなお店があったような、なかったような。

 魚沼くんはおじさんからお札を受け取ると、わかりましたと張り切って返事をした。


「えっと、古森さんの分はいいんですか?」

「私は大丈夫だから、2人分でお願いするよ」

「それじゃ、行ってきます」


 魚沼くんが行ってしまうのをぼうっと見送っていると、すっかり生ぬるくなったタオルがおじさんに引き取られていった。


「それで、清夏はこんな暑い中、どうして来たんだ?」

「べつに。ひまだったから、来ただけ」


 うそだ。

 夏休みに入って、お兄ちゃんはますますぴりぴりするようになった。私は最大限気を使ってうるさくしないようにしていたし、文句を言われても我慢していた。ところが、事件が起こった。冷蔵庫の中の私の大事にとっていたゼリーをお兄ちゃんが食べたのだ。ショックを受けている私に向かって、お兄ちゃんがわざとらしくにやっと笑って言った。


「さっさと食べないからだぞ。ずっと冷蔵庫に残っているから、俺に残してくれているのかと思った」


 絶対にわざとだ。お兄ちゃんがわざと食べた。

 今までの私の不満が大爆発してお兄ちゃんに怒鳴っていると、お母さんが止めに来た。


「ゼリーぐらい、また買ってきてあげるわ」


 そういうことじゃないっ!

 お母さんまでお兄ちゃんの味方をして、我慢できなくなって家を飛び出して、行くところがおじさんのところしか思いつかなかったのだ。こんなに外が暑いなんて途中まで気づきもしなかったし、それよりもおなかの中でいらいらぐつぐつ煮えたぎっている怒りのほうが熱かった。

 こちらの返事をじっと待っているおじさんから目を反らして、私は扇風機のほうに身体ごと向いた。風が顔全体をくすぐってきて、ほおがひきつる。


「……とりあえず涼んでおきなさい。麦茶足りなかっただろう。おかわりを持ってくるから、ちょっと待っていなさい」


 返事をしない私に、おじさんはそれ以上何にも聞かずにまた奥のほうへと戻っていった。

 もっと聞いてくれたっていいのにと思う気持ちと、何にも言いたくない気持ちと、ちょっと悪いことしちゃったかなという気持ち。混ざり合っているものを無視して、私は扇風機に向かってあーっと声を出して、宇宙人の声を聞いていた。

 おじさんが奥の部屋から麦茶がたっぷりと入ったやかんとグラス2つを持って、戻ってきた。おじさんのところの麦茶は、朝一にお湯を沸かして麦茶を作ってから氷で冷やして、やかんごと冷蔵庫に入れられている。涼しさを求めてやかんの丸い側面に手で触れると、ひやりと冷たい。

 おじさんは定位置に座ると、大黒を膝の上に乗せながらちらりと店先に視線をやった。よく耳をすますと、扇風機が回る音のほかに遠くからじーわじーわとセミの声が聞こえる。おじさんのところにいると、いつもの学校に行っている時間や家でくつろぐ時間が遠いことのように思う、まるで別世界だ。

 そんな私の世界をぶち壊すように、学校生活の象徴のような顔が戻ってきた。


「戻りました! 半間、溶けちゃうからさっさと食べようぜ!」


 りんりんと音を鳴らしながら、ソフトクリームを両手に魚沼くんが帰ってきた。

 近づいてきた魚沼くんがにっこりと笑って私にソフトクリームを渡してくるが、私は彼のもう一つのソフトクリームを持っている手の、さらにその小指にぶらさがっているものに目がいってしまった。


「それ、なに?」

「え、風鈴。……それより、ソフトクリーム!」

「ああ、うん」


 魚沼くんからソフトクリームを受け取ると、きれいなうずまきの先が少しだけ元気なくしおれているように見えた。これはいけないと一口に食べると、甘くてつめたくておいしい。

 魚沼くんもおじさんに言われるがままカウンターのこちら側に来ると、床の上にあぐらをかいて座ってソフトクリームを食べ始めた。おじさんは麦茶をグラスの2つにそそぐと、一つを魚沼くんの前に、もう一つを自分で飲み始めた。誰も、魚沼くんの指に引っかかっている風鈴について触れない。


「その風鈴、どうしたの?」


 上のうずまきの部分を全部食べ切ってからもう一度聞くと、既に魚沼くんはソフトクリームの土台のコーン部分の最後のひとかけらを食べていた。


「ああ、これ? そうそう。古森さんに見せようと思ってたんだった」


 やっと指から風鈴を外した魚沼くんは、本を読んでいるおじさんの横のカウンターにそれを置いた。一拍置いてから、おじさんは風鈴を手に取ってゆらりと手の中で揺らした。りんと涼しげな音が鳴る。


「この風鈴に、何かあるのか?」

「ソフトクリームを買いに行ったときに、お茶屋の店員さんとちょっと話したんですよ! それで、その風鈴がちょっと変だということで、もしかして古森さんの興味を引くものかと思って、預かってきました!」


 明るくそう言い切る魚沼くんの目にくもりはないけど、私は思わず半目になってしまった。


「ちょっと前に金魚鉢で痛い目見たくせに、どうして変なことに手を出すの?」

「だって、古森さんがいるし、大丈夫かなって。おそってこないのなら、俺もこういう不思議な話には興味あるし」


 おじさんを信頼しているのかもしれないけど、おじさんはただの古本屋でそういう妖怪退治の人じゃないんだけど、わかってるのかな。そもそも、そんなに不思議なことが世の中にあふれているのだろうか。金魚鉢の事件だって、きっと一生に一度あるかないかぐらいの話だと思うし。

 おじさんはじろじろと風鈴を眺めまわしてから、そっとカウンターの上に戻した。


「それで、この風鈴の何が変だという話だったんだ?」

「ええっと、店員さんの話だと――風鈴が、もううるさいぐらい鳴るらしいんだよ」


 力強く言う魚沼くんに、思わずため息が出てしまった。


「それ、すごく強い風が吹いてるだけじゃないの?」

「いや! それがさ、毎日同じ時間に同じぐらいうるさく鳴るらしいんだよ!」

「ふうん」


 風なんて毎日でも吹くものだし、それこそ気のせいで片付けられるものじゃないだろうか。

 私が冷めた目をしていたせいか、魚沼くんは助けを求めるようにおじさんのほうを向いた。おじさんは大黒を撫でながらしばらく黙っていたけれど、首を横に振った。


「わからないな。風鈴を見たけれど、汚れも少なく、材質も軽いし、ここ1、2年で買ったものだろう。風鈴それ自体に何か原因があって、鳴っているというわけじゃなさそうだ」

「そう、ですか……」


 ほら見たことかと魚沼くんの脇を突くと、ちょっと落ち込んだように肩を落とした。

 でも、とおじさんは言葉を続ける。


「風鈴以外の要因があるのかもしれない。物以外が原因のものは、私もあまり詳しくないからな」

「えぇ? やっぱり、気のせいじゃないの?」


 おじさんにだってわからないんなら、それはもう偶然ですませてしまってもいいんじゃないだろうか。本来、不思議なことなんて大体勘違いが多いんだから。


「でも、お店の人は魚沼くんに風鈴を預けたんだろう? それほど困っていたからだ」

「魚沼くんがしつこく言ったからじゃないの?」

「そんなことしないって! 店員さんが世間話で言ってたから、古森さんならそういうこと詳しいですよって言って……」


 むきになって言い返してしてくるけど、そもそも魚沼くんは学校生活でも自分の意見をぐいぐい主張するタイプだ。店員さんにもそんな感じで迫ったんじゃないだろうかと考えている。


「突然そう言った人に対して風鈴を預けるほど、店の人が風鈴のことを不気味に思っていたということじゃないか?」


 おじさんがそう言った瞬間、がんっと何かがぶつかったような音が響いた。突然のことに思わず肩が揺れてしまった。隣に座っていた魚沼くんはさっきまであんなに意気揚々としていたのに、ひっと悲鳴を上げて私の背中に隠れるように身を引いている。


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