つくもがみ
「つくもがみというのを知っているか?」
「知らない。聞いたことも、たぶんないと思う」
「俺も、知らないです」
「なるほど。それじゃあ、辞書を引いてごらん」
おじさんはそう言うと、自分の横に積んである本の山から分厚くて黒い表紙の紙の辞書を私たちに渡してきた。ずいぶんと使い込まれていて、紙の端が丸く折れてすっかりとへたれていて、手を離せば自分の重さに耐えきれずぐしゃりと本の形がつぶれてしまった。
「ええっと、あ、か、さ、た……ち、つ、つか、つき、つく、つくも、つくもがみ……あった」
カウンターの上で紙を1枚1枚めくっていくと、お目当てのものが出てきた。小さい文字を指でなぞりながら、書かれているものを読む。
「……長い年月がたつことで、道具などに神や精霊が宿ったものって書いてある」
「そう。恐らく、これはつくもがみなんじゃないかな」
そう言って、また棚のほうに手を伸ばした。今度は、ぐるぐると分厚い厚焼き玉子みたいな巻物だった。結んであるひもを解いて、おじさんはぺらぺらと半分ぐらい巻物を伸ばした。そして、カウンターの上に乗せてそこに描かれている絵を見せてくれる。
「これは、ずっと昔に描かれた絵巻物のレプリカだ。ここを見てごらん」
おじさんが指さしたところを見ると、小さなちゃぶ台みたいなものとか、数珠みたいなもの、黒いお釜みたいなものが浮かぶように描かれていた。
「新年になると人は古くなったものを捨てる、いわゆる大掃除だ。それを恨みに思った道具たちが妖怪になるんだ。これをつくもがみと呼んだりもする」
そう言ってまたおじさんは絵巻物を伸ばしていって、また違う絵を見せた。口が裂けたような着物の女性や、キバの生えた鬼みたいな男、象みたい鼻の長い不思議な生き物なんかが描かれていた。これらが、つくもがみというものらしい。
ただでさえおびえていた魚沼くんが、さらにぐっと息を呑んで金魚鉢から半歩距離を取った。
「つまり、金魚鉢を割った俺に怒って、いつかこういう姿の妖怪になって襲って来るってことですか」
「いや。そういうことではない」
おじさんはまた手の中でくるくると絵巻物を巻きなおしていって、ひもをぎゅっと結んだ。そして、これはあくまでも物語だと言う。
「実際に、妖怪に襲われたなんて話は聞いたことがないだろう。そういう怪談がないわけでもないが、現代において器物が妖怪の姿になって襲うなんてことはそうそうない」
「でも、実際に水がわいてきたじゃないですか。それに、これはつくもがみだって言ってたし」
「妖怪の姿にならないというだけで、つくもがみではあると思うよ。意思がちゃんとあって、私たち人間に訴えかけようとしている」
「や、やっぱり、そうなんですか……」
魚沼くんはとうとう私を押し出すようにして、後ろに隠れてしまった。さっきよりも近くで見る金魚鉢は、でも妖怪にも見えないしただの金魚鉢だ。それとも、今は大人しくしているだけなのか。興味本位でじっと見つめていると、一瞬だけ金魚鉢の側面に描かれた魚の影がゆらりと尾を揺らしたように見えた。まばたきをしてもう一度見つめてみるけど、今度は動かない。
「さっき見せたお話がよくなかったな。つくも神というのは百年たって、精霊が宿ったものなんだ。だから、君が割ったことを恨んでつくも神になったというわけじゃない。というよりも、たぶん君はこの金魚鉢を割っていないんじゃないかな」
「え?」
わけがわからないという顔をする魚沼くん。私にもおじさんの言っていることがよくわからない。だって、たしかに金魚鉢は半分に割れていたはずだ。実際に見たし、ついさっきも割れたひび割れのあとを指で触った。
でも、おじさんいわく、逆にそのひびの跡がきれいすぎるらしい。
「あまりにもまっすぐと綺麗に半分に割れている。ほとんど欠けているところも見つからなかったし、わざと自分で割れたんじゃないかな」
「自分で割れたって、金魚鉢が?」
「この金魚鉢はとても古く、腕のいい職人が作ったものだ。そういうものはつくもがみになりやすい。これはきっと、割れる前からつくもがみだったはずだ。金魚鉢という本来の使い方をされずに植物を植えられてしまった不満を伝えようとして、ちょうどボールが転がってきたところを自然に割れたように見せたんじゃないか」
まるで見てきたよう、聞いてきたようにおじさんは言うけど本当かな。だって、自分で割れるなんて、自分でわざと転んでけがするみたいなことだ。私だったらそんなことはしたくない。でも、金魚鉢の側面の魚を見ると、土に埋もれたら息苦しそうだなとはちょっと思う。
「だから、君を恨むということはないと思う」
おじさんがきっぱりと言い切って、これで少しは安心しただろうかと私の後ろに隠れた魚沼くんを振り返る。のぞいたその顔は、さっきよりもずっと青い顔をしていた。
「じゃあ、母さんを恨んでるってことですか? 植物を植えたのは母さんだし、母さんが何かされるってことに……」
「だいじょうぶ。言い方が悪かった、すまない」
おじさんは今にも震えだしそうな魚沼くんに謝って、また金魚鉢を引き寄せた。また近くなった金魚鉢にびくりと魚沼くんは肩を揺らしたけど、おじさんはだいじょうぶともう一度言った。特に怖くない私は、盾になれるようにちょっとだけ前に出た。
「ほら、もう水がわいていなかっただろう。水がわいているのは不満の現れだったから、今そうでないということは不満を持っていないということになる」
「そう、なんですか? でも、不満を解消するようなことは何もしてないですけど……」
「ちょっと金魚鉢と交渉したんだ。それで、水を止めてもらった」
「こうしょー?」
私が思わずオウム返しに言うと、おじさんはまた辞書に手を伸ばそうとした。
「交渉というのは、いわゆる話合いで物事を決めることだ。わからないなら、辞書で引いてごらん」
「いや、意味は知ってるよ。でも、金魚鉢と話なんてできるの?」
おじさんは変わっている人だとは思っていたけど、まさか金魚鉢みたいな道具と話ができるなんて思ってもいなかった。しかし、おじさんは落ち込んだように肩を落として、残念そうに首を横に振った。
「残念だけど、まだ話せたことはない。こちらの言葉は通じると思って、勝手に話しかけただけだ。話しかけているうちに水が止まったから、こちらの条件をのんでくれたものと思っている」
ふと、ちゃぶ台の上の金魚鉢とにらめっこしながら話しかけるおじさんの姿が思い浮かんだ。誰かに見つかったらすぐさま変な人だと指をさされる姿が簡単に想像できてしまって、ため息が出てしまった。
「それで、金魚鉢に何て言ったの?」
「いずれ、水で満たして魚を中で泳がせるから水を止めてくださいと頼んだ」
「魚を飼えばいいんだ。できそう、魚沼くん?」
「え……?」
思ったより簡単そうな条件でよかったと思ったけど、魚沼くんは歯切れの悪い返事をする。何度かちらちらと金魚鉢を見て、なかったことにしたいとでもいうように顔を背けてしまった。
「難しいかい?」
おじさんが聞くと、まるで金魚鉢から隠れるように私の背に隠れるように小さく頷いた。
「俺が金魚飼いたいって言って、母さんが買ってくれるかわからないし。金魚の飼育とかよくわからないし。えっと、それから……」
「不安かな、このまま持って帰るのは。今はなにもしないとは言っても」
おじさんの言葉に、魚沼くんはうんとううんとも聞こえるようなあやふやな返事をした。
金魚を飼うとして、いつまで金魚を育てていかなくちゃいけないんだろう。金魚鉢が満足するまで金魚を飼い続けないといけないとしたら、それは何年ぐらいか、死ぬまで一生か。一生なんて想像もできないけど、なんとなくぞっとした。
うつむいてしまう魚沼くんに、おじさんはそれならと声を上げた。
「私がこの金魚鉢をもらってもいいかい?」
「え」
「もちろんお金は払おう。……そういう話は、君のお母さんに直接したほうがいいかな。でも、君の許可ももらいたい。この金魚鉢との縁がつながったのも君のおかげだから」
「もちろん、もらってくれるのなら、俺はうれしいですけど……」
「そうか。それはよかった」
本当にうれしそうにするおじさんに魚沼くんはとまどっているようだった。魚沼くんは、おじさんが変な人だということを知らないから。私だって、こんなおかしな金魚鉢をもらうなんてどういうつもりなんだと思う。でも、それ以上に気になるのは、おじさんが金魚を飼うつもりであるということだ。
「おじさん、自分のごはんも私のお母さんにお世話されているのに、金魚の世話なんてできるの?」
そこが一番気になって尋ねると、とたんにがたっと金魚鉢が揺れて、うわっと魚沼くんが声を上げた。金魚鉢も不安になったのかもしれない。
「私だって、姉さんがこの町に戻ってくれるまではちゃんと一人暮らしをしていたんだから大丈夫だ。……だから、心配しないで、私にもらわれてください」
おじさんはいいわけをすると、不安がる金魚鉢を説得するようにそっとふちをなでていた。また、がたっと金魚鉢は揺れて、側面に描かれている魚の影も大げさに尾を揺らしているように見えた。私もなんだか信用ならない。
何と言ったら安心してもらえるだろうと、おじさんは困ったようにうんうんと頭を揺らしながら考え込んでしまった。
「たしかに自分の食生活にはあまり気が回らないけど。でも、自分の目的のためなら、ちゃんと気を回せるよ。金魚鉢はちゃんと磨くし、金魚の世話もするし、水草だって整えられる」
「本当に? というか、おじさんの目的ってなに?」
ただ親切心で金魚鉢を引き取ろうというわけじゃなかったらしい。
おじさんはもったいぶることなく答えを教えてくれた。
「似たような存在があれば、情操教育にいいかと思って」
今日も膝の上に抱えている木のかたまりをなでながら、おじさんはいつものようにそう言う。そこで初めて木のかたまりがあることに気づいた魚沼くんは警戒するように身を引きながら、それを指さした。
「もしかして、それもつくもがみ、なんですか?」
「そうなってくれたらいいけどね。この子は、つくもがみになる予定の子なんだよ」
「え、そうだったの」
数年前からおじさんが持っていた木のかたまりについての新事実に思わず私の声が高くなる。言ってなかったっけなんておじさんは言うけど、正直おじさんが変なことをしても慣れているからスルーしていた。
「私は、ずっとつくもがみをつくろうと研究しているんだ。この子は、近所の古い家が壊されることになった数年前、大工の人に頼んで大黒柱の一部をもらったんだよ。だから、この子のことは大黒と名づけている」
「へぇ……」
つまり、あの大黒とおじさんに名づけられた木のかたまりは、おじさんの言うことを信じれば将来的につくもがみになる予定で、それのお友達候補としてつくもがみの金魚鉢がおじさんは欲しいということだろうか。
金魚鉢を見る前だったら、またおじさんがわけわかんないこと言ってると思ってすぐにわすれていただろう。もしかして、本当に言われたことがあるけど忘れていたのかもしれない。
「友達ができれば、つくもがみになるのが早まるんじゃないかとも期待しているんだ」
「あんな怖いものをつくろうとするなんて。すごい研究をしてるんですね……」
興奮したように早口になるおじさんに、なぜか魚沼くんが尊敬しているようなきらきらとした目を向けている。自分で理解ができないことを大人が研究していると言ったら、ちょっとすごいと思えるかもしれない。
私はおじさんをよく知っているから、むしろおじさんがいつも以上に子どもっぽくはしゃいでいるようにしか見えない。表情はあまり変わっていないけど、そわそわと落ち着きなくゆらゆら揺れている。
「そういうことなら、俺からも母さんに話します。ずっと倉庫にあったものだし、母さんもくれると思います。俺としても、半間のおじさんに預かってもらえるのなら安心だし」
「ありがとう。それじゃあ、早速話をつけに行こうか」
すっかりおじさんと魚沼くんの間で話が進んでしまっているけど、木のかたまりを持った知らない男の人なんてあやしいにもほどがある。魚沼くんのお母さんに不審者扱いされないように、私もおじさんの付き添いとしてついていかなくちゃいけないだろう。
それじゃあ早速なんて、カウンターをくぐってズボンの膝部分を白くしているおじさんはまったく手がかかる。
その後、魚沼くんの家に行って、魚沼くんのお母さんに金魚鉢をもらっていいか聞きに行くことになった。私が助けてあげたおかげか、魚沼くんのお母さんは快く金魚鉢をゆずってくれた。おじさんは大喜びで、足元から伸びる影がいつもより踊っていた。
金魚鉢のひびは、職人の人に金継ぎという方法で直してもらうことにしたらしい。戻ってきた金魚鉢には、円を半分に割るように金色の線が引かれていた。
それから、おじさんの古本屋の前には金魚鉢が置かれるようになる。
のぞいてみると、赤い金魚のほかに、黒い魚の影が水の中でゆらりと尾を揺らしているのを見ることができる。
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