おかしな器

 おじさんが変なことを言いだした。思わず声を上げた私に、魚沼くんが気まずそうに顔を反らしながらぼそぼそと答える。


「信じられないかもしれないけど、本当だよ。この器から、何もないはずなのに、割れたところから水が出てくるんだ」

「なにそれ? もともとぬれてたってわけじゃなくて? ありえないよ」

「そりゃ、ありえないけど……」


 どう考えてもありえない、その気持ちのままに聞き返すと、魚沼くんは弱気になって声を小さくした。せっかく心配して残ったのに、いたずらや手品の類の話だったのかとさらに聞こうとしたら、またおじさんに止められた。


「清夏、人の言葉を疑うこと自体は悪いことではない。でも、疑うことと違うと決めつけることは違う。自分が思ってもいないようなことがたくさん世の中にはある」

「べつに、決めつけてるってわけじゃないよ。それに水は何もないところからは出てこないのはふつうのことだし」

「じゃ、確かめてごらん。怪我すると大変だから、慎重に」


 おじさんに促されて、私は魚沼くんが抱えている陶器に手を伸ばした。一瞬魚沼くんは逃げるように身を引きかけたけど、おじさんの顔を一瞬うかがって、そのまま触らせてくれた。

 おじさんが言うように、怪我をしないようにできるだけ割れた部分を直接触らないように陶器のつるりとした部分からするりと指を滑らせる。ひやりと冷たい感触とともに、割れた箇所に近づけば近づくほど、水がちょろちょろと流れているのを感じた。どういう仕組みだろう。


「ずっと抱えていて、冷たかっただろう」


 おじさんがそう言って、はじめて魚沼くんのズボンの太ももあたりがびっしょりとぬれていることに気がついた。さっきまで器を抱えていたし、暗かったからまったく気がつかなかった。まるでついさっきコップ一杯分の水をぶちまけられたみたいな具合で、ぬれた器を抱えているだけでできるものなのだろうかと疑問が浮かぶ。


「これが原因で、君は家に帰れないのか? これは君の家にあったもの?」

「はい、そうです……」


 さっきまでの意固地な様子とは打って変わって、魚沼くんは素直におじさんの言葉にうなずく。その声は震えていて、もしかして泣く寸前なのかもしれない。暗がりではよくわからない。次に視線を彼の持っているものに移した。ただの水にぬれた陶器にしか見えない。


「この陶器自体が古いものだね。こういう古いものは、ふつうでは考えられないようなたまに起こすんだ。だから、これは君の責任で起こっていることではないよ」


 おじさんが言い聞かせるようにそう告げると、力が抜けてしまったのか、魚沼くんの手から陶器が落ちそうになったのをおじさんが下から受け止めた。そのまま地面に膝をつくほど脱力した魚沼くんは、はーっと長いため息をつきながら頭を垂れた。


「俺、どうしようかってずっと悩んでて、でも誰にも言えないし……」


 両手で顔を覆いながらそう言う魚沼くんがかわいそうに思えてきてしまった。まだ1か月ほどの付き合いしかないけど、彼がここまで落ち込んでいる姿なんて想像もつかなった、それぐらいいつも笑顔で能天気なのに。

 おじさんは魚沼くんをなぐさめるようにゆっくりと声をかけた。


「私は、こういう不思議なことについては少しばかり知っていることがある。君の力になれるかもしれない。だから、この不思議なことを見つけた事情を教えてくれないか?」

「…………はい」


 ゆっくりと顔を覆っていた手を外すと、少し気恥ずかしそうにかすかに笑った。そしてぽつりぽつりと、おじさんが今持っている陶器について話し始めた。


 ここ最近、魚沼くんのお母さんはガーデニングにはまっているらしい。きれいな花や食べられる野菜や果物なんかを育てているという。そしてまた新しく植物の苗を買ってきたお母さんは、家に帰ってから植物を育てる鉢が家にないことに気がついた。あわてて家の倉庫から探しだしたのが、今魚沼くんが持っている陶器だった。水はけ用の穴は空いていないけれど、新しい鉢を買ってくるまでの代わりとしてちょうどいいと、この陶器に植えて庭に置いておいたらしい。

 そして昨日、魚沼くんは家の庭でサッカーボールを蹴っていた。

 ここまで聞いて、私はすぐに話がわかってしまった。口の端をひきつらせながら魚沼くんがぽつぽつと語る話の続きを待つ。


「その、ちょっと力加減をまちがえて、ボールが植木鉢が置いてあるほうへ飛んでいったんです。そんなに力いっぱい蹴ってなかったし、だいじょうぶだと思ったんですけど、ちょっと遅れて何かが割れる音がして……」

「つまり、魚沼くんが蹴ったボールのせいでその器が割れちゃったわけ」


 あまりにもくだらなすぎて、言いよどむ魚沼くんの言葉を先読みして言ってしまった。話は最後までちゃんと聞いてあげないとなんておじさんは言うけれど、本当に男の子ってばかだ。割れそうなものの近くでボール遊びするほうが悪い。

 私の言葉に遮られて口を閉じてしまった魚沼くんに、おじさんが先を促すように言葉をかけた。


「それで器から水がわいてくるようになったのか?」

「最初は、そんなこと気づきませんでした。ただ母さんに叱られると思って、あわてて割れた器を自分の部屋の押し入れに隠しました。植物もバケツに植え直して、見えないところに」


 そんなもの水やりのときにばれてしまうでしょと私が言うと、昨日今日と水やりを代わりにやっていたとか。いつもは手伝いなんかしないくせにと怪しまれつつ、なんとかばれていないらしい。さっさとばれて、怒られればいいのに。

 陶器がぬれていることに気がついたのは、昨日の寝る前だったとか。割れた陶器が気になってしようがなくて、寝る前にもう一度自分の部屋の押し入れの中を確認して、中が水びたしになっていることに気がついたらしい。それで器を触って確認してみたら、割れたところから水がどんどんと出ていることに気がついた。とりあえずバスタオルで何重にもくるんでみたが、水はあとからあとからあふれてきて止まらない。泣きそうになりながら、一晩中眠れずにずっとぬれた床を拭いていたらしい。

 そして朝になって寝不足になりながら学校に行ってはみたものの、あの水がわきだす陶器のことが魚沼くんの頭から離れなかった。もし、お母さんが見つけていたらどうしよう。もう叱られてしまうかもしれないという恐怖ではなく、自分が割ってしまったせいで何か恐ろしいものに呪われてしまったんじゃないかと思えてきたらしい。

 だから一目散に家に帰って、やっぱり水がわいてくる器を腕に抱えてまた家を飛び出した。悪いものがついているならお祓いをしたいと思って、とりあえず町にある神社に来て、ごめんなさいとずっと謝っていたらしい。それでも、器からの水が止まることはなく、もうすっかり暗くなってしまって、どうしようかと思っていたところに私たちが来たという話だった。


「ふうん」


 私にできた返事はそれぐらいだった。途中まではよくあるような子どもの失敗のお話だったのに、なぜか奇妙な話になってきた。嘘だと言ってしまいたいけど、でも実際に私の目の前には水がわきだす陶器がある。


「ふむ、なるほど。この陶器が割れてからというのは確かなようだけど……」


 考えるように眼鏡の奥の目を閉じたかと思うと、ぱっとまぶたを開いた。そして木々の向こうにある明かりがまぶしい住宅街のほうを指さした。


「今日のところは帰ろうか。子どもが出歩くには、すっかり遅くなってしまったから」

「え、で、でも……」


 魚沼くんは、今はおじさんの腕の中にある陶器をちらちらと見る。いまだに水はわいているし、止まる気配がない。全然問題は解決していない。

 それでも、おじさんは家に帰ろうと言う。


「ここにずっといても何も解決はできない。その代わり、これは私が預からせてもらってもいいかな。いろいろと調べてみるから」

「いいんですかっ! その、呪いみたいなのが、俺の家まで追いかけてくることは……」

「話を聞いて、実際に陶器を見て、触った感じではそんなことはないと思う。もし何か異変があったら、夜中だったとしてもうちに来てくれればいい……ああ、うちが分からないか。あとで教えよう」


 ぽんぽんと安請けあいをするおじさんを、魚沼くんがきらきらと尊敬した目で見上げている。しかし、そんなに簡単に引き受けてしまってもいいのかな。おじさんはただの古本屋さんで、まじない師とか陰陽師とかそんなものに関係しているなんて聞いたこともない。心配になって、おじさんの脇腹をひじでつついた。


「おじさん、いいの? そんな変なもの、その辺に捨てていっちゃえばいいのに」

「それこそ、この陶器が怒ってしまうだろう。それに、私はこういう物についてはちょっとばかり詳しいんだ。知り合いにそういうおまじない専門のやつもいるし」

「そうなの?」


 おじさんが変な人だけど、変な物も好きだ。ちょっと不安になりながらも、私よりもおじさんは大人なんだからとうなずいた。

 おじさんは陶器を包んでいるバスタオルの端と端を結んで、風呂敷みたいにしてしまった。そして右手で器を持って、左手にいつもの木のかたまりを持って、私と魚沼くんを住宅街へと続く階段へと促した。


「さ、帰ろう。魚沼くんも途中まで送ろう」


 いつもぼんやりと頼りないはずのおじさんは気合が入ったみたいにしゃきしゃきと動いている。私たちに頼られるためというよりは、どこかおもちゃをもらった帰り道みたいな浮かれ方に見える。

 おじさんの背中をじとっと見つめていると、魚沼くんに声をかけられた。


「半間、今日はごめん」

「え、いいよ。おじさんが勝手に引き受けただけだし、ちょっと帰りが遅くなったぐらい」

「それじゃなくて、今日のドッジボールのこと」

「ああ、それ」


 さっきまでずっと怒っていたことなのに、自分でもすっかりとドッジボールのときのことを忘れかけていた。改めて言われると気恥ずかしいし、時間差とはいえ謝ってくれたのだし、もういいだろう。


「べつにいいよ。魚沼くん、今日はあの陶器のことで頭がいっぱいだったんでしょ」

「正直、あれのことで頭がいっぱいでぼーっとしてた。ボールぶつけて、本当にごめん」


 いいよと言った私に、魚沼くんはそれでも謝ってくれた。ずっと怒っていて、ついさっきまで嫌いだとすら思っていた自分こそ、すごく嫌なやつだったんじゃないかと思えてくる。つい、だからもういいってと無理やり話を終わらせてしまった。

 おじさんを先頭に、私と魚沼くんはちょっと距離をとりながら並んで帰り道を行く。気づかれないようにそっとのぞきこんだ魚沼くんの目の下には濃いくまがあって、本当に昨日は眠れなかったんだろうことがわかる。

 そのままおじさんに家まで送られて、その日は解散となった。


「こんな遅くまで遊びやがって……」


 お母さんには特に何も言われなかったけど、晩御飯を食べるときにお兄ちゃんにまたぶつぶつと文句を言われた。一瞬言い返してやろうかとも思ったけど、お兄ちゃんの目の下にも濃いくまがあることに気がついて、何となく怒る気がなくなってしまった。

 それでも残ってしまうもやもやした気持ちを解消するようにカツに食いついていたら、お母さんが自分の分のカツを一切れ、私のお皿に乗せてくれた。

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