夜の帰り道
本を一冊読み終わると、外は暗くなり始めていた。座布団から起き上がると、身体の下にしていたほうの腕にたたみのあとがうっすらと残っている。立ち上がって、窓とカーテンを閉めて、お店側に戻った。おじさんは時間が止まったみたいにずっと同じ体勢のままだ。
「おじさん、そろそろ帰るね」
カウンターの後ろに読んでいた本を戻して靴をはいているとおじさんが顔を上げた。眼鏡を外し、しょぼしょぼとまぶしそうにあたりを見回してもう一度かけなおすと、ぱきぱきと音を鳴らしながら肩を回しておもむろに立ち上がった。
「一人で帰るのはやめなさい。送っていくから」
「一人でも大丈夫だけどな。明るい場所しか歩かないよ」
人の少ない通りとはいえここはお店が並んでいるし、表の通りまで行けば人はいっぱいいるし、まぶしいくらいに明るい。住宅街のほうも街灯がいたるところにあって暗くはないし、この時間だと帰り道を歩いている人も大勢いる。それでも、おじさんはいつも暗くなって帰ろうとする私を送っていく。もしかしたら、おじさんの中の私は幼稚園の小ささで止まっているんじゃないかと思う。
「私も、そろそろ散歩の時間だから。行くか」
おじさんはしっかりと脇に木のかたまりを抱えている。おじさんのことは嫌いではないけど、隣を並んで歩くのはちょっと恥ずかしい。
「それも持っていかなきゃだめ?」
「この子の情操教育のための散歩だから」
「じょーそー教育……」
おじさんは時々難しくてわからないことを言う。でも意味を聞きたいとも思わなかったので、しようがなくおじさんを引き連れてカウンターの外を出る。私は慎重に膝をつかないようにカウンターをくぐるのに、おじさんはそんなの気にしないで膝をつくからその部分にうっすらと白いあとができている。おじさんはいつも白シャツに黒ズボンだから、黒に白のほこりは目立つはずだ。でも、何度も洗って色落ちしているズボンだから意外とそこまで目立たないかもしれない。
お店の外に出ておじさんが両開きの扉をしめて鍵をかけている間に、私はおじさんの横にしゃがんで膝のあたりを叩いておいた。
「どうした?」
「おじさん、そろそろ床の掃除しなよ。膝ついたらズボンが白くなっちゃうんだから」
「掃除なんかしたら、本が崩れてしまうだろう」
おじさんは自分でもぽんぽんぽんと三回だけはたいて、まぁいいかとはいているズボンを眺めている。本当は全然良くないけど、ズボンよりも木のほうが目につくから、まぁズボンはこれでもいいかと大目に見ることにする。
「人目につかないように、遠回りして行こう」
「帰る時間が遅くなるけど、いいのか?」
「だって、おじさんといっしょに歩いてたら変な人だと思われちゃうから。できるだけ人に見られない道がいいの。それに、別に早く帰りたいわけじゃないし」
「そうか……」
おじさんはこくりと頷くと、木をあやすように揺らして抱えながら表通りとは反対方面に歩いていく。おじさんは、一応自分が変な人に見られているという自覚はあるらしい。それでも、特に何とも思ってなさそうだからよけいに変な人だ。
遠回りの道は横道をぐるりと回って、民家の少ない道をどんどんと進んでいく。このあたりに来ると、まだ町の古い部分が残っている。草がぼうぼうに生えた空き地とか、壊れかけの木の塀で囲まれた人気のない民家とか、何のためにあるのか分からない変な形の石の列とか、明かりも少なくて不気味だ。おじさんと一緒じゃなかったら通らないと思う。
「清夏は、学校で友達はできたのか?」
歩いている道中で、おじさんが不意に聞いてきた。おじさんは木を撫でながらのんびり歩いているけど、背が高いので一歩も大きい。私はちょっと早歩きで後を追わないといけない。
「そりゃ、引っ越してからもう一か月になるし、話す友達ぐらいはできたけど、なんで?」
「よく、私の店まで来る。それに、タッパーを渡してくれたあと、本も読んでいるから」
「それなりに遊んだりはするけど、遊べない日もあるでしょ。今日はそういう日なの」
「そういうものか」
「そういうもの」
おじさんと話しながら歩いているうちに、あたりから建物が少なくなっていった。空をふさぐように枝を伸ばしている木々を抜けていくと、石の階段までたどり着く。下からだと、わさわさ風に揺れる葉っぱで道の先が隠されているから、階段が空まで伸びているみたいに長く感じる。明かりは階段の途中にぽつぽつとあるけど、その明かりも木にかくされぼんやりとしてあまりたよりにならない。足元がよく見えないから、手すりをしっかりと握っていないと駄目だ。
私は慎重に階段を上るけど、おじさんは慣れたように手すりにもつかまらないですたすたと上っていく。
「おじさん、はやい」
「ああ、ごめん。私のベルトにでもつかまっていなさい、引っ張りながら上るから」
「はぁい」
子どもの頃なら素直に手をつなげていたけど、大きくなってからだと誰も見ていないとはいえためらってしまう。だから、この階段を上るときはいつもおじさんのベルトとズボンのすきまに手を挟んで、おじさんに引っ張ってもらう。
「よっこいせっと」
「おじさんってば、おじさんぽーい」
「おじさんなんだからあたりまえだろう。あんまり体重をかけるんじゃないぞ、いっしょにひっくり返るから」
ふうふうと言いながら、おじさんは階段を上っていく。おじさんは背が高いけどひょろっとしているし、いつも古本屋に閉じこもっているから体力もない。ちょっと前かがみになりながらがんばって上っているのが後ろ姿でもよくわかる。おじさんはあまり表情を変えないから、真正面や隣に立っていても何を考えているかよくわからないときがある。こうやって後ろ姿を見ているときのほうが、おじさんの気持ちがよくわかるような気がして私は好きだなって思う。
「おじさん、がんばれー」
「……もう少しだから」
ちょっと体を傾けると、だんだんと明るくなっているのが分かる。階段の終わりに近づいて、木々を抜けた先にあるてっぺんから明るい光がこちらへ伸びている。ここまで来ると自分の足元も見えるし、おじさんに引っ張ってもらわなくてもいいんだけど、このままがいいから黙ってそのまま上まで連れていってもらう。
最後の一段を上りきると、おじさんはふーっと大きく息をついた。右腕に木のかたまりを抱えながらやりづらそうに、眼鏡を外して額にうっすらとかいた汗をぬぐった。
「おじさん、だいじょうぶ? ちょっと休む?」
「いや、そこまでじゃない……」
「でも、息切れしてるよ。あそこに座ってちょっと休もう」
階段を上りきると町の小さな神社の前に出る。ベンチなんてものは置いていないから、神社の境内の前にある石階段にでも座らせてあげようとおじさんの背中を押す。ふらふらとされるがままのおじさんと境内に近づいていくと、先客がいることに気がついた。
石階段の前に座り込んでいる人影はこちらには気づいていないようだった。何かを両腕に抱えているようで、それを隠すように上から覆いかぶさって膝を抱えるかっこうになっている。
「やっぱりこのまま行こう、おじさん」
こんな時間に、こんな暗い中、一人で境内の前に座っている人なんてあやしい。怖い人かもしれない。不安になっておじさんのベルトを引っ張るけど、おじさんは逆に興味を引かれたようで、じっとその人の正体を見破ろうと見つめていた。
「子ども、みたいだけど。こんなところで、子どもが一人だと危ないんじゃないか」
「子ども?」
おじさんに言われて人影をもう一度見ると、シルエットが大人にしては小さいことがわかった。私と同じぐらいかもしれない。
そうやって見ているうちに視線に気づいたらしい。人影が身体を起こして、こちらを見つけた。その顔を見て、思わずげっと声がもれた。
「半間か……?」
おじさんの後ろに隠れる前に、私の名前を呼ばれてしまった。ここで無視したら、明日からの学校生活に問題が起きてしまう。
私はいやいやクラスメイトにあいさつをした。
「どうも」
魚沼くんは、私と同じクラスの男の子だ。休み時間のたびに友達を引き連れてサッカーをするような明るくて、スポーツなら大体何でもできて、人気のある人だ。私は苦手で、むしろ今日から嫌いになりはじめているけど。
おじさんは魚沼くんと私をかわるがわる見て、私のちょっと嫌そうな反応に気づいたらしい。困ったように聞いてきた。
「二人は、知り合いか?」
「クラスメイトだよ、スポーツが得意な魚沼くん。ボールを投げるのはちょっと苦手みたいだけど」
今日、学校の体育の授業でドッジボールがあった。一チーム十人を四つつくって、二チームずつ試合をしていた。私と魚沼くんは別チームで、彼が試合をしているとき私は見学している側だった。見学といっても、特に試合を見たり、応援したりということはせず、友達とおしゃべりして自分のチームの番を待っているだけだったけど。特になんてこともなく平和に過ごしていたはずなのに、突然世界がぐらりとゆれた。痛みとともに空へと跳ね上がっていくボールを見て、私は自分の顔にボールがぶつかったのがわかった。そして、遠くのほうであせった顔をしている魚沼くんがいた。
魚沼くんが大暴投をして、コートから離れたところで見学していた私の顔面にボールをぶつけたのだ。保健室に行ってすぐに冷やしたから顔がはれることはなかったし、血もでなかったし、大したことはなかった。でも、ふつうは一言ぐらい謝るものだと思う。あいつ、授業が終わっても、教室にもどっても、帰る時間になっても謝ろうともしないし、気まずそうにすることもなく、ちっともこちらを見ないでさっさと帰ったのだ。
怒りを引きずったまま魚沼くんの紹介をすると、いまさら気まずそうに肩を縮めた。
「もしかして半間、怒ってる?」
「怒ってるように見えた? ごめんね、隠しきれなくて」
もうちょっと文句を言ってやろうかと思ったけど、それをさえぎるようにおじさんに頭をなでられてしまった。クラスメイトの前で頭をなでられるのはなんだか嫌だ。私は頭をガードするように腕を伸ばして、おじさんからちょっと距離をとった。
私が離れると、おじさんは座りこんだままの魚沼くんに近づいて、その目の前にしゃがみこんだ。
「もう暗いし、そろそろ晩御飯の時間だろう。私たちはもう家に帰るけど、君は帰らないのか?」
全身を丸めて小さくなっていた魚沼くんは、おじさんに目線を合わせられて気まずそうにうつむいて、距離のある私からは聞き取れないぐらいの声でぼそぼそ何か言っている。
「誰かと待ち合わせでもしてるの?」
再度かけられたおじさんの言葉に、魚沼くんは首を横にふった。話の内容はよく聞こえなかったけど、帰りたくなさそうに見える。
私はもう帰りたいけど、おじさんは動くに動けなさそうだった。魚沼くんの前にしゃがんだおじさんは、こちらを振り返ってちょっと困った顔をしていた。
「清夏、ちょっと帰るのが遅くなってもいいか。……いや、姉さんが心配するか。どうしようかな」
「べつにちょっとぐらい遅くなってもいいよ。怒られるのは、おじさんもだしね」
お腹も空いてきたけど、魚沼くんを一人にできないおじさんの気持ちもわからなくはない。明かりはあるとはいえ周りが木に囲まれていて薄暗いし、ほかに人もいないし、ここは坂の上にぽつんとある神社なので変な人が出てきて叫んでも声が届かない。学校で先生から耳が痛くなるほど言われる、一人で遊んではいけないところに入ると思う。何でそんなところで、わざわざ一人でいて、帰りたくないなんてことを言うのかわからないけどしようがない。
今日ボールをぶつけられた私がやさしさを出したのに、魚沼くんはさらに首を横に振った。
「いや、帰ってください。俺はだいじょうぶなんで」
ぶっきらぼうにそう言って、ぎゅっと石階段の上で固まって動く様子を見せない。それどころか、顔を伏せてしまった。
どうしたものかと顔をかくおじさんの横で、私は魚沼くんが無防備にさらしているつむじをじっと見下ろした。そして、右手で邪魔な魚沼くんの頭どかして、左手でずっと膝の上に抱えていた何かを引っ張った。
「お、おい、何するんだよ!」
「あ、清夏、やめなさい。人のものに勝手に……」
魚沼くん、そしておじさんにも声をかけられてしまうが、私は手を止めない。今日嫌いになった魚沼くんを、私のやさしい心で待ってあげようと思ったけど、本人がこんなに反抗的なら無理やりにでもどうにかしてやりたい。
そもそも、私たちに放っておいてほしいのならこんなところにいないでさっさと帰ったらいいのに。こんなところに私たちみたいな子どもがいれば危ないなんて、幼稚園からずっと大人に言われているんだから自分たちでもわかっている。わかっているのに、帰らないのなら何か理由があるはずだ。なんとなくだけど、隠すようにずっと膝の上に抱えているものがあやしい。
「何かは知らないけど、これが帰りたくない原因なんじゃないの?」
無理やり引っ張ったそれは、バスタオルでぐるぐる巻きにされているみたいだ。両手で抱えるほどに大きくて、ちょっと持ち上げた感じなかなか重い。
「おい、やめろってばっ!」
「わっ……!」
ばしっと手を払いのけられて、たいして痛くはなかったけれど反射的に身体を離してしまった。そのときに、バスタオルで巻かれた何かが跳ね上がるように魚沼くんの膝の上から離れていった。
ガシャッと鈍い音がする。
落ちたはずみでバスタオルがほどけて、ぱっかりと二つに割れた陶器が出てきた。しまったと思っていると、少し強い力でひじのあたりを引かれた。おそるおそる見ると、おじさんが眼鏡の奥で厳しく目を細めてこちらを見ていた。思わずぎゅっとくちびるをかんでしまう。
「清夏、謝りなさい」
「う……だって」
「清夏」
おじさんに名前を呼ばれて、しぶしぶと魚沼くんのほうを見る。青沼くんは膝から落ちてしまった陶器をバスタオルで包み直していた。声が何度かのどにひっかかったけど、無理やりしぼりだす。
「ごめん、魚沼くん」
「うん……」
バスタオルで包んだ陶器を両手で持ち上げた魚沼くんはぼそりと返事をしてから、ふうっとため息をついた。
「これ、もともと割れてたんだ」
「あ、そうだったんだ。じゃあ……」
じゃあ、私は悪くないやと思いかけて、またおじさんに厳しい調子で名前を呼ばれたので、おとなしく反省をしておくことにする。
「手、ぬれなかった?」
「手?」
唐突に魚沼くんはそう聞いてきた。どうしてそんなことをと思ったけど、確かに指先が少し湿っているように感じる。
「たしかに、ぬれているような……」
「うん。バスタオルで包んでも、どうしても水がさ」
「水?」
陶器がぬれていることの何が問題なのだろう。私が聞き返すと、魚沼くんはもったいぶったように口をもごもごとさせてなかなか話そうとしない。さっきおじさんに叱られたばかりだから急がせはしないけど、はっきりしなくてつい靴先で地面を何度もたたいてしまう。
ざわざわと木々が揺れて、黙り込んでしまった私たちの間に葉のさざめきの音だけが流れていく。風が止まってまた静かになったとき、おじさんが木を持っていないほうの腕を伸ばしてタオルに触れようとした。はっと魚沼くんは息を呑んだが、あきらめたようにタオルの中の陶器を触りやすいように前に差し出した。
「なるほど。器の割れた箇所から、水がわき出している」
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