21

 どばーん! と、けたたましい音を立てて着水する。「かはっ!」と勢いよく落ちた衝撃で息がかなり出た。夢の中だと言うのに現実と同じくらいの痛みがあった。一瞬遠くなる気を必死に戻しながら、霞ヶ関を探す。俺は泳げないが、海水の中で目を開けることが出来る。

 どこだ、あいつはどこだ。

 首を体ごと動かして、霞ヶ関を探す。いた。俺の右だ。気を失っているようだった。

 俺は五メートルほど離れた霞ヶ関に向けてばたばたと泳ぐが、少ししか前に進まず、どんどん体が沈んでいく。

 今日ほど、カナヅチの自分を呪った日はない。

「五メートル、たった五メートルなんだ。水泳の授業のように、二十五メートルあるわけではない」と自分に言い聞かせる。

 沈みながらも着実に前に進む、少しずつ霞ヶ関に近づく。

 水に入った時に息をかなり出してしまったので、俺が気を失うまでのタイムリミットはそう遠くない。

 手を伸ばして、霞ヶ関の肩を掴む。

 霞ヶ関の肩をゆすり、目覚めてくれと念じる。

 考えなしに飛び込んでしまったので、ここから出る方法が、霞ヶ関に目覚めてもらい、岸まで泳いでもらうしかない。

 霞ヶ関、霞ヶ関と肩を揺するが、一向に目覚める気配がない。そんな彼女を見て、俺は最悪の可能性に気付いてしまった。

 霞ヶ関は、落ちた時の衝撃で死んだのかもしれない。

 こんだけ高いところから落ちたんだ。ショック死なんてこともあり得る。

 霞ヶ関の体は女だ。丈夫な男の体に比べれば、当然脆い。

 それに彼女のような水泳選手は、長距離の陸上選手のように、体の無駄が少ない。だから水泳で鍛えているとは言っても、かなり華奢な体躯をしている。

 そんな彼女が、この衝撃で死んでしまう可能性は大いにある。

 くそ、なんで俺は、霞ヶ関が飛び降りる前に無理やり止めなかったんだ、嫌われるのが怖かったのか? もうそんなのどうだっていいだろ! 人の命が掛かってんだぞ? 霞ヶ関が死んじまうんだぞ?

 俺が飛び降りることだって、きっと望んじゃいない。全て余計なお世話だ。

 だから何だ、俺は霞ヶ関を生かすためなら、今まで俺に親切にしてくれた恩をこうして仇で返してやるし、代わりに死んでやってもいい。

 目覚めない霞ヶ関を抱えて、水の中でもがく。まるで空を蹴っている気分だった。

「ぐっ……ぐぐぐ」

 息の限界だ。酸素が体に回らなくて、視界が見えなくなってくる。

 俺は最後に霞ヶ関の顔を見た。

「んっ……」

 霞ヶ関は薄目を開いて声を出した。

 ああ、良かった。生きてたのか。今ならまだ間に合う、俺を置いてさっさと陸へ泳ぐんだ。

 そう思う頃には、俺の意識は飛んでいた。

 ――夢の中でも、死んだら死ぬからね。

 幽子さんの言ったことは本当だろうか。

 まあ、もうじきわかるか。



 ■



「また死ねなかったね」


 小学生を卒業したばかりの私――一度目の自殺を図った霞ヶ関香澄が横に座った。

 霞ヶ関香澄とは私のことだが、横にいる少女も霞ヶ関香澄である。まごうことなき私だ。

 どこをどう見ても、そこにいる少女は私だった。

 何がどうなっているんだと思ったが、そういえばここは夢の中だった。何が起こっても不思議ではない。

「ねえ、香澄。私は本当に死にたかったのかな」

「…………………」

 死のうとした気持ちは本当だ。でも、死ねなかった今は死のうとは思わない。

 私の死にたい気持ちは、受け止めたくない現実から逃げたいということに起因している。それは自分でもわかっている。

「……一度目は本当に死にたかった。だけど二度目は違う」

 私は私に向かって言う。

「好きな人に構って欲しかった……。あの日みたいに、私のことを気にかけて欲しかった」

 認めるしかない。私を差し置いて恋人を作ったエイジを困らせたかっただけだと。

「面倒臭いね。私って」

「うん、本当だよ。死にたくなる」

 なるだけだけど。

「起きたら謝りなよ」

 小学生の頃の私は、私の膝で眠っているエイジを指さして言うと、どこかに去っていった。

「…………」

 エイジが私と一緒に飛び込んできた時はかなり焦った。私と違って彼は泳げないから、本当に死んでしまう。

 まさか助けに来たつもりなのだろうか。だとしたら、後先考えていなすぎる。

 ――お前が本当に海に飛び込んだ場合、俺が助けに行くからな。

 エイジが一度目の時に言っていた、ただの冗談だと思っていた言葉を思い出した。

「一番嘘っぽい、あの言葉だけは、本当だったんだね」

 他の言葉だって、別に嘘っていうほどの嘘は混じっていなかったんだろう。あったのは詭弁と建前くらいだ。

「ごめんね……本当にごめんね……」

 あんなこと言われたら、誰だって勘違いしちゃうよ。

「エイジが私に嘘を吐いたって責めたけど、私も君に嘘を吐いてたよ」

 私は君が私に嘘を吐いたことを責めたけど、君の吐いた嘘を、心から恨んだ瞬間はない。

 君の嘘に救われたと、心の底から思っている。

 

 

 ■

 

 

 部屋のベッドの上で目が覚めた。

 俺は――生きていた。死んでなかった。

「てことは……幽子の言っていたことは嘘だったのか……? それとも」

 霞ヶ関が助けてくれたのか?

「ねえ!」

 ベッドから出てきた茜が、電話を握りしめて、嬉しそうな顔で言う。

「まさか待ってたのか?」

 俺が眠ってから一時間は経っている。今回寝るとき、確かに茜はそばにいた。しかし、俺が眠ってからその間、ずっとここで待っていたのだろうか。

「待ってたっていうか、添い寝してたんだけど」

 添い寝してたらしい。ベッドから出てきた時点で気付くべきである。

「それより聞いて!」

「おう」

「香澄が目を覚ましたらしいわよ!」

「マジかっ!」

 その場ですぐに着替え、俺と茜は病院へ行った。

 

 霞ヶ関の病室には担当医の村瀬さんが居た。すでに連絡が回っていたのか、明也さんも居た。忌々しいことに赤津佳奈も居た。お見舞いに来る途中だったのか、果物が入ったバックを持っていた。

 明也さんは俺のことを見るなり、へらりと笑った。俺や村瀬さん以外の第三者が居るときはヘタレモードらしい。

 赤津佳奈は茜には笑顔であいさつしたが、俺の顔を見るなり露骨に嫌そうな顔をした。

 ベッドの上で、病衣を着た霞ヶ関は俺を見ると、恥ずかしそうに微笑んだ。

 霞ヶ関は生きていた。死なずにちゃんと生きていた。

 えへへ、とごまかすように笑う霞ヶ関。

「ごめんね」

「こっちこそ、気付いてやれなくてごめん。あと、生きててくれてありがとう」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る