*


 俺は沈んでいった。

 あるいは浮き上がっていた。

 少しひんやりとする海水の中に俺はいる。海面から差し込んでくる日差しが温かい。

 まどろみそうな意識の中、目を開ける。やっぱり夢見島の海は綺麗だ。青くて透き通ってる。

 上にも下にも深いが、この海はどこまでも見渡せる。見渡せそうな気がする。

 きっと天国に最も近い場所なんだろうとさえ思った。

 カナヅチの俺は一度しかこの海を潜ったことがない。

 これが夢だとようやく気付く。

 なぜなら俺は、この景色を二度と見ないと茜に誓ったからだ。

 ふいに何かが近づいてくる気配がした。

 それは目に見えない透明で、把握しきれないほど巨大で、そしてなぜか愛おしかった。

 透明で巨大な何かが俺に触れる。

 俺の意識はまどろんだ。



 意識が覚醒する。

 ここがまだ夢の中だと感覚的に理解した。

 あたりを見回す。こじんまりとした鳥居、下のほうに苔が生えている社、古ぼけているが小綺麗な神社。そして真夜中。

 ここはどうやら、真夜中の夢見神社らしい。

 俺は夢見神社のど真ん中で寝ていた。罰当たりである。

 よっこらせと立ち上がり、一歩二歩と歩いてみる。

 現実と変わらない質感、感覚、肌寒さだった。

「今日はずいぶん調子がいいな」

 俺は勉強も運動も平均的だが、おそらく誰も持ってないだろう特技を持っている。

 俺は夢の中で夢であるということを認識しながら意識を覚醒できる。

 簡単に言えば夢の解像度が高い。

 調子は日による。だが、今日は間違いなく最高の調子だった。

 まるで現実のようだ。いつもなら嗅覚や聴覚や肌の感覚が利かないのに、今日はすべて利いている。

 夢の中の服装は寝てる時の服装と同じになる。だから今の俺の服装はTシャツにハーフパンツである。正直、肌寒い。

 まさかもうちょっと厚着して寝ればよかったと夏に思うとは。

 この特技があったところで、別に何か役に立つわけじゃない。こんなふうに厚着しておけばよかったと悩むくらいだ。

 とりあえず、散歩がてら家に帰ることにした。

 鳥居をくぐり、階段を下る。神社の階段ってなんでこんなに急なんだろうと思う。

 人が誰もいない。夜の静けさが心地よい。

 本当はもっと人がいるのだろうが、俺が認識しない限りは出てこないのだろう。

 だってこれは俺の夢だから。

 階段を下り終え、端に木々が生えている道を進む。

 ざり、ざり、ざり、と砂利道を通る音だけが聞こえる。本当に現実みたいだ。

 この島に昔から住んでいる人はみんな夜目が利く。

 夢見島の街灯はかなり少ないから、夜は本当に暗いが、ずっと夢見島に住んでる人は慣れて夜目が利くようになる。

 だから俺も月明りと数本の街頭で家までたどり着ける。

 今夜は満月に近い夜だから結構明るい。

 こんな時でも俺はカレンのことを考えていた。

 カレンとの中を修復し、昔のように戻るにはどうすればいいか。

 隣に茜がいれば、一緒にそのことについて話そうと思ったんだが、残念ながらいない。

 夢なんだから都合よく現れてくれていいのに。

 ……もしかして俺はカレンを出汁にして茜に会いたいだけのではないだろうか。

 もちろんカレンのことは好きだが、茜はそれ以上に好きだ。

 茜がいなければきっと俺は生きていけないと思うくらいには好きだ。

 夜の静けさが怠くなってきた。

 人に会いたい。

 主に茜に。

「あー、お兄ちゃんまた茜さんのこと考えてる」

 急に右から聞き覚えのある声がした。

 振り返った。

「……いや、別に茜のことなんて考えてないけど」

「うっそだぁ、お兄ちゃん茜さんのこと考えてるとき、すっごい間抜けそうな顔をするんだもん。本当は茜さんのこと考えてたんでしょ?」

 夜の静けさに似合わない、今日の昼間みたいにカラッとした笑顔のカレンがいた。

「真夜中に一人じゃ危ないよ?」

 こっちのセリフだという反論は夢なのでさておき、そうだなと適当に相槌を打つ。

「カレンも家に帰るところだったから一緒に帰ってあげるよ」

「……おう、ありがとう」

 これは夢だ。なぜならカレンはもう、俺にこんな風に接してくれないからだ。お兄ちゃん呼びも、カレンという一人称もだいぶ前に卒業している。

「ほら、ぼうっとしてないで、行くよ?」

 カレンは俺の手を少し乱暴につかみ、力強く引っ張る。

「お、おう。わかってるよ……」

 おかしい。おかしいぞ。

 俺がカレンのことばかり考えているから、カレンが夢に出てきたということは理解できる。

 でもこれは俺の夢のはずだ。俺の予測した通りにしかならないはずだ。

 実際、人間が夢に出てきたことは何度もあるが、それら全ての行動に予測が出来た。夢の解像度が高い俺だから出来ることなんだろう。

 出てくる人物も、その行動も、全てがわかる。

 なのにカレンが出てきたことは予想外だった。これは一体どうなってるんだ。

「おなか減ったね、家帰ったらなんか作ってあげるよ」

 これじゃまるで、本物のカレンじゃないか。数年前の。

 

 でもまあ、不具合くらいあるか。元々不安定な能力なわけだし。

 むしろ、夢の中で本物の人間に似通った妄想を作り出せるんだとしたら、それはそれで夢の解像度を高くする能力としては正解な気がする。最も、その解像度の頂上を現実とした場合に限られる気がするけども。

 いや、夢というのはそもそも現実での体験が元になっていると医者の村瀬さんが言ってたし、夢が現実に近い形をしているのは間違いじゃない。

 でも村瀬さんはこうも言ってたな。

「現実を元にしたその人の真実……つまりやりたいことやしたいことが反映されるのが夢だと思うんだ。つまり夢は欲望だよ」

 つまり、夢の世界では現実ではできないことが出来るということか。

 確かに、中学生の頃ならともかく、今の俺がこの時間に出歩くのは難しい。

 なんか規模がしょぼいけど、現実では出来ないことを今している。

 ということは、夜中で歩くということが俺にとっての欲望なのだろうか。

 いやまさかそんなことはない。寒いし。

 夜の風景は好きだけど、わざわざ親に怒られるリスク抱えてまで見たいとは思わない。

 となると、昔みたいにカレンとこうやって歩くことが俺にとっての欲望なのだろうか。

「なのだろうか、ではなくそうなんだよお兄ちゃん。お兄ちゃんがカレンのこと大好きなのはよぉく知ってるからね」

 うむ。カレンのいう通りである。

 よって俺は予想外のカレンを受け入れることにした。


「うはぁ、やっと帰れたねえ」

 家にたどり着いた。

 さほど距離はなかったが、カレンがずっと俺の腕を引きながら歩いていたから、腕を引かれてた俺は自分のペースで歩けずちょっと疲れた。

「家に着いたことだし、約束通りお兄ちゃんに何か作ってあげますか~」

 そう言ってカレンはキッチンへ足を運ぶ。

「俺も手伝うよ」

「ダメ、お兄ちゃんは座ってて」

「なんでさ」

「お父さんとお母さんが忙しいときはいつも作ってくれたじゃん。だからそのお返し」

 カレンは俺を椅子座らせ、料理を始めた。ゴーヤ、卵、豚肉、材料的にゴーヤチャンプルだろう。

 カレンが料理を作ってくれるのは珍しい……というより、親が家にいないとき、みたいな料理を作らなくちゃいけない場合には基本的に俺がカレンの分まで作っていた。なのでカレンは料理する気があろうがなかろうが、料理をする機会はあまりなかった。

 カレンが喜ぶと決めつけて、手伝わせず俺だけがやっていたが、実はカレンも単純に料理がしたかったのかもしれない。もしくは俺の作った料理が不通に不味かっただけか……。

「お兄ちゃんが作る料理にはかなわないけど……」

 そんな可愛いことを言って、カレンはゴーヤチャンプルーを作ってくれた。

「ありがとう。いただきます」

 ゴーヤチャンプルーを食べてみる。

 さっきまで寒空にいたから、暖かい料理が上手い。味も少ししょっぱいが美味い。

「美味しい」

「そう、それならよかった」

 そう言ったカレンは俺にハンカチを渡してきた。

「なんで?」

 なんでハンカチなんか……ああ、そうか、口でも汚れてるのか。

 ハンカチを受け取り、口を拭っていると、くくくとカレンが笑い出す。

「違う違う、目だよ目。泣くほど美味しかったの?」

「え?」

 今気づいた。

 俺は泣いてしまっていた。

「ああ、そうだよ。泣くほど美味しかった」

「あはは、嘘ばっかり」

 嘘じゃない。本音を隠すための詭弁であり建前だ。

 確かにカレン以外の誰かがこの料理を俺に作ってくれても、俺は泣かなかったかもしれない。

 味云々の話じゃないのだ。カレンが、俺を見限らず、俺に料理を作ってくれたことが嬉しくてたまらない。

 嫌われる原因は俺にある。受験だなんだといってイライラしていた俺は憂さ晴らしにカレンに手を上げた。

 何度も誤り、言葉の上では許してもらったが、それ以来カレンとはどこか距離を感じる。当たり前だ。本当は嫌われたくないなんて言う資格すらないはずだ。

「……ごめん……」

「だから、カレンはとっくに許してるよ」

 弟や妹は兄や姉のダメなところを見ながら育っているから、良い人間に育ちやすいというが、ここまで顕著に差が出ると、なんというか、悲しい。情けなくて嬉し涙が出る。

 許してくれてたのか。

「でも、お兄ちゃんもその気なら、ちゃんと仲直りしようよ。私が寄り添ってもそっけないからさ、お兄ちゃんのほうから私に寄り添って」

「それって、どういう……」

「茜さんのことなんか忘れて一緒に居てってこと。明日だけでいいからさ」

「そんなことでいいのか?」

「一緒に居るだけじゃなくて、ちゃんと優しくしてね。誕生日だからプレゼントとか用意してさ」

「そのプレゼントをどうしようか迷ってたんだよ、今日、ずっと」

「カレンもお兄ちゃんも、二年前くらいが一番楽しかったでしょ? これがヒント」

 欲しいものをねだるような態度ではないが、目の前のカレンはあざとくて生意気だった。まるで昔のカレンみたいだ。

「そろそろ夢が覚めるね」

 そうだ。これは夢だった。全部、俺の妄想なんだった。全てがリアルすぎて忘れていた。

「しょっぱいゴーヤチャンプルーを食べ切ったお兄ちゃんに賞品としていいこと教えてあげるね」

 視界から狭まっていく。夢から覚めるときをはっきりと意識したことはなかったが、現実世界で寝落ちする時みたいに意識が遠のいていく。

「これは確かに夢だけど。カレンの夢でもあるの。お兄ちゃんは今日、夢見様と出会って、他人の夢と繋がる力を手に入れた。つまり……カレンの言っていることは、嘘でも妄想でも建前でも詭弁でもなく、本心だからね」


 *


 混濁する意識の中で目を覚ます。少し眩暈がする。せっかくいい夢を見たのに寝起きが悪い。

 窓から差し込んでくる日差しが強くてまぶしい。その割には涼しい気温だ。

 時計の針は六時を指していた。夏休みだというのに早く起きてしまったという残念な気分が俺に追い打ちをかける。

 早起きは三文の得だというが、その三文で睡眠時間が買えたのかと聞きたい。その三文で買ったものは果たして心地よい朝寝坊より価値のあるものなのかと聞きたい。むしろ目覚めの悪い朝を三文で買い戻せるなら全然払う。そんなことはできない。はあ、憂鬱だ。

 ただでさえ今日は憂鬱だ。なにせカレンの誕生日なのだ! 本来楽しいイベントであるはずなのに、俺の準備不足のせいで微妙な雰囲気になること間違いなしである。

 だって手元にあるのは、昨日の帰りに一応買っておいた毎年恒例の駄菓子詰め合わせしかないからだ。

 たとえ駄菓子が好きだったとしても、こんなの渡されて喜ぶ中学生女子がどこにいるというのか。

 暗い気持ちと寝起きの顔でリビングへ向かう。

 母はともかく父はかなりの早起きなのでこの時間には起きているはずだ。おはようくらい言っておこう。

 と、思ったがいない。そういえば父さんは一昨日から島の出張に行ってるんだった。今日はカレンの誕生日だし、例年通り六時くらいには帰ってくるだろう。

 となると今日、一番朝が早いのは俺か。

 腹も減ったし、朝飯は俺が作るかな。キッチンまで歩き、冷蔵庫を開ける。

「あっ」

 一番最初に目についたのは、余りに余ったゴーヤ達。六本ある。どうすんだこれ。

 そういえば昨日特売だったと母さんが言ってたな。だからって六本買うか。

 朝飯を作るならこれを使えと威圧されてるかのようだ。

 別にゴーヤでもいいんだが、何か調理しないと、ゴーヤだけ丸かじりするわけにもいかんし……と、そこにちょうど良く、豚肉半パックと卵があるのだった。

 ……作るか、ゴーヤチャンプルー。夢の中で食べたけど。

 夢の中で食べたものなのに、味がしっかりしたに残っている。こんなことは初めてだ。

 フライパンに油をひいて点火する。豚肉を入れて火を強める。香ばしい。

 階段から誰かが下りてくる音がする。カレンか母さんか。

「いい匂い……、あ、おはよ。早いね」

「ああ、すぐ作るから待っててな」

「うん、ありがと、兄さん」

 

 朝飯が出来上がった。ゴーヤを二つも使った大作である。

 ゴーヤチャンプルーとは言ったが、ゴーヤの割合はぶっちゃけ二、三割でいい。卵の甘みや豚肉の旨味をゴーヤの苦みで調和するくらいがちょうどいいのだが、今回はゴーヤ五割である。どう考えても苦みが強すぎる。

 目覚ましにはちょうどいいかもしれないが、そういう挑戦は普通の日にやるべきだった。

 なにも妹の誕生日にやるべきじゃなかった。と思ったがカレンはパクパク食べている。

「苦くないか?」

「うん。でも美味しいよ」

 自分でもちょっと食べてみる。やっぱり苦みが強い。

 カレンは特に何も言わずパクパクと食べ進める。

 朝だからか、カレンの食べるペースがちょっと遅い気がした。

「……」

 昨日、茜と夢の中のカレンが言っていた通り、カレンは俺と一緒に居たいというのなら、もしかしてわざと食べるスピードを落としてたり……いや、まさか。

 そんなわけない。そもそもカレンが俺と一緒に居たいわけがない。典型的な嫌な兄の俺から逃げたいに決まってる。

 そう思ってても、言い聞かせても俺は聞いてしまうのだった。

「今日何か予定、ある?」

 カレンは食べるのを止めて、こちらを向く。

「いや、特にないけど」

 答えるまでに一拍かかった。

「そっか、じゃあ今日は久しぶりに、二人でゲームしないか?」

「うん、いいよ。真剣勝負ね」

 少し食い気味にカレンは答えた。

 うれしかった。

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