疫病

アーベントルの疫病――これはニーカルナでは有名な話であり、時に寓話として子供に語る親もいる。


アーベントルという篝火に囲まれた街に住む、その男の名はハバリグス。疫病によって若すぎる妻を奪われた、哀れな大男である。とは言え、愛する妻の死後、毎日酒に溺れ、街を徘徊するようになった彼に対し、同情の念を抱く者は誰一人としていない。


酒を片手に街を歩き回り、目を逸らしたり、ひそひそ噂話をする者たちを見つけては怒声と共にうざ絡みを繰り返していた。

ハバリグスは常に酒気を帯びており、その赤ら顔を怒りで更に真っ赤にしては怒鳴り散らす。

街の人々は一体何が気に食わないのかと、絡まれた者は困惑し、ひたすらハバリグスに謝るしかなかった。


ある時、ハバリグスが満月の美しい昼に――ニーカルナでは月しか登らない為、月が出ている時間が朝であり、昼である――街を練り歩いていると、路地裏でしゃがみ込み一人祈りを捧げる少女を見つけた。


「詩の神アルスラ様、銀糸の髪と翼の乙女よ。

 どうか私の願いをお聞き入れ下さい。

 どうか私の家族に使者レティーデを遣わせて下さい。

 私の声と引き換えに、母をお救い下さい。」


ハバリグスは必死に祈りを捧げる少女の姿を見て、何処か冷静さを取り戻した。しかし直ぐに思い出したくもない惨めな自分の姿を思い出し、怒りが体中を駆け巡った。

それは若き妻が疫病に侵される時、まともに看病をしてやることすら出来ず。ひたすら神に救いを求め、祈っていた自分を思い出したからだ。


「おい、ガキ。神に祈ったところで奴らは何もしてはくれーよ。さっさと家に帰れ!」


「赤ら顔のおじさん、ハバリグスさん……ですよね?どうかお薬を恵んでくれませんか。私のお母さんが疫病に罹っちゃったんです。だから――」


話半ばにも関わらず、少女はハバリグスに殴り飛ばされた。路地裏に転がっている木箱がクッション代わりになったものの、強烈な痛みが少女を襲う。


「薬をくれだ?バカ言え、オレだって持ってねぇよ!むしろ欲しかったのはこっちの方だ。そうすればアイツは、オリヴィリスは死ななかったのかもしれないのに――」


このアーベントルという街では、汎ゆる薬が一箇所に集められ、保管されている。その場所は教会、唯一神リードルヴァセーラを奉る場所である。


かつてこの街は数週間に渡る吹雪に悩まされた。対応策として冬の妖精クヴァツァ狩りが行われ、捕らえたクヴァツァは全て生きたまま火刑に処された。


しかし依然として吹雪は収まらず、遂に教会の司祭が唯一神であるリドールヴァセーラに助けを乞うた。

リドールヴァセーラはその嘆願を聞き入れ、吹雪を止め、二つの啓示を司祭に残していった。


一つは街の周りを篝火で囲うこと。篝火の火が消えない限り、二度と吹雪がアーベントルの街を襲うことはない。

もう一つは街中に保管されている薬を全て教会に集め、アーベントルの街が滅びるまで一切の使用を許さないことだった。


司祭はリドールヴァセーラの二つ目の啓示を断ろうとしたが、唯一神は有無を言わせなかった。


「聞け司祭よ。お前たちは吹雪という世の不条理を永遠に退けたのだ。故に別の不条理を被り、帳尻を合わせなくてならない。その不条理の名は疫病だ。」


リドールヴァセーラのこの言葉は夜、眠っていたアーベントルの街の人々全員に聞こえるように、夢を介して囁かれていた。そして続く司祭の悲鳴によって、街中の誰もが目を覚ました。――そして教会を目指した。


さて、一番に教会へ着いた数人は魔術としか言い様がない疫病によって、瞬時に深緑色の黴に覆われ朽ちていく司祭を目撃することとなった。


その光景に恐怖を覚えたが、更なる恐怖が迫っていることを彼らは知ることとなった。

何故なら司祭を覆っていた深緑色の黴が手から腕へ、腕から胸元へと、侵食を始めていたからだ。


この現象はちょうど12人目の体が朽ちて、どす黒いぐずぐずの物体になった頃、収まりを見せた。

街の人々は死体を焼き払うことに決めたが、リドールヴァセーラの言葉を思い出し、教会に入ることはしなかった。


しかし、これが間違えだったのだ!教会に残された司祭の体から漂う黴の胞子が、窓の隙間を、扉の隙間を通り抜け、街中に漂い始めるまでにそう時間は掛からなかった。


その後のことは語る必要も無いだろう。大量の胞子を取り込んだ街の人々が次々に疫病を患っていった。


疫病を患った人々は薬を求めて、家族に尋ね、隣人を尋ねた。しかし健常な人々は誰一人として、薬の在り処を教えなかった。何故なら薬は既に唯一神リドールヴァセーラの命令に従い、教会の中に放り込まれていたからだ。


無論、察しの良い者は教会の中に街中の薬があると確信し、教会へ向かう者もいた。しかしリドールヴァセーラの命令を破ることで、訪れるであろう更なる災厄を恐れる人々によって私刑に処された。


こうしてアーベントルの街は黴由来の疫病と、恐怖という疫病によってゆっくりと破滅へと向かっていくのだった。


 *


時にクーンの街の神官、オーソン・アルジンは下記の様な文章を残している。



かつてアーベントルの街に齎された黴由来の病原菌は、熱にめっぽう弱く篝火の火でいとも簡単に死滅してしまう。もしアーベントルの街の人々が、街を囲う篝火を消すようなことがあれば、その黴由来の疫病は瞬時に、ニーカルナ全土へ広がっていくだろう。


しかしリドールヴァセーラへの恐怖という信仰故に、アーベントルの街の人々は篝火を絶やさず燃やし続け、やがて破滅することだろう。

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