一日目・電車内で騒ぐ外国人を注意して拍手を送られる

 バニラ、チョコレート、こちらはナッツ、またバニラ。

 アイスクリーム屋にでもいるようなニュアンスだが、そうではない。漂っているのは、古くなった本の匂いだ。

 茶色く変色した紙からはバニラに似た甘い香り。まだ白い紙に鼻を近づけると、こちらはチョコレートの匂いを思わせる。

 如月きさらぎ玲雄は、先ほどからその甘い香りに包まれていた。

「う~ん、いい本が無いなぁ」

 場所は学校の図書室。玲雄が通う、県立あゆみ橋高校の一室だ。

 ロングホームルームの後の放課後。窓から差し込む光は、もうオレンジ色に染まっていた。

「ボランティア活動の本って言っても難しいよな」

 本棚に並べられた背表紙を一冊ずつ指先でなぞりながら、心の中でタイトルを読み上げていく。

 その中から、この日のロングホームルームの議題と合致する本を見つけるのは至難の業だった。

 議題は、玲雄たちのクラスが行うボランティア活動の内容について。あゆみ橋高校では地域活動の一環として、生徒たちによるボランティア活動に取り組んできた。

 二年生のクラスごとにボランティア活動を行い、その成果を発表するという内容だ。四月――進級して早速のホームルームで、それは議題に上がった。

(明日になっても何にも決まらなかったら、担任も怒るよなぁ……そうしたら、みんなも気まずいだろうし)

 この日のホームルームでは積極的に発言する生徒は無く、具体的にどんな活動をするかの案は出なかった。

「明日までに考えてくるように!」と、まだ二十代の女性教師である担任がキレ気味に言って終了した。

(あのクラスじゃ、真面目に考えてくる人はいなさそうだしな。やっぱり、僕だけでも何か考えておかないと)

 玲雄は、一年の時から持ち上がりのクラスメイトの顔を思い浮かべてため息をついた。

 一年生の時のホームルームでもそうだった。積極的な意見は出ず、業を煮やした担任が席の端から順に発言をさせたこともあった。

 担任もその時からの持ち上がりで、自分が抱える生徒たちのことは分かっているのだろう。二年生の初めから、イラ立ちを隠そうともしない。

(どうせ、誰も僕の発言なんか聞いてくれないだろうけど……)

 一年生の時も、クラスメイトはザワザワと雑談をして玲雄の発言に耳を貸す様子はなかった。

 誰も自分の話を聞いてはくれないだろう。自分の意見が採用されるはずもないだろう。そう考えながらも、玲雄は何かしなくてはという気持ちでいた。図書室で参考になりそうな本を探しているのも、そうした理由からだった。

 このままでは担任の機嫌が、ますます悪くなる。クラスに気まずい空気が流れるのは居心地が悪い。それだけは避けたかった。

 目についた本から使えそうなアイディアをメモして、一冊だけ本を借りて図書館を後にする。

 後は家で考えるつもりだ。授業の宿題が出なかったのが幸いだった。

「今から帰れば六時過ぎには家に着くから……お風呂にお湯入れて、ご飯の支度して……」

 廊下を歩きながら、帰宅後にやることを考える。自分の宿題について考える時間は、さてどれくらいあるのだろうかと。

 玲雄の家は両親が共働きの上に帰宅時間が一定ではなかった。そのため、玲雄も家のことはある程度は自分でする習慣が身に付いていた。

 正面玄関の前まで来たところで、反対側からも一人の女子生徒が歩いてきた。他に生徒の姿も無く、玲雄はなんとなくその女子生徒に注意を向けた。

(可愛い子だな)

 見かけない顔ということもあり注目してみると、そんな感想を最初に持った。

 エアリーボブの黒髪に包まれた小さな顔の中で、大きな丸い目が特徴的だと思った。

 右手にある下駄箱の方へと曲がりながら、横目で女子生徒の顔を見続ける。

 玲雄の視線に気が付いたのか、女子生徒の方も玲雄に視線を向けてきた。

 ジロジロと見過ぎたかと思い、玲雄は少女から目をそらす。

「ぴゃっ」

 背後から小さな甲高い悲鳴が上がった。

 何事かと玲雄が振り向くと、先ほどの女子生徒と目が合った。

 その大きな目はパチパチとまばたきをくり返し、薄紅色の小さな口は驚いたように半開きになっている。

(何を驚いてるんだろう?)

 玲雄は辺りを見回してみたが、特にいつもの校舎と変わりない。

 自分たちの他に生徒や教師がいるわけでもない。とすると、女子生徒は何かを見て驚いたのではないということか。

 例えば、教室に忘れ物をしたのを思い出したとか。床が滑りやすくなっていて、転びそうになったとか。

 危険な動物が校内に入り込んだとか異常な事態が起きたのでなければ、特に気にする必要もないだろう。女子生徒の方も立ち尽くしてはいるが、ひどく怯えたり泣き出しそうな様子を見せているわけでもない。

 玲雄は下駄箱の前まで進むと「如月」とかかとに書かれた上履きを入れて、ローファーに履き替える。

(もう暗くなりかけてるな。早く帰ろう)

 正面玄関を出て空を眺めるころには、玲雄の中から先ほどの女子生徒のことは消えていた。

 学校からの道のりを歩くこと二十分。最寄り駅の近くまでやってきた。

(あれは、クラスメイトの……)

 学校とは違う方角から、クラスメイトの男子数人が歩いてくるのが見える。ガヤガヤと楽しそうに話していて、玲雄に気付いた様子はない。

 恐らく駅前のゲームセンターにでも寄った帰りなのだろうと、玲雄も特に気に留めない。

 同じクラスではあるが、わざわざ声をかけるほど親しい間柄でもない。と言うより、玲雄はクラスの中で孤立していた。

 不良グループやリア充グループに入れないのはもちろん、オタクグループとも近づきがたいと思っていた。

 玲雄もゲームやアニメ自体は好きだ。けど、少しトロいところがある。一本のゲームをクリアするのにも時間がかかるし、流行りのアニメに疎いため話題に入れないでいた。

 クラスメイトから意図的に視線をそらすと、後ろの方に人影が見えた気がした。

 何気なく振り向いてみる。

(さっきの女子? 違うかな? まぁ、どっちでもいいか)

 少し離れたところに見えた人影は、あゆみ橋高校の女子の制服姿をしていた。遠目だからはっきりとは分からないが、髪型や雰囲気は玄関を出る前に見かけた女子生徒に似ている気がした。

 あの女子生徒も、ちょうど下校するところだったのだろう。そう考えれば、玲雄のすぐ後ろを歩いていても不思議ではない。

 クラスメイトも後ろの女子生徒も特に自分とは関係無いだろうと、玲雄は視線を前へと戻す。コンクリートで出来た、あゆみ橋駅の駅舎が見えた。

 帰りの電車は満席で、立っている乗客の姿も何人かいた。ぎゅうぎゅう詰めに混雑しているわけでもない。玲雄は、周りに人のいない場所を選んで立った。

(ん……? 何だろう?)

 発車してすぐ、電車内の異変に気が付いた。やけに騒々しい声が響いている。一人のものではなく、複数の人物による大きな笑い声が聞こえてきた。

 声のする方へ自然と顔を向ける。玲雄がいる位置からロングシートを一つ隔てたドアの近くに立つ四人組が目に映った。

(騒いでるのは、あの人たちか。あの……外国人の四人)

 玲雄が見た四人は、いずれも体の大きな外国人だ。

 乗っている電車の沿線には米軍基地がある。その関係か、玲雄も街で外国人が歩くのをたびたび見かけた。

 基本的にはマナーの良い人達が多いのだが、この日は違った。

 集団で気が大きくなっているのか、外国人たちはスマホから大音量で音楽を流して騒いでいる。その音楽と笑い声と英語の会話は、離れたところにいる玲雄の耳にも騒々しく思えるほどであった。

 車両中に響くような大声の集団に対する、他の乗客の反応はどうであろうか。

(みんな……下を向いて、あの四人のことは見ないようにしてる)

 同じ車両に乗り合わせた日本人の乗客は、誰も何も言わず下を向いている。ある人は目を閉じ、ある人はスマホを触りながら。

 騒音に気が付いていないはずがない。関わり合いになるのを避けたがっているのだ。

 外国人たちは全員、大柄で体格もいい。シャツからのぞかせる腕にはイレズミも見える。おまけに話しているのは英語だから、言葉が通じるかも分からない。

 日本人は皆、大騒ぎする外国人相手に見て見ぬふり。しかし、そのうつむき顔は明らかに迷惑そうな色を浮かべていた。早く自分が降りる駅に着くよう祈っているようだった。

(みんな、心の中では迷惑してるんだと思う。誰かが……誰かが注意しなきゃ)

 そう思った瞬間、玲雄は外国人たちに近づいていた。

 近くで見ると、彼らの体の大きさをより実感する。身長一六五センチメートルの玲雄より、どう見ても二十センチは大きい。

 その迫力に飲まれないよう意識して、玲雄は四人の顔を見上げた。

「エ、エクスキューズ・ミー……プ、プリーズ・ビー・クワイエット」

 緊張しながら、たどたどしい英語で外国人四人に注意する。

 声をかけられた四人組は、笑い声を止めて玲雄の方を振り向いた。

 八つの青い目に見据えられて、玲雄の背筋がゾッと凍り付いた。

「What the hell you are talking about, are you conductor?」

 玲雄のことをジロリと睨みつけた外国人の一人が、早口の英語で怒鳴り散らしてくる。

 英語の意味は分からないが、かなりイラついているのは玲雄にも伝わった。せっかく仲間内で楽しくやっていたのを邪魔されて不機嫌な様子だ。

 玲雄の足はガクガクと震え、このまま引き下がってしまいそうになる。その気持ちを、両手を強く握り締めて堪える。

 足の震えを止めるため、つま先に力を入れれば自然とお腹にも力が入る。

 玲雄は下を向きそうになった顔を上げ、精一杯声を張り上げた。

「イッツ・パブリック・スペース! ノー・ノイズ!」

 単語や文法が合っているかなど分からない。そんなことを気にしている余裕もない。

 ただ思い付いたままに訴えかけただけだ。ここは公共の場なのだから、騒いではいけないと。

 外国人たちは、ポカンと口を開けて玲雄を見ていた。玲雄のことを気弱そうな日本人の子供だと考えていたのだろう。脅かしてやれば怖くなって引き下がると思っていたようだ。

 玲雄から思わぬ反撃を受けた外国人の一人が、不機嫌そうに鼻を鳴らす。更に、玲雄の方へと手を伸ばしてきた。

「Don't poke your stinky nose, bastard!」

 一瞬、殴られるのかと思った玲雄の体がすくむ。しかし相手は、玲雄の体を軽く押しただけで後ろを向いてしまった。

 早口の英語で聞き取れなかった(そもそも授業で習った単語かも分からない)が「あっちへ行ってろ」とでも言ったのであろうか。

 外国人たちは玲雄に背中を向けると、スマホの音量を下げて黙り込んだ。その様子に、今度は玲雄の方があっけにとられた。

 自分たちの側から立ち去らない玲雄に、四人組のうち一人が首だけで振り向く。

「Never darken my door」

 それだけ言うと、外国人は再び玲雄から視線をそらす。

 言われた言葉の内容は分からないが、玲雄とケンカする気は無さそうだ。さっきまでのように、うるさく騒ぐ様子もない。

 ガタゴトといった電車の走る音だけが響く。

 玲雄がふと横目でうかがうと、座席に座った白髪のおばあさんと目が合った。

 おばあさんは眼鏡の奥の目を細めて、玲雄に向かって小さな拍手を送ってくれた。

 おばあさんの優しい笑顔と音のしない拍手。玲雄はとたんに気恥ずかしさを覚えた。

 ペコリとおばあさんに頭を下げると、元いた場所まで戻っていく。

 今はもう静かにしている外国人のことはもちろん、他の乗客のことも意識して視線を向けないようにする。

(あのおばあさんは微笑んでくれたけど、他の人には嫌な思いをさせてしまったかもしれない)

 うるさくする乗客を注意するためとはいえ、玲雄自身も声を張り上げていた気がする。周りの人には、それが余計に迷惑に感じたかもしれない。

 人と人との言い争いを間近で見せられて、気分を悪くした人だっているかもしれない。

 玲雄は自分の頬が熱を持つのを感じた。

(それでも、おばあさん一人だけでも笑顔に出来たのなら……僕も、少しは近づけたのかな?)

 電車内のマナーを守らない人たちに注意を呼びかける。迷惑そうにしている他の人たちに代わって。

 その姿は、玲雄の中の理想と一致していた。玲雄がかっこいいと思う大人の姿。玲雄が憧れ、目指している人たちの姿と重なった。

 まだまだ未熟な自分。それでも今の行動で、少しでも目標に近づくことが出来たのならと玲雄は考えていた。

 そして翌日から、玲雄を取り巻く環境が一変する。

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