第2話 最初から
そよそよと吹く心地よい風が自身の髪を微かに揺らし、小鳥の囀りが近くで聞こえる。次第に聞こえてきたのはチョークの独特的な脳に響く音だった。それと共に聞こえるのは教師の話し声であり、授業をしていることが察せられる。
そう、授業である。
「小泉!いい加減起きろ!」
「はい!!」
教師の怒鳴り声が鼓膜を突き破り瞬く間に脳に伝わると、小泉は一瞬にして机に伏せていた顔を上げた。急に眼を開けた反動か、窓から入る明るい光が少々眩しい。現在の状況を確認しようと目をぱちぱちと開閉させ周囲を見渡すと、教師の怒鳴り声によりこちらに顔を向けていた他の生徒たちがひそひそと笑っていることに気が付いた。教卓には怒りを募らせた男性教師の姿。どうやら小泉は授業中居眠りをしてしまい、教師の逆鱗に触れてしまったようだ。
「もういい、お前は廊下に立ってろ。」
「え、でも、」
「早くしろ!」
思わず抗議しようとした小泉だったが、男性教師のあまりの気迫に怯んでしまい仕方なく背を丸めながら席を立ち廊下へ向かった。この世界に来たばかりだというのに、あまりにも酷い仕打ちなのではないかと小泉は心の中で悪態をつきながら教室をでる。
小泉は先ほど、図書室で出会った女子生徒が持っていた本に触れてしまった。それは小泉の能力の発動を意味する。おそらく先ほどの出来事は、触れた本の冒頭部分で起きるシーンの一部なのであろう。生憎、小泉はこの本をまだ読んだことがない。つまり、この世界からの脱出条件である扉を探すために、先の分からないストーリーを順調に進めなくてはならないのだ。
今までに触れてきた本はもちろん小泉自身が読んだことがあるお気に入りの本達ばかりである。読んだことがない本の世界に入るなど初体験であり、あまりにもハードルが高い。
小泉は一つ深く溜息を着くと、暇な時間を持て余していたため周囲を軽く見渡した。小泉が教室にいた時から思っていたことだったが、学校の施設が少し古いように感じられた。床が木製であり、窓や廊下の造りも現在小泉が通っている学校と少々違いが見られる。何より、今の時代生徒を廊下に立たせるなど体罰問題になりかねない。
「恐らく今はスパルタ教育が持て囃されていた1950年以降だろうね。」
「!?」
思考に耽っている中突如頭上から聞き覚えのある声がし思わず肩をビクつかせ上を見遣る。するとそこには、先程図書室で会った女子生徒が窓から乗り出してこちらを見ている姿があった。影が自身に覆いかぶさり、彼女の髪が顔を上げた自身の頬に微かに当たる。本の世界に入れるのは小泉自身のみだったはずだ。まさか彼女も同じ能力を持っているのだろうか。何故彼女が入ることが出来ているのか小泉には分からず、しばらくの間ただ狼狽えるばかりだった。気づけば既にチャイムが鳴っており、既に授業が終わっていることに後になって気づいた。
「…なんで…」
「やっぱり君、この世界のこと知ってるね?」
女子生徒はニヤリと厭らしい笑みを浮かべると、窓を飛び越え小泉に近づき、小泉は1歩後ずさる。言い方からして、どうやら彼女も小泉と同じ能力を持っている訳では無いようだ。だがこのままではどうも引き下がってくれそうにない。そもそも巻き込んでしまったのは小泉自身かもしれない。もしそうだとしたら説明する義務が小泉にはある。そう結論至った小泉はとうとう追い詰められ壁に背中をつけると、視線を横に流し、しばらくしてから重たい口を開き自身の特殊な能力について彼女に説明しだした。
「…へぇ、つまりここは君の力で来た本の世界ってことか…」
「…信じるのか?」
女子生徒はしばらく小泉の話を聞くと、1人納得したようにブツブツと呟き整理し始めた。小泉はそんな彼女を訝しげに見つめる。実際に本の世界には来てしまってはいるが、普通はこのような異常事態、信じれるはずがなかった。
「まぁね。さっきのシーンは実際に本に書かれてたし。それに本の世界に入れるっていう力が本当に存在するっていう話も、聞いたことはあるよ。」
「本当か!?どこでそれを!?」
小泉は思わず女子生徒に顔を近づけると彼女は驚き、しばらくしてから恥ずかしがりだしたかと思うとわざとらしくコホンと咳払いをした。
「私の家におじいちゃんが所持していた書庫があるんだけど、そこにあった本に書かれていたはず。それよりも、どうやってここから抜け出すかを考えようか。」
「そうだな。無事にこの世界の"終着点"に辿り着けたら、扉が現れるはずなんだ。」
扉は物語が終わらなければ現れはしない。毎回場所がランダムに出てくる扉を探すのも面倒だが、その扉を出現させるのもかなり面倒なのだ。女子生徒は何事もなかったかのように口に手を当て考え出し、しばらくするとゆっくり顔を上げた。
「この本はね、面影と繋がっているの。別視点っていうのかな。彼女が主人公の話。面影が発行されたのが平成の初頭で舞台が昭和後期だから、それと繋がっているこのお話も同じ時代なんだよね。」
「なるほど、どうりで学校が昔っぽい造りなわけだ。」
舞台が昭和後期となれば色々と納得がいく。女子生徒はこの本も既に完読済みのようであるため、ストーリーを進めるのも順調に行きそうだ。小泉は安堵の息をこぼすと、再びチャイムが鳴った。先程鳴ったチャイムは授業終了の合図だっため、このチャイムは授業開始の合図であろう。
「やばい、先生来る前に席つかないと。」
女子生徒と小泉は急いで教室に入りお互いの席に座る。先程は急遽教師に怒鳴られたため認識できていなかったが、女子生徒の席は1番廊下側の前の席だった。少ししてから教師が教室に入り、授業を開始する。本の世界に入る際、知り合いなどいた事がなかったため、小泉は心做しか浮かれていた。
「で、この後何が起こるんだ?」
授業終了後、小泉と女子生徒は再び廊下に集まった。この世界から脱出するためにはお互いの協力が必要不可欠である。女子生徒は少し考える素振りを見せたかと思うと、言いずらそうに言葉を漏らした。
「えーっと…死ぬ?」
「………は?」
「いや君だって面影を読んだことがあるなら知ってるよね!?女の子が死んじゃうってこと!」
この本の主題となった面影は亡くなった彼女を探し続ける主人公の話である。彼女視点のこの話でも、彼女は死ななければならないのだろう。だが、いくら話の中だとしても死ねと言われてそう容易に死ぬ事は出来ない。小泉自信、本の世界で亡くなるという行為をしたことがなかったため、死後の世界がどうなっているのか、現実世界に影響するのかどうかも分からないのだ。だが、ストーリー通り事を進めなくては扉が出現しない可能性があるため、死を回避するというのも難しい。女子生徒は必死に思考を巡らせている小泉を見ると少し笑い、再び小泉に視線を向けた。
「大丈夫、安心して。死ぬのは私だから。」
「……いやいやいや、そうはならないだろ。」
小泉には女子生徒に言われた意味が分からず、思わずアホ顔を晒してしまい、女子生徒に更に笑われる羽目になった。女子生徒は目尻に浮かんだ涙を拭うと、笑いを堪え言葉を漏らす。
「だって死ぬのは彼女だよ?男の君が死ぬわけないじゃん。君はこの世界での彼氏役。」
今まで小泉が入ってきた世界では常に自分1人だったため、毎回主人公役が小泉だった。そのため今回も主人公である彼女は自身の役だと勝手に思い込んでいたが、今回は女子生徒もいるため、より適切な配役が可能になったのだろう。よくよく考えてみれば小泉が座っていた席は面影の主人公である男と同じ席であった。
「あ、そっか…いやでも、それでも死ぬのはダメだろ。」
「そんなこと言ったってしょうがないでしょ。大丈夫、実際に死ぬわけじゃないし。」
彼女はこの世界での死が怖くないらしい。少なくとも小泉にはそう見えた。だが、果たしてそれが正解なのだろうか。彼女が死に、その後小泉は彼女を死んだと理解することが出来ず彼女を探し回ることになる。彼女が死ぬことはこの話の中で必要不可欠であるが、彼女の死への躊躇の無さに小泉は言葉に表せない感情を抱いていた。
「…私が死ぬのは今日の放課後、帰宅中君と別れた後車に轢かれて死ぬ。それまでの間、よろしくね。」
そう言った彼女は負の感情を一切顔に浮かべることはなく、笑みをこぼした。
その後、授業はあっという間に終わりを告げ、本日何度目かのチャイムが鳴った。来て欲しくない放課後がとうとう目の前に迫り、小泉は気持ち悪い冷や汗をかく。
「ほら、早く帰ろ。」
帰る支度を整えた女子生徒が動作が遅い小泉を急かす。これから死ぬというのに、彼女の行動や言動は至って普通だった。まるで普通に家に帰るかのように。
「…怖くないのか。」
「んー別に?私には死後も君を助けるっていう役目があるしね。」
帰宅中、小泉が尋ねると彼女はそう言ってくすりと笑い、持っていた学生鞄を腕の動きに合わせて揺らした。小泉と彼女が別れるのはコンビニが目印の十字路である。住宅街のため人影はあまりない。彼女は靴を鳴らして少し前へ出るとこちらに振り返り、再び笑みを浮かべた。
「じゃあね、また現実世界で会えたらいいな。」
「……あぁ。」
二人は軽い言葉を交わすと反対方向へと足を踏み出す。だが小泉はしばらく歩を進めたあと足を止めると、後ろを振り返り微かに見える彼女の背中を見つめた。後ろから聞こえてきた車の走行音が次第に近くなっていき、すぐ近くまで来ていることを知らせる。
小泉と別れて数秒後、後ろから急スピードで近づいてきたトラックによって彼女は轢かれることになる。トラックの運転手は昼間から酒を飲み飲酒運転をしていたそうだ。つまり今からトラックを止めることは不可能に近い。そうとなれば彼女をどうにかするしかないのだが、どうも最善の策が小泉には思いつかなかった。そのため小泉はろくに考えもせずに足を動かす。トラックが刻一刻と近づいてくる中、小泉は全速力で女子生徒の元に駆け寄った。こういう時、運動部に入っていればもう少し早く走れたのではないかと後悔するが今更遅い。足音に気づいた女子生徒がこちらを振り返り目を丸くする。トラックが小泉のすぐ隣まで来ていた。小泉は彼女の方に手を出すと、視界が黒く染まった。
「お可哀想に。まだ高校生だったのにね。」
「いつも笑顔で、とても優しい子だったのに。」
そのような哀れみの言葉が次々に耳に入るが、小泉は無の感情でそれらの言葉を聞き流していた。小泉の目の前にあるのは満面の笑みを浮かべた彼女の写真である。白いワンピースと麦わら帽子を被って撮ったこの写真は、自身と海へ出かけた時に撮った写真だった。また行こうと約束した思い出が、つい最近の出来事のように感じられる。
「こんにちは、娘と付き合っていたそうだね。」
呆然と写真を見つめていた小泉に隣から声をかけてきたのは彼女の父親らしき人物だった。どこか面影が彼女に似ているため、一瞬にしてそうだと分かる。小泉は何も言わず小さく傾くと、彼女の父親は窶れた顔を少し綻ばせ笑みを浮かべた。
「あの子と仲良くしてくれてありがとう。きっと幸せだったと思うよ。」
「………………彼女は、死んでいません。」
虚ろな目を動かし微かにそう言葉を零すと、彼女の父親は哀れみの表情を浮かべ、その後一言二言交わしその場から去っていった。
数日前、彼女の死亡認定が成された。ほんの少し前まで共に歩いていた彼女が今はもうこの世にいないなど、誰が想像できようか。少なくとも小泉には、彼女が死んだという事実を受け入れることができていなかった。
葬儀が終わり家に帰った後も小泉はただ呆然としていた。今もどこかで生きているのではないかという疑惑が払拭しきれなかった小泉は彼女を探すため街中を歩き回るようになった。
皆には諦めるよう何度も言われたが、どうしても諦めることは出来なかった。彼女を探すようになりどれ程の月日が流れた頃のことだろうか。小泉は以前彼女と来た海崖へと向かった。海崖から見る景色は絶景であり、夜になると星と合わさって更に綺麗であるのだが、彼女の事件があって以来、この場所には訪れていなかった。元々この場所には稀にしか人は来ないため人影はなく、小泉はただひたすらに道無き道を登って行った。
頂点へと辿り着くと、そこには1人の姿があった。さらさらとたなびく黒髪を緩くまとめたその女性は、数年前に見た彼女そっくりで。
「……遅いよ。」
「悪い悪い。」
彼女と目を合わせると、しばらくして共に笑みを浮かべた。
時は数年前に遡る。
全速力で走りなんとか女子生徒の元へ辿り着くと、小泉は考える暇もなく彼女を自身の身体で押し道の真ん中へと飛び出した。目の前に見えたのは車の眩しいライトだった。夕焼けがやけに綺麗に感じたのは死を目の前にしたからなのかもしれない。
ぎゅっと強く目を閉じ来るであろう衝撃に備える。だが強い衝撃の代わりに腕を強く引っ張られ小泉は思わず体制を崩した。
「馬鹿!何やってるの!?」
恐る恐る目を開けてみると、小泉の腕を掴んだ女子生徒が息を切らし自身に対して怒っている顔が視界に映った。トラックは無事に通り過ぎ、二人は道の端で膝をつき息を切らしていた。どうやら小泉は、助けたつもりであった彼女に助けられたらしい。
「…なんで俺を助けたんだ。」
「いやいやいや、それはこっちのセリフでしょ!?私が死ななきゃストーリーは進まないんだよ!?君だって死ぬところだったじゃん!」
今までは穏やかな表情を浮かべていたにも関わらず、女子生徒は今では少し涙を浮かべながらも小泉に対し激怒していた。少し意外な一面を見れたなと叱られているにも関わらず間抜けなことを考えながら、なぜ助けたのかという答えを探す。
「…目の前で死なれたら俺が引き摺るんだよ。それが嫌だっただけだ。」
「………え、そんな理由?」
「…悪いかよ。」
自分でも明確な答えは出てこなかったが、最も近い答えがそれだった。それともうひとつに、死への恐怖がない彼女を死なせてしまうことへの抵抗もあった。彼女は目を丸くすると少ししてから笑いだした。
「変な人だねぇ君。今日初めて会ったばかりの奴にそんなこと思うなんて。」
なぜ笑われているのか小泉には分からず少し気恥しい気持ちになるが、彼女は笑い終えると、でも、と言葉を発した。
「これからどうするの?このままじゃ脱出出来ないよ。」
「……一応、考えはある。」
小泉は彼女にそう答えると、自身の考えを彼女に説明し始めた。
「まさかわざわざ他県に行くなんて、思ってもいなかったけどねぇ。」
「…それしか思いつかなかったんだよ。」
自身が提案した案は、彼女は死んだことにするという内容だった。
崖から飛び降り行方不明_そういうことにしてしまえば死体が見つからずとも数年行方不明になれば死亡認定される。そのため小泉は彼女と暗い夜中海崖へと向かい、彼女が身につけていた鞄を海へと放り投げた。その後彼女は姿を変え遠い他県へと移り、死亡認定がなされ小泉が彼女を探すようになるまでの数年間を隠れて過ごした。身寄りのない中数年間を過ごすのはかなり大変だっただろう。そして小泉も、彼女は死んでいるということを信じられない主人公のフリに徹した。目の前で付き合っていた彼女が海に落ち傷心した哀れな主人公を。
「ここまで面倒なことをやるくらいだったら、いっその事死んじゃった方が楽だったのに。まぁでも、この数年間楽しかったしいっか。」
そう言って笑った彼女は小泉の手を取り崖の反対側へと向かう。そこにあったのは"扉"だった。彼女を見つけることが出来ず自殺しようとした主人公が霊となった彼女に助けられる、話の最後の舞台である。
「ここまで長かったな。」
「本当だよ、現世の私どうなってるかなぁ。もしかしたら死んじゃってるかも。」
「それはないだろ。」
お互いが苦笑すると、彼女はドアノブに手をかけようとする。だが既の所で手を止めると、こちらに振り返った。
「そういえば私、君の名前聞いてないや。」
「…今更かよ!?」
「だって気になっちゃったんだもん!!遅くなっちゃったけど自己紹介しよ!」
女子生徒は急かすように小泉に近づくと、小泉は分かったと彼女を落ち着かせ軽く咳払いをする。
「俺は小泉柊羽だ。」
「私の名前は岸本明日香。これからよろしくね。小泉くん。」
そう言って満足気に笑うと、止めていた手を動かしドアノブに手が触れ扉がゆっくりと開いた。
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