第18話 地獄の抜け道

「どうします、先輩」鴇田が弱い声で訊ねた。

「お前、余計な事を言いやがって、責任者に話聞くだけで良かったのに、何で被害者が食べた同じ激辛ラーメンが出てくんだよ。もう死因これ確定でいいな。早速、このラーメンを鑑識に廻して調べてもらってくれ」真剣な顔で舟橋がまくし立てた。

「そんなぁ、調べてくれるわけ無いですよ」鴇田が情けない声で答える。

「だったら、お前が一回食べてみて、事件性あるかないか確かめるしかないな。元はといえばお前の名誉挽回から始まった再捜査だ」

 舟橋のいやらしい言いぶり。

「……そうですね。検証しないといけないですよね。分かりました」鴇田は覚悟を決めた。

 これは明らかなパワハラだ。

「舟橋さん、全部鴇田さんに押し付けるのは先輩としておかしいですよ。刑事は現場が第一じゃなかったんですか」晶子が舟橋を責めた。

「そんなこと言うんなら、市川も食べろよ。辛いラーメンは健康にいいんだろ。だったら実際に食べて、関係の有り無を確かめたらどうだ」舟橋はすね始めた。

「私、ちょっと今お腹いっぱいで」

「食欲どうこうの話じゃない。残ったら全部鴇田が食べるから安心しろ」

 鴇田を見ると「はい大丈夫です。私は辛いの得意だったんで」と何故か過去形で話した。

「分かった、じゃあ俺も食べるから、市川も食べろ。お互い同じ量食べて検証する」と舟橋は変な交換条件を言い出した。


 覚悟を決めて晶子はお箸で赤いスープに沈んだ麺をすくい上げた。スープをなるべく絡ませないようにして、まず一口食べてみる。

 太麺が柔らかで口当たりはとてもいい。しかしその直後、味噌の旨味を感じる事無く猛烈な辛さが口中を刺すように広がった。

「意外と旨いぞ」舟橋もいけると思ったのか麺をすすった、がその直後、「ゲホッ、ゲホゲホ」と急にむせて咳き込み始めた。

「辛い、これは辛いだけです。先輩」

 語彙は変だが鴇田の言う通りだった。

 口の中のあちこちが辛くなり、美味しいはずの麺も噛めなくなる。血管が動き、頭が痛くなる。体中のあらゆる基幹が当時に拒否反応を示すようだ。

 晶子の動きは止まった。

「もうギブアップか、お前は唐辛子で人は死なないと言ってじゃないか、俺の直感の正しさを思い知ったか」

 それはさっき移動の車の中で、検索して見つけた『メキシコで世界一辛い唐辛子ブート・ジョロキアを食べた直後に死んだ男がいる』という元ネタ不明のニュースのことだった。そんな珍ニュースはあてにならんとさっきまで思っていたが、このラーメンをこのまま食べたら自分も死にそうだった。

「そうですね、これは或る意味凶器ですね。何でこれをわざわざ森田さん食べようと思ったのかが謎です」

 晶子は頭もボーッとして来た。

 舟橋の思いつき完全否定派のつもりだったが、実際にこのラーメンを体験すると、辛さで死ぬこともあるような気がしてきた。

「あのぉ、これ二番目ですよね、いやこれキツイですよ」

 顔面汗だくで鴇田も目を見開いて苦しそうだった。

「どんな感じだ」

「なんか唇と口の中が腫れてくるような感じがして、もう食べられないです」

「なっ、俺が言うのも分かるだろ。やっぱりこの激辛ラーメンが死因だよ。遺族にもこのラーメン食べさせたら納得するよ」

 確かに食べ始めて十分をすぎると汗が止まらなくなり、脈拍が早くなっているような気がする。

 やはりこれを食べて死んだのか? 

 晶子のハシを持った手が動かなくなり、時間だけが経過する。

「これを一日何人も完食する人いるがいるなんて、到底信じられません」

 晶子は水を飲んだが、今度は急に胃が痛くなる。パニック状態の胃が、水にすらショック反応を示しているかのようだ。もうそこには痛さしかない。

 ラーメンを見るのも嫌になった晶子は、他の客はどうなってるんだと、周りを見回した。

 カウンターの一人客らは険しい顔で汗だくになりながら、ラーメンと向き合っている。テーブルの客同士も無口にラーメンを掻き込んでいる。会話の余裕もなさそうだ。他にも、ある客は何かに怒っているような表情で、別の客は曇る眼鏡を何度も上げて悲壮な顔で黙々と食べている。噛んだり味わったりする余裕など誰にもない、ただかき込んでいる。憎い敵と戦う集団、何かの儀式のようにも見える。店長が言っていた『哲学的なんです』という意味も今なら分かるような気がする。わざわざ食べるのが困難なものを食べたくなる心理は、人間の本能にあるのだろう。

 そういえば、辛い(からい)と辛い(つらい)は同じ字だった。辛さが、痛みだとすると、痛点には麻痺や耐性があるらしい。日々辛い労働をしている人は、食べ物の辛さにも耐性が出来てくるものなんだろうか。


 そんなことを考えて気を紛らわそうとしても、口の中の辛さは中々紛れない。俺はここにいるぞ! と強い主張をし続ける。

「あーっもうやってられない」

 晶子はさらにボーッと他の客観察を続けていると、割とテンポよく食べている作業服の集団がいた。しかもその中には女性もいる。

 なんだあの人達、秘訣でもあるのか?

 さらに観察している、時々何かジュースみたいなものを飲んでいる。全員が同じ飲み物をテーブルに置いている。炭酸やオレンジじゃない、乳白色のもの。他のテーブルを見ても、同じ飲み物を飲んでいる人が結構いた。

 皆何を飲んでいるのか気になって、さっきの蛙亭似の店員を呼んだ。

「すいません、あちらの皆さんが飲んでる、ジュースみたいなものは何ですか?」

「ピックルです」

「えっピックル? って、あのヤクルトみたいなやつですか?」

「はい、何か韓国だと辛い料理食べながら甘いヨーグルトジュース飲むみたいで、ウチでもよく来る韓国人留学生のリクエストで置いてます。日本人のお客さんにも好評です」

 そんな素敵な飲み物があったのかい、おい。

「すいません、私にピックルください」晶子は即注文した。

 話を聞いていた舟橋が顔を上げた。

「こっちもプックル下さい。全部で三本ね」

 お互い会話しなくても、この案が地獄の救いのように思えて、何故か笑みになる。何か共通の問題と戦っている仲間意識が芽生えていた。


 確かに乳酸菌飲料を飲んだ後は一気に辛さが収まった。

「あっ、ちょっとリセットされました。もっと食べられます」

 リスタートした鴇田は、口は真っ赤にして勢いよく食べ始めた。舟橋もゆっくりとだが、食べている。

「どうした大丈夫か、残してもいいぞ」

「休憩しながら、もうちょっと食べてみます」

 乳酸菌飲料のおかげか、体が慣れてきたのか、不思議なもので二〇分ほどすると汗と鼓動が収まってきた。スープの温度が下がってくると味噌の旨味も感じるようになって来る。

 そうだやっぱり人は慣れるのだ。スープは残したが、麺はほぼ食べ切れた。

 舟橋と鴇田はピックルをお代わりしながら完食していた。

「お前たち体調は大丈夫か?」と、心配した舟橋に聞かれたが、三人とも体調に変化はなさそうだった。

「確かに辛かったですが、唐辛子の辛さは乗り越えられます。森田さんやはりこれを食べて死んだわけじゃないですよ」

 何か体を張って立証できたような満足感があった。

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