33話 緋彩の甘いお返し
昼食を終えた後で俺たちは再び読書をしていたが、午前中の読書の時間とは全く違った雰囲気だった。
緋彩も小説に集中出来ているようだし、俺もそのお陰で彼女の視線を気にせずに読書をすることが出来ている。
出来ているのだが……午前中に頭を悩ませていた問題とはまた違ったある問題が、俺の頭を悶々とさせていた。
「——ふふっ」
鈴のような可愛らしい笑い声が俺の鼓膜を優しく揺らす。
たびたび聞こえてくるこの笑い声と無防備に緩みきった彼女の笑みが、午後に新しく出来たある問題だ。
彼女は最近こそ俺に対する当たりが柔らかくなってきたが、ここまで無防備さを曝け出したことはなかった。
今まで彼女と過ごしてきた中で一番それを感じたのは約一ヶ月前に彼女と寝た時だったが、顔の緩み具合を比べたら明らかに今の方が無防備だろう。
故に、見たことのない彼女の一面が気になって仕方なく、集中力は午前中を下回っていた。
ふと、俺はまた目だけを動かして彼女を覗き見る。
普段のクールで澄ました表情からは想像も出来ない、年以下にすら見えてしまうあどけなさを纏った笑顔。
猫を彷彿とさせる大きな瞳が全て隠れてしまうほど目を細めるその様子は、心から小説を楽しんでいるのだと容易に想像がつく。
そして、その姿を見れば俺の心臓は跳ね、悶絶を隠すように唇に力が入る。
……可愛い。
その気持ち一つだけが俺の脳内を蹂躙し、思考をぐちゃぐちゃに搔き乱す。
今日だけで、彼女に対する可愛いという気持ちがどんどん膨れ上がっていく。
今までに見たことのない彼女の笑顔を見たからか?
いや、緋彩が俺のことを意識していると悟ったから、俺もより一層彼女を意識してしまうのかもしれない。
だとしたら、俺は単純な人間だな。
……元々知っていたことか。
何にせよ、今の状況は非常にまずい。
こんなに可愛い笑顔を見せ続けられたら、色々と限界が来てしまうかもしれない。
そして、それは何としても阻止しなければならないことだ。
どうしたらいい。
この状況を打開するために、俺は一体どう動けばいい。
巡らない思考を必死に巡らせた俺は、ある一つの答えに辿り着いた。
これしかないか……。
要は彼女の笑い声と笑顔を消してしまえばいいのだ。
俺の心の内を悟られずに、且つさり気なく彼女のそれらを消してしまう方法は……これしかない。
決意した俺は、ソファから立ち上がった。
「……どうかしましたか?」
小説から俺へと視線を移す緋彩。
予想通り、彼女は突然動き出した俺を気に留めた。
後は……。
「お前が今読んでる小説の中で、分からないことはないかどうかふと気になってな。どうだ、何かあるか?」
俺は小説を持ったまま、緋彩の向かいから隣へ移動し腰を下ろす。
「特にありませんが……か、彼方君? なんで私の隣に?」
「もし教えるとなったら、お前の向かいじゃ教え辛いだろ」
「でも、教えてほしいところは特にありませんよ……?」
「ん、そうか」
緋彩の震える声を聞き流すと、俺は再び小説を読み始める。
「……あの、戻らないんですか?」
「戻るの面倒臭い。隣じゃ駄目か?」
「いえ、別に構わないですけど……」
「ならここで読む」
「そ、そうですか……」
緋彩は俺のことを意識している。
だが、先程までは俺のことなど頭の隅にもいなかったはずだ。
だからこそ彼女はあれほどまでに笑顔を見せていた。
となれば、彼女との距離を縮めて俺のことを彼女に再び意識させれば、あんな笑い声や笑顔が消えるに違いない。
別れが早くなってしまうことを危惧もしたが、彼女はきっと一人では自分の気持ちに気づけない。
誰かに自分の気持ちを教えてもらわなければこの関係は続くと考えたため、俺は実行に移すことにした。
見れば、彼女の頬はほんのりと染まっており、顔も強張っている。
小説のページを捲る動きもぎこちない。
そして、ちらちらと俺を盗み見るように伺っている。
午前中と同じような雰囲気に戻ってしまったが、俺の心臓の負担は幾分かマシになった。
このままいけば、緋彩が晩飯を作り始めるまで何とか持ちそうだ。
……そう思っていたのだが。
「——っ!?」
ぽすっ、と俺の肩に頭が乗せられる。
その頭はもちろん緋彩で、突然の出来事に思考がまた巡らなくなってしまって……。
「ひ、緋彩?」
「お返し、です」
「お、お返し……」
何のことを言っているのか分からなかったため彼女の言葉を反芻させようとしたが、彼女から香る甘い匂いのせいでそれすらも覚束なくなってしまう。
「彼方君、私の隣に来ました。私に意識させました。……やられっぱなしは性に合いません」
「……お前も十分『覚』だろ」
まさか、勘付かれていたとは思いもしなかった。
十分に気を使っていたはずなのに。
「……後、小説内にこういうシーンがあったので。彼方君、分からないところを教えてくれるために隣に来たんですよね?」
その言葉も嘘だと彼女はきっと分かっているのだろう。
でも自分で言ってしまった手前、そこから引くわけにもいかなかった。
「あ、あぁ。そうだな」
「もう少し、このままでもいいですか……?」
「……あぁ」
肩先にしか当たっていなかった緋彩の頭が、俺の首に触れるまでやってくる。
それと同時に、彼女の肩が俺の腕に当たる。
そこから感じる彼女の体温はとても安心出来て……暖かかった。
「彼方君、暖かいです」
「お前の方が暖かいよ。むしろ熱いくらいだ」
「それじゃあ、彼方君が焦げちゃいますね」
「……別に、焦げたって構わねぇよ」
今は焦げてでも、緋彩を感じたかった。
彼女が晩飯を作り始めるまで、俺たちは小説も読まずにお互いの温もりを共有し合うのだった。
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