9話 氷の姫は普通の女子高生

「――何やってるんだ」


 俺は柚子川の腕を掴んでいた男の腕を掴み、唸るように声をあげる。


「ひ、柊……」


 俺が男に視線を飛ばすと、男はさっきまでの悪意と興奮に歪んだ顔を引き攣らせた。


「離せ」


 端的な一言を告げると男は素直にそれに従い、柚子川の腕を離す。

 俺はそのまま男を柚子川から引き剥がすように男を押し、柚子川と男の間に身を滑らせた。


「……お前、俺の女に何しようとした」

「そ、それは……」


 今までの威勢が嘘のように、男は体を縮こませる。

 俺はその隙をついて、胸倉を掴み更に追い打ちをかける。


「俺の緋彩に何をしようとしたって聞いてんだよ」


 ドスの利いた声で男を問い詰め、覆い被さるほどに睨みを利かせた。


「か、勘弁してくれ。謝る。俺が柚子川にしようとしたことは謝るから……!」


 男のか弱い声が耳朶を叩くので、俺は仕方なく男の胸倉を離してやった。


「俺だって大事にはしたくない。だから、もう俺らの前に二度と現れるな。それを約束出来るんだったら、さっさと消えろ」

「分かった! 約束するから!」


 情けない声で叫んだ後、男は逃げるように教室を去っていった。


 俺と柚子川しか残っていない教室で、俺は静かにため息をつく。

 まさか、こんなことになるとは思っていなかった。


「遅いと思って来てみれば、お前は何を――」


 言いかけて、振り返ろうとして、やめてしまう。

 だって、俺の背中に彼女のぬくもりを感じたから。

 声にこそ出さないが、きっとそうなのだろう。


「……ごめん、遅くなったのは俺の方だな」

「そんなことないです。……あの」

「何だ?」


 俺が問いかけると、柚子川は……。


「……助けてくれて、ありがとうございます」


 弱々しい声で言った。


「別に。もう少しだけこのままでいたほうがいいか?」

「そう……ですね。もう少しだけ、背中、お借りしたいです」

「……どうぞ、お好きなだけ」


 そうして教室はまた、しんと静まり返った。


 ……こうして柚子川の弱々しいところを見ると、案外普通の女子高生なんだなと感じる。

 氷の姫というフィルターを介して見ていたせいで、俺は勝手に彼女が強い人なのだと思いこんでいた。

 でもそれは俺の思い込みで、ただの偏見に過ぎなかったことを実感させられる。


 彼女だって、普通の女子高生なのだ。

 男に腕を押さえられたら、そりゃあ怖がりもするし怯えもする。


 だから俺は、柚子川が落ち着くまで背中を貸すのだった。






「――あ、ありがとうございました」


 頬を赤らめながら恥ずかしげに視線を逸らす柚子川に、俺は苦笑しながら言った。


「周りの男子は、俺がどうにかする。お前に任せてまたこんなことが起こったら、俺も胸糞悪いしな」

「……すみません」

「お前が謝ることじゃない。大体、悪いのは周りだ。お前を問い詰めて、迷惑をかけていたんだからな。それに、これは俺がしたいからすることだ。お前が気にする必要もない」

「柊君……」


 表情で分かる。

 その申し訳なさそうに瞳を伏せる様子と、先程までではないがほんのりと顔を赤くしている彼女に俺はため息をつくと、顔から笑みを消して言った。


「……こんなことで、俺の好感度を上げるなよ」

「えっ……?」


 意表を突かれたように、柚子川は目を丸くする。


「別に思い上がっているわけじゃない。言っておくが、俺がしたことは当たり前のことだ。偽りとはいえ、俺らは彼氏と彼女の関係。彼氏が彼女のことを守ってやるのは当たり前のことなんだよ」


 そう、これは至って当たり前のこと。

 彼氏が彼女の危ないところを救ってやるのも、彼女が落ち着けるように背中を貸してやるのも。

 だから、俺の好感度を上げる必要などどこにもないのだ。

 だって、これは当たり前のことなのだから。


「だから、俺に要らん感情を抱くな。関心するな。興味を持つな。それで苦しむのは……お前だ」


 お前、というのは間違いだ。

 柚子川に納得してもらうためそう言ったに過ぎない。

 本当に苦しむのは……俺自身なのに。


「当たり前のことが出来ない人だって、世の中にはたくさんいます。その人にとっては当たり前でないことが、柊君にとって当たり前なんですよ。だから、彼女を守ることを当たり前としている柊君は……すごいです」


 その言葉に、俺は目を見開く。

 そしてすぐに眉をひそめた。


「……要らん感情を抱くなと言った」

「すごいと感じるのは要らない感情ですか?」

「関心するなと言ったはずだ」


 彼女から褒められるのは初めてだった。

 いつもツンツンしていて、俺に嘲るように接してきたあの柚子川が、俺を褒めた。


 そのことに驚きを隠せなかった。

 喜びは、上手く隠せていただろうか。


「……じゃあ、申し訳なく感じるのは要らない感情ですか?」

「っ……それは……」


 要らん感情を抱くなと言ったのは俺だ。

 でも、その感情まで縛るのはどうなのだろうか。


「……好きにすればいい」


 考えることを放棄した俺は、判断を柚子川に委ねた。


「ありがとうございます。私、柊君に助けてもらい、その上面倒事まで引き受けてもらって、すごく申し訳ないと思っているんです。だから、私が出来る範囲で何かをお詫びしたいと思っているのですが……」

「物凄い形式張ってんな」

「余計な一言は要らないです」

「俺も別にお詫びなんて要らない。俺がしたかったからしただけだ」

「私もしたいからするんです。私の自己満足です。だから、何かお詫びをさせてください」

「そうは言ってもな……」


 食い下がってくる柚子川に、俺は思わずため息をついてしまう。


 俺と同じ手法を使われたんじゃあ、俺はそれを否定することが出来なくなった。

 それを否定してしまうと俺自身まで否定することになるからな。


 だからここは彼女のお詫びを受けるしかないのだろう。

 どういうお詫びかを言ってこない辺り、俺にお詫びの内容を決めてほしいらしい。

 だが、一体何をしてもらえばいいのか……。


「――あっ」

「なんですか?」

「お詫びの話だよ。前に食ったお前の玉子焼きが美味かったから、もし可能ならまた作ってもらおうと思って」

「そんなことでいいんですか?」

「そんなことでいい。俺はお前の玉子焼きが食べられれば、それで十分だ」


 俺が柚子川にそう言えば、彼女は再び頬を染めて瞳を伏せてしまう。


 こうやっていちいち頬を染めている辺り、本当に褒められることや求められることに耐性がないんだな。

 可愛いとか素直に思いたいところだが……自分でああいった手前、そう思うことも憚られる。


「……じゃあ、ついでにその他のご飯も作ってあげます」

「いいのか?」

「玉子焼きだけだと逆に中途半端ですので」

「それは有り難い」


 柚子川の料理が食べられると思うと、嫌でもテンションが上がってしまう。

 今も頬を緩ませてしまうくらいだ。


 ただ、欲を言えば出来立てが食べてみたい。

 出来上がった料理はきっとタッパーか何かに詰めて持ってきてもらえるのだろうが、冷める前と後とでは美味しさが全く違う。


「……出来立ても、食べてみたいよなぁ」

「出来立て、ですか?」

「あ、いや。流石にそこまでは望めねぇよ。今のも単なる独り言だ。気にしないでくれ」


 柚子川の玉子焼きが食べられて、他の料理も作ってもらえるだけでも十分すぎる程なのに、その上で出来立てを求めるなど烏滸がましすぎる。

 俺は、彼女の出来立てを食べられるほどの立場を有していなかった。


「……それじゃあ」


 柚子川はひとしきり考える素振りを見せると、そう言葉を置き、俺にあることを告げるのだった。

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