4話 氷の姫と連絡先

「――はっ? いやいやちょっと待ってくれ。俺が、ここで。それで……えっ?」


 帰り道が同じであることには驚かなかった。

 同じマンションであることには多少驚いたが、それでも正気は保てていた。


 ……俺がここまで取り乱しているのには、ある一つの理由があった。


「驚きすぎです。そもそも、気付きませんでしたか?」

「3月の中旬の話だろ? 誰か引っ越してきたことは音で分かっていた。だがそれまでだ。まさか……」


 まさか、俺の部屋の左隣に引っ越してきていたのが柚子川だったなんて。


「私は、入学時にはもう気づいていましたけど」

「はっ? なんで?」

「入学式が終わった後、家に帰ろうとしたら柊君の背中が見えたからです」

「ちょ、ちょっと待て……」


 柚子川は名簿に載っていた写真と名前だけで俺を覚えていたと言った。

 後ろ姿だけでは俺と認識出来ないはずだ。

 なのに、どうして柚子川はそれを俺と認識していた……?


 困惑していると、俺の頭をまるで見透かしたかのように柚子川は言葉を加える。


「勿論その時は柊君だと気付きませんでした。ですが柊君が私の隣の部屋へ入っていった時に、何気なく表札を見てみたんです」

「そしたら、俺だと分かったってことか……」

「柊君の名字はうちの学校に柊君しかいませんし、制服もうちの学校のものでした」


 マジか、と思わずつぶやかずにはいられない。

 だって少なくとも部屋が隣になってから二ヶ月半だぞ?

 いくら何でも気付かなさすぎだろ。


 自分の愚かさ故かは分からないが、未だ繋がれている左手に変な汗が滲んでいくのを感じる。


「その、手を離してもいいか? ちょっと手汗が……」

「……いいですよ」


 少しの間を置いて了承が得られた俺は、柚子川の手を離す。


「……ハンカチとかないんですか」

「俺にそんな女子力はない」


 俺が制服の下で汗を拭っているのに対し、柚子川は持参していたハンカチで俺の汗を拭いていた。

 呆れた表情で見つめられているが。実際ハンカチを持参出来るほどの女子力は持ち合わせていないのでどうすることも出来ない。


「その……ごめん。手、汚して」

「別に大丈夫です。家に帰ったら、結局手を洗うので」


 瞳を若干伏せたのは、きっと俺の手汗が不快に感じたからだろう。

 俺の汗を汚物扱いされたのに少し傷ついたが、実際その通りなので何も言えない。

 それどころか柚子川のがっかりした雰囲気のせいで申し訳無さを強く感じてしまう。


「……早く手を洗えよ。それじゃあ――」

「あっ、ちょっと待って下さい」


 居たたまれなさから早く自宅に入ろうとドアノブに手をかければ、上擦り気味の声が廊下に響いた。


「……どうした?」


 先程の雰囲気とは明らかに違う声が気になったのと、その声が「待って」と制止をかけたので俺はそのまま上半身を左にひねる。

 俺を止めた彼女はどこかそわそわとしていたが、やがてゆっくりと口を開いた。


「あの……連絡先、交換しませんか? 恋人を演じるには連絡先を知らないと、何かと不便になりそうなので」

「ん、いいぞ」


 俺は制服の下のポケットに入れていたスマホを取り出し、明かりをつける。


「考えてみればまだだったよな。ほら、QRコード読み取れ」

「あっ、はい」


 きっと、柚子川は連絡先を聞くことに慣れてないんだよな。

 声が上擦ったのも、少し躊躇っていたのもそのせいだろう。

 恋人を演じるのなら連絡先を交換しておいた方がいいという彼女の考えにも納得がいった。


 慣れた手付きでスマホを操作すると、連絡先の載ったQRコードを画面に表示させて見せる。

 ところが彼女はスマホの明かりをつけたものの、そこで止まってしまった。


「どうかしたか?」

「えっと……これ、どうやって読み取ればいいんですか」

「ん? あぁ。これはな……」


 そうか。

 連絡先を交換するのにも慣れていないから、どうすればいいのか分からなかったのか。


 俺は彼女のスマホに指を指しながら、彼女が理解出来るよう順を追って説明していく。


「まずはアプリを開いて、右上隅にある友達追加アイコンをタップする」

「……こうですか?」

「そうだ。次は下にスクロールして、『QRコード読み取り』ってところをタップすると……」

「あっ、カメラが起動されましたよ」

「そしたら、俺のスマホに表示されているQRコードをこの枠に合わせるようにして……」


 枠とQRコードがピッタリと重なると、ピコンという電子音とともに柚子川のスマホに俺の連絡先が表示された。


「うわぁ、今の時代ってハイテクなんですね」

「お前はいつの時代の人だよ」

「だ、だってこういうことはあまりしたことがないんですもん」


 俺が苦笑していると、柚子川は口をへの字に曲げながら俺を睨みつけてきた。


「ごめんごめん、別にそこを咎めてるわけじゃない。所謂『ツッコミ』ってやつだ。サラッと受け流してくれると助かる」

「ツッコミ……」

「全部真に受ける必要なんかないってことだよ」


 会話に融通が利いていないところから、柚子川はあまり人と話すのは得意ではないのかもしれないな。

 だとすれば周りと距離を置いているのも頷ける。


 ……段々と、柚子川のことを理解してきたような気がした。


「とりあえず、俺の連絡先が登録出来たんだったらもう帰れ。このマンションに住んでるってことは一人暮らしだろ? いろいろやらなきゃいけないことがあるんじゃないのか?」

「そうですね。そろそろ夕飯の支度をしないといけないです」

「だったら早く帰らないとな」

「何回も言われずとも分かっています」


 俺だって、別に会話が得意なわけではない。

 これくらいは許してほしいところだ。


「……帰らないんですか?」


 柚子川が自宅の扉に手をかけるのを眺めていると、その俺に気付いたらしい彼女はこちらに視線を向けながら小首を傾げた。


「いや、見送ったほうがいいかと思ってな。気にかけずにさっさと家に入るのも、なんか無愛想だろ」

「っ……そこまでしなくてもいいです」

「ん、そうか?」

「はい。では、さようなら」


 そそくさと、柚子川は扉の先へ消えていった。

 耳が少し赤かったような気がしたが、気のせいだろうか。


「……やっぱ、よく分かんねぇな」


 傍から見ていたときよりはいろんな表情をしてくれていたが、それでも柚子川の考えていることは分からなかった。


 ある煩悩を頭を振って脳みそから放り出すと、俺は自宅の扉を開くのだった。

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