3 こうげき - <飽食のアンギル=共喰のグレイハウンズ>
ごぼっ、ぼこっ――ごぼり、と。
どこからか奇妙な水音が聞こえてくる。
それは、バケモノの足元からだった。その足元に広がる――わだかまるような、影。
平面であるはずのそれが、泡立っている。陽差しによって投射されたものではない。あれは、バケモノの一部だ――どくどくと、鼓動するように、脈動するように――そこから何かが、溢れ出る。
ぼこり、ぽこり――もこり。
立ち上がるように、起き上がるように、影のなかからのっそりと浮かび上がったのは――丸々とした、毛むくじゃらの――先ほどの、オオカミの群れだ。
しかし、それはついさっきまで少年を追い立てていたケダモノとは大きく異なっている。バケモノと同じ闇色の質感/体毛を持ちながら、白く濁った輪郭が溶け合った――<
『子連れオオカミですか。いくら数を揃えても、個々がクソザコである以上いくつあってもわたくしの敵ではありませんね』
「いや、あの……聖剣、さん?」
持ち上がらないのだが。状況だけ見れば振り出し、あるいはより悪化している。うううううッ、という唸り声がバケモノの足元から聞こえてくる。
『聖剣さまと呼びなさい』
……使い物になりそうにないのだが? むしろ、こんな重量のお荷物を持っている方が命取りに――
『来ますよ、振り払いなさい!』
うううーっ、と重複していた唸りが――わんわんわんわんわん!! けたたましい吶喊の声と共に、グレイハウンズが突撃する。
「うぁあああああああああっ!!」
もはや、ヤケだった。ただひたすらにがむしゃらに、力任せの運任せ――足に力を込めてしかと地面を踏みしめ、両手で握った大剣をすくい上げるように、下から上へと持ち上げる――完全には上がらない。しかし振り上げた勢いのまま、少年は回転した。
目をつぶり、歯を食いしばり、感覚器官の一切を閉じて全神経を筋力の稼働に集中する――グレイハウンズが飛び掛かる。
ギャインっ――それは風切り音か、はたまたオオカミの絶叫か――ぐるんと一回転し、制御がきかずにふらつきながら大剣を下ろした時、視界を塞ぐ寸前に垣間見たグレイハウンズの姿はどこにもなかった。
周囲には血飛沫のような白濁と黒色の何か――液体になり損ねたようなそれは、地面に染み込むように消えていく。
「や、た……?」
『ふう……久しく忘れていたこの感覚。風を切るのは爽快ですね!』
楽しそうな声、感情が脳内に広がる。はは、と少年の口元が緩む。剣の感情によるものではない。一難去って、緊張が解け――
『油断してはいけませんよ』
との声に、再び意識が引き締まる。手に力を込めるが、ついさっきまでの必死さにはいまいち足りない。自分はやれる、そんな慢心があった。
『あれは仮にも狩猟に特化した存在――狩りの化身といえるもの。一瞬の油断が命とりになります。わたくしを振り抜いたその刹那、あなたが背を向け刀身が空振りしたその間隙……あれは見逃さないでしょう。今のままではそこを突かれればおしまいです。早々に親玉を潰しましょう。ザコは無視、一息にやりますよ』
「そ、そうは言ってもですね……!」
攻めるにはこの聖剣を引きずっていく必要がある。振り抜くにも予備動作が必要だ。それは明らかな隙になるだろう。近づけば、間違いなく『親玉』も動く。
『回転し続けるのです。重さに任せて遠心力を高め、回転を速めて間隙を狭める――近づきさえすれば、こちらのものです』
「う、うう……」
先ほどは飛んできたグレイハウンズに、聖剣のスイングがクリーンヒットしただけだ。幸運に過ぎない。もしも刀身を避けて足元に食らいついてきたら? もしも、『親玉』が上から押さえつけてきたら――
『わたくしを信じなさい。わたくしこそ、正義に勝利をもたらす伝説の聖剣なのですよ? さあ――踏ん張りなさい。敵も第二陣を放つようです――』
「っぁあああああああああ!!」
ぼこぼことグレイハウンズが現出する――もはや、やるしかない。一か八か、攻撃こそ最大の防御……!
足を踏ん張り、腕に力を込めて聖剣を持ち上げ――振り回す。回転のエネルギーに身を委ねながら、しかし着実に『親玉』との距離を詰める――ぐるん、ぐるん、グルングルングルンと――
『どちらが
刀身が輝き出す――まるで空気との摩擦によって熱を帯びたかのように――振り抜いた斬像に、炎が灯る。
「gruu,aaaaaa――!!」
雄叫び、あるいは悲鳴だった。耳をつんざくような叫び――震える空気、白いもやを切り開き、少年と聖剣がバケモノに喰らいつく――勢いを増す炎がグレイハウンズを飲み込んだ。
『ひとが動けないのをいいことに散々
手放さないよう必死に聖剣の柄にしがみついていた少年の足が、不意にがくりと脱力する。聖剣の回転軌道がずれ、背の高い雑草を刈り取り燃やし尽くす。そして地面を抉り飛ばし、土埃を舞い上げてようやく、聖剣は停止した。
少年は地面にへたり込む。
「め、が……おぇええええ……」
腹の底から何かがこみあげて来るが、それが口から溢れることはなかった。代わりに喉奥に違和感と、口内にいかんともしがたい苦みが広がる。
『ふっ……わたくしの<
「せ、声援……?」
何か口汚く罵っていたのは分かる。応援されて気力が高まるならまだしも、これまでにないほどに力が抜け切ってしまった。頭が回らない。
緊張が完全に解けていた。
――静寂が、戻っている。
いや、少年が気が付いた時にはもうオオカミの鳴き声がしていたから、ようやくなんの音も、気配もない、真の静けさを感じることが出来たのだ。そのせいか、脱力も弛緩もこれまでの比ではなかった。諦観によるものではない、安心から来る本物の脱力、緊張の弛緩。
「オオカミ、は……?」
既にその姿がないことは、周りを見回さなくても分かっていた。しかし、具体的にどうなったのか。それを知るため、虚空に問いかける。
『このわたくしに恐れおののき、逃げ去りました。よほど愚かでなければ、しばらくこの地に近づくことはないでしょう。……低能非力の割に、あなたはよく頑張りました。わたくしも鬼ではないので、少しくらいは褒めてあげましょう。これからも従順に活躍しなさい』
「はあ……」
ぜんぜん頭が回らない。頭のなかで他人の声がするというこの異様な状況に関しても、もはやなんとも思わなくなっていた。脳みそがどろどろに溶けてしまったかのようだ。
だらりと、地面に膝をついた格好のまま、上半身を前のめりに投げ出した。我ながら身体が柔らかいなと、取り留めのないことを思い浮かべながら、そのまま足も伸ばしてうつ伏せで地面に横たわった。もう、一歩たりとも動きたくない。
不思議なのは――こんなにも疲れたと感じているのに、身体の方はまだまだ動けそうなほど、筋肉に疲労が蓄積していないことだ。身体よりも、精神が疲れているといったところか。
それに加え、痛みも何も感じない。散々噛みつかれ引っかかれたはずの血塗れの脚も――まるで最初から、負傷などなかったかのように。
終わってみれば全てが夢か幻かのようで――思考が柔らかく溶けていく――薄もやが視界を覆う――
『不用心なことこの上ないですが――いいでしょう。今はしっかりと休みなさい。先も言った通り、しばらくここには何も近づかないでしょうから。……じきに日も暮れます。夜目が利かないのなら移動も困難でしょうし。……ところであなた、わたくしの話を聞いていますか? わたくしがこうして話しかけているというのに、返事の一つもしないとは何事ですか。分かっていますか? あなたはわたくしのげぼ、』
少年の意識はとうに遠のいていた。それでもなお聖剣は話し続ける。
日が傾いてきたのか、森のなかは次第に薄暗くなっていく。木々がなく開けたこの場所はまだ明るいが、少しでも枝葉の陰に入れば、途端に暗闇に包まれるだろう。
戦闘の影響で吹き飛ばされていた白もやが再び集まり出すも、地面に投げ出された聖剣の周囲だけは不思議と空気が澄んでいる。その刀身の帯びる光がもやを寄せ付けないのか、喋り続ける聖剣は闇のなかであっても輝き、さながら地上の星のようであった。
『ところで、わたくしは未だにあなたの名前を聞いていません。ただの下僕とはいえ、名前くらい知っていてもいいでしょう――だというのに、あなたの中には何もありませんね。……仕方ありません、わたくしが名付け親になるとしましょう。さて、どんな名がいいでしょう? ところでわたくしの
聖剣の放つ光に照らされ、闇のなかに浮かび上がる――薄汚れたぼろ切れに華奢な身を包む、少年の姿。透けるような銀色の髪は少年にしては少し長く、目を閉じた横顔は少女のように端正だ。
その首筋――左肩に向かう辺りに、青白い肌に滲む染みのような痣がある。
それは十字のような――星形の痣だった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます